文芸部の胸キュンシチュエーション

無月兄

文芸部の胸キュンシチュエーション

 「よしっ。みんなで壁ドンをやろう」



 突如大森先輩がそんなことを言い出した。

 私、有田真琴を含む文芸部は、高校の片隅にある部室でたった四人という少数で活動していた。とは言ってもそれほど熱を上げて取り組んでいるわけじゃない。普段は本を読むことがほとんどで、たまに思い出したように詩や短めの小説を書くくらいだ。そんなまったりとした部活ライフを送る私たちを振り回すのはいつだって大森先輩だ。先輩は時に突拍子もない事を言い出す。



 今だってそうだ。私達は今、珍しく四人全員が小説を書いていた。だけどこれも元はと言えば先輩の発案だ。先日先輩はスマホを片手にこう言った。


「ネットの小説サイトで恋の話の短編コンテストやってるから皆で応募してサクッと入賞しよう。恋の話なんて胸キュンで甘々なのを書けばいいんだから誰でもできるって」


 そんな全ての書き手と読者にぶん殴られそうな発言を聞いて他の文芸部員は一様に顔をしかめたけど、皆書くこと自体に異存は無く、各々がどんな話を書くか考え始めた。

 それがいきなり壁ドンをしようとは、いったいこの人の頭はどうなっているのだろう。

 壁ドン。少し前に流行語にもなったし、私だってその存在は知っている。主に男の子が相手の女の子を壁際まで追い詰め、壁に手を突き立てる行為。主に少女漫画で見られるシチュエーションだ。


「なぜいきなり壁ドンを?」

「俺達自分の話を書いてる途中なんですけど」


 私と、隣にいた水野君がそろって困惑しながら声を上げる。


「だって皆全然手が動いてないじゃない」


 確かに先輩の言う通り、恋愛短編と言うお題に全員が思いの他苦戦していた。私だってそうだ。それは短編故の文字数制限や表現方法の貧困さもあるけど、それ以上に根本的な原因は話がうまく浮かんでこない事だった。

 もともとそこまで熱心に活動していたわけじゃないから話を考えろと言われてすぐに出来たりはしないのだ。

 他の皆も私と大差ないようで、一向に筆は進まないでいる。だからと言って――


「そう言うわけで壁ドンしよう」


 先輩の言うことは相変わらず理解不能だ。なぜこの状況で壁ドンをしようなどと言う発想が出てくるのだろう。


「恋愛と言ったら胸キュン、皆が書けないのは胸キュン成分が足りてないからだよ。ここはひとつ壁ドンでもやったら少しは違ってくるんじゃないの」


 違わないと思う。そんなんで話が書けるようになったら苦労はしない。だけど先輩はやる気だった。


「いいじゃない。やろうよ壁ドン」


 とうとう先輩はジタバタと駄々をこね始めた。何となくわかった。先輩はきっと小説を書くのに飽きたんだ。他の皆がどうするといった表情で顔を見合わせる。


「このまま放っておいても面倒なのでやってあげます?」


 さらりとキツイことを言ったのは唯一の一年である田村君。私も考えている話がまとまらず行き詰っているのも事実だ。それが役に立つかはともかく、気分転換の一つもしたい。


「仕方ないですね。ちょっとだけですよ」

「やった」


 そうは言ったけど、問題はこの中の誰が壁ドンをするかだ。一人は言い出した部長で良いとして、問題はもう一人。私はちらりと隣にいる水野君を見た。

 一人が女子である部長なら、残る一人は男子である水野君か田村君のどちらかになるだろう。だけどできる事なら水野君であってほしくなかった。

 何を隠そう、私は水野君に片思い中だ。そんな相手が例え成り行きとは言え自分以外に壁ドンする場面なんてあまり見たくはない。

 だけど私が何か言う前に先輩の口が動いた。


「ほら田村君、カモン!」


 先輩に指名されたのは田村君だった。私はほっと胸をなでおろす。


「わかりましたよ。これで良いですか?」


 田村君はしぶしぶと言った感じで壁ドンをやってあげている。

「えーっ。もっと勢いつけてやってよ。あと甘いセリフもお願い」

 その様子を眺めながら隣を見ると水野君が疲れた顔をしていた。さっきあんなことを考えていたからか、何だか彼の顔をまともに見る事が出来ない。

 なんとか気を紛らわそうと声をかける。


「完成できそう?」

「全然。読むのは好きだけど書くのはさっぱりだ」


 彼は普段自分で何か書くことはあまり無く、殆ど読む専門なので、私達の中でも一番苦戦している。その代わり読書量では文芸部の中でも群を抜いていて、しかも見る目は確かだ。私が今まで書いた話の中でも彼からアドバイスを受けることで完成に至った作品がいくつかあり、できれば今回も意見を聞きたいのだけど、今は自分の話で精一杯のようだ。


「壁ドンって前に流行ったけど、あれってやられて嬉しいもんなのか?」


 先輩と田村君を見ながら言う。


「確かに漫画とかでは定番だけど、そこまでやって欲しいとは思わないかな」


 私は別に壁ドンに強い思い入れは無かった。持っている漫画にも何度か登場するし、嫌いと言うわけでもないけど、言うならば普通だ。

 それよりも、似たような定番シチュエーションで言うと私は断然頭ポンが好きだ。

 優しく頭に手を置くことで、時に慰め、時に褒めてくれる頭ポンのシーンが昔から好きだった。それは世間でどれだけ壁ドンが流行ろうとも変わることは無く、私の中でのナンバーワン胸キュンシチュエーションとして君臨し続けた。あまりに熱く語ると引かれるだろうから人に言ったことは無いけれど。

 そんなことを考えていると、壁ドンされる事にも飽きたのか、先輩がようやく田村君を開放していた。


「どうでしたか?」

「うーん、思ったほど胸キュンは無かったな。田村君の背が低いからかな」


 確かに先輩と田村君では身長はそんなに変わらず、壁ドンをやるにはもう少し背の高い人の方が似合うかもしれない。だからってなにもそんな言い方は無いだろうに。ほら、田村君落ち込んでる。


「あ、うそうそ。背が低いのもギャップがあるし、見られないってほどじゃないから」


 流石に悪いと思ったのかフォローしているけど、果たしてそれで慰められるのか疑問だ。


「じゃあ次。有田さんと水野君、あんたたちがやって見せてよ」


 先輩はそう言うと私と水野君を指した。


「俺達ですか?」


 水野君が慌てて言った。私だって同じだ。いくら壁ドンはそこまで好きなシチュエーションじゃないと言っても、好きな人にやられるとなると話が違う。恥ずかしすぎる。


「何で私達がやらなきゃいけないんですか」


 顔を真っ赤にしながら抗議する。だけど先輩も引こうとしない。


「だって自分がやられるのと人のを見るのはまた別物じゃない」

「そんなの少女漫画でも見ればいくらでも載ってるじゃないですか」

「三次元のが見たいの」

「嫌です!」

「ケチ!」


 私と先輩が言い争っていると、水野君が肩を落としながら言った。


「先輩。有田も嫌がってますし、勘弁してくれませんか」


 水野君の声には何だか元気がない。そこで私はハタと気づいた。今まで嫌だ嫌だと言っていたけど、そこまで全力で拒否られては水野君だっていい気分はしないだろう。実際は嫌と言うわけじゃなく、むしろ少し嬉しくもあるんだけれど、そんな事分かるはずもない。


「いや、別に水野君だから嫌だって言ってるわけじゃないんだよ。相手が誰だったとしても、やっぱり恥ずかしいだろうなって思って」

「気を使わなくてもいいんだ。気にしてない」


 そうは言うけどその顔は明らかに落ち込んでいた。オロオロする私たちを見て、先輩がにやりと笑った。


「あらら、傷つけちゃったね。これはもうOKして壁ドンしてもらうしかなさそうね」


 元凶が何を言うか。


「いえ、有田も迷惑だろうし、やっぱりできません」

「迷惑なんかじゃない!」


 私は思わず叫んでいた。その声の大きさに、思わずその場にいた全員が言葉を失う。しまった。


「いや……べつに、嫌だとか迷惑だとかは思ってないんだよ。ただ、ちょっと恥ずかしいだけで……」

「じゃあ、壁ドンやってくれる?」 


 先輩がすかさず言った。それとこれとは話が違う。だけどここでまた嫌だと言ったら間違いなく水野君を傷つけることになるだろう。


「わかりました。やりますよ、壁ドン」


 少し迷いながら、私はそう言った。その途端、先輩はガッツポーズをする。


「それじゃ、早速やってみよう」


 先輩が強引に私を壁際まで押していく。私がどんな思いでいるかも知らないで。そう思っていると先輩はそっと私の耳元で囁いた。


「いいじゃない。好きな相手から壁ドンしてもらえるんだよ」


 その瞬間、私の頭は真っ白になり、目を丸くしたまま先輩を見る。


「知ってたんですか?」


 口をパクパクさせながら掠れた声でそう言うと、先輩は答える代わりにニッコリと笑った。いったいいつから?まさかこの意味不明な壁ドンごっこも本当はそれが目的で?そんな考えが頭をよぎるけど、それを言葉にする前に先輩は引っ込み、代わりに水野君が私の前に立った。


「有田、本当に良いのか?」


 そう聞いてくる水野君は何だか緊張気味だ。けれど私ほどではないだろう。早くも心臓がバクバクと音を立てている。


「う、うん」


 なんとか声が裏返らないよう気を付けて返事をする。大丈夫、嫌じゃない。本当はむしろ嬉しい状況だ。ただ心臓が持つかわからないだけ。


「じゃ、行くぞ」


 そう言って水野君は一歩前へ出る。それだけで私との距離が一気に縮まった気がした。そして


 ドン!


 彼の両手が伸び、私の顔の両側に一気に突き立てられた。壁ドンの中でも左右両方の手を使う両手ドンだった。片方の手だけを使う通常の壁ドンとは違い、両側に手を置くことによってより確実に相手の逃げ道をなくす。


(って、そんなことより顔近い!)


 こんな体制になったのだからそうなるのも当然だ。今の私は文字通り水野君しか見えなくて、その呼吸さえも聞こえるほど近い場所にいた。よく見れば水野君の顔も赤く染まっている。

 そっと、その唇が動くのが分かった。


「ごめん。本当はここで気の利いたセリフを言わなきゃいけないんだろうけど、緊張して全然出てこないや」


 水野君はそう言ったけど、私にはそれだけで十分だった。

 そっと壁から手を放し、水野君の体が私から離れていく。私はそれを惜しみながら見ていた。


「良かったよ」


 そんな私の思いをぶち壊すように先輩がのんきな声を上げた。


「どう、キュンときた?」


 そりゃ好きな人から壁ドンされるだなんて文句なしにキュンと来ましたけど、それならそれでもうしばらく余韻に浸っていたかったのに。

 そんな思いで先輩を睨むと、水野君がまたも心配そうに言ってきた。


「なあ有田。やっぱり嫌だったか?」


 えっ、何でそんなこと言うの?こんなに嬉しかったのに。


「だって、やってる間ずっと緊張してたし、顔も強張ってたから…」


 そりゃ緊張はするよ。顔だって強張ってたかもしれないけど、嫌だったからってわけじゃないのに。このまま水野君に誤解されたらせっかくの思い出も台無しになってしまう。私は勇気を出して言った。


「そんなことない。ちゃんと…キュンとした」


 なにこれ。めちゃくちゃ恥ずかしい。だけどそう言うと水野君も私につられたのか顔を真っ赤にした。


「良かった。嫌だったらどうしようかと思った」


 照れながら言うその顔はとても可愛かった。壁ドンは特に好きなシチュエーションじゃないと言ったけど、今日限りでそれは撤回しよう。きっとこれから漫画とかで壁ドンのシーンを見るたびにこのシーンを思い出して悶える事だろう。


「それで先輩、肝心の小説のアイディアは出たんですか」


 田村君が疲れた顔で言った。そう言えばすっかり忘れていたけど元々はそれが目的だったっけ。


「それが全然。まあいいじゃない。面白いものが見れたんだし」


 先輩のその発言に私は一気に脱力した。これだけ散々振り回してそれか。まあいいか。先輩の言う通り面白い体験ができたのだから。


「何はともあれ、お疲れさま」


 力の抜けた私を元気づけようとしたのか、水野はそう言って私の頭にポンと手を置いた。

 ……私の頭に、ポンと手を置いた。


「あ、頭ポンだ」


 先輩が私達を見ながら言ったけど、私はそれに反応する余裕もなく固まっていた。

 頭ポン。そう、私にとってのナンバーワン胸キュンシチュエーションだ。

 それを好きな相手に、こんなに自然にやってもらえるだなんて。


「どうした有田。やっぱり嫌だったのか?」


 私の様子を見てオロオロする水野君だったけど、フォローするのは少しだけ待っていてほしい。今しばらくはこの余韻に浸っていたいから。

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