目眩、それから

井村もづ

目眩、それから

 夜はどこまでも凪いでいる。

 特に真夜中、補聴器を外したあたしの耳にそれは波のように寄ってくる。ざざん、ざざん、ざ、ざざん。日頃世界に飲み込まれたものが主張するようなその感覚は、ひどく気持ちが悪くて、月に一週間程ーー女特有の、生理と重なる時には体も重いし気分も重いし最悪だった。

 あたしは山の中の小さな町にある、真夜中の病院をさまよいながら考える。補聴器を外してすっきりと軽い耳を空気にさらしながら、肩までの髪の毛を一つにゆわいて、波の中をひっそりと歩いている。

 波音なんて聞きたくなければ、病室を抜けるときに補聴器を着ければいいだけの話だ。それでおしまいなんだけれど、いざ寝ようって時間が近づいてきたらどうにもそれを着けたくはなくなってしまう。

 小指の腹にも満たない大きさの、肌色の、豆粒みたいなやわらかな形のものーーなんというか、その新しい補聴器はどうにも耳にこそばゆく、そしていまだに調節が難しくて困ってしまう。自分の思い通りにならないところで、この新しい耳は、まだあたしの耳そのものではないんだなって自覚する。

 そんなこと言ったって耳が聞こえなくなって何年よ、と友達にはその違和感を主張すると笑われるけれど仕方がない。新しい耳に慣れないものは慣れないままだ。泣いてもわめいてもそのまま。この違和感ってやつが沈黙の波音以上に厄介で、気持ち悪いなんて生やさしい表現じゃなくてどっちかっていうと嫌悪感、だった。

 あたしの愛しい耳が聞こえなくなってから二年が経つ。

 あたしの通っている中学校はわりと小さくて、少しでも誰かが周りと違うと分かるとすぐにおびれせびれくっつけて話が広がった。あたしの場合は耳が聞こえないということが、当たり前のように広がっていった。

 周りからのあわれみの視線にも怖がっていたのははじめの三ヶ月だけで、いい加減慣れた。短期間でそれだけ強くなることができた、だから。もう新しい耳に慣れてもいい頃合いのはずなのに、いまだに違和感しかない。気持ち悪いし、嫌い。

 それでもこの補聴器は見た目はそんなに悪くないし、よく聞こえる。憎らしいことに最先端の技術を使っているそうだ。

 便利なものは便利なんだろう、と思う。

 音が聞こえたくないわけではない、と思う。人並みに生活がしたい、とちょっとでも思って、たどり着いた先がそれだったから。それでも必要じゃない時には着けたくない。

 嫌悪感よりも気持ち悪さの方がましだった。あたしは断然気持ち悪さでいっぱいの波音を選んで、その中に意識をゆだねて眠る。不思議なことに、眠りだけはその音に邪魔されたことはなかった。



 新しい耳がずっと嫌い。どうしてだろう。

 検査入院を三ヶ月に一度、一週間程くり返し、すっかり病院の常連となったあたしはある時そう言ったことがある。

 質問を受けた看護師のお姉さんは、目をそらしてぎこちなくほほえんだ。どうせ何言ってんのこのガキ、とでも思ってるんだろうと思う。

 対して彼女の横で大きな首もとのこぶを揺らし、かかりつけのおじさん医者は隠すことなくあたしの言葉を笑った。別に嫌な笑い方じゃなかったしあたしが耳が聞こえなくなる前から体のことを見てくれていた人だ。付き合いも長い人だから、あたしは腹が立たなかった。むしろ彼の笑い声にあたしは安心して看護師への苛立ちを収めた。

 彼はのんびりとした声で言う。

「まあ、人工の耳っちゅーのはな、聞こえすぎるけらいはあるとよく言うもんじゃけ」

「聞こえすぎるって」

 なに、と聞きそうになって声を飲み込む。そうやってつたなくたずね返す時期はあたしはもう過ぎているはずで、小さな頃から知られているとはいえ、そんな馬鹿みたいな質問に大人を答えさせたくないというのが本音だった。

 幼い時、あたしがそんな馬鹿みたいな質問を言っても良かった時、そんな時がいつから過ぎていたのかは知らない。きっかけとしてはもしかしたら生理が来たときかも、と何となく思う。

 血と一緒にあたしはどっかにいろんなものを落として流してしまった感触がなんとなく拭えないのだ。耳もどっかに一緒の落としたのかもしれない。

「何、っすか」

 ですか、の、で、が詰まった音になってしまって運動部の男子の話し言葉みたいになってしまったけれど、おじさん医者はほがらかにあたしの声を受け入れた。

「たまに、たまあにな、おるんじゃよ。聞こえすぎるから聞こえ悪くなるように調節してくれんかあって患者さんがな」

 こう、ききき、と。

 そう言っておじさん医者はあたしの耳に収まっている補聴器に手を伸ばしてそっと、繊細せんさいな動きでつまみを動かした。

 はっきりと聞こえていた世界の音が小さくなってあたしはにわかに少しだけ安心する、けれど。

 今は人の話を聞かなきゃいけない。あたしの新しい耳が必要な時だから、自らつまみを動かして調節する。

 すぐに音が戻ってきた。

 一呼吸、慣らすように音を脳味噌で受け止めて、おじさん先生を睨む。

 大きなこぶを揺らして彼はあたしの睨みを笑った。

「話聞かなくていいんすか」

「やあやあ、ごめん」

 そうだね、とおじさん医者はあたしの耳が聞こえなくなった原因を探るために声を出す。仕事をしてお金を貰うために。

 がらんどうの喉から声が生まれる。あたしは新しい耳でそれを拾い上げて、音を言葉に変換して返事を打ち出す。答えはいつも、わかりません。

 何で聞こえなくなったのかわかりません。

 突然、突然なんです。まずは低い音が聞こえなくなって。

 音楽とかは聴く方じゃありません。ヘッドホンもしません。なのにあたしの耳は少しずつ、確実に聞こえなくなりました。

 で、今はこうです。耳鳴りだけが内側から責めるみたいに響く。何ででしょう。

 同じことを応答し、理由も原因も分からないまま検査と投薬を繰り返して一週間をまた同じように、いつものように無意味に過ごす。あたしにはそれが簡単に予測できていた。

 無駄だよそんなのって、いつも思う。おじさん医者も半分はあたしと同じ気持ちなんだろうと、思う。だって気休めを彼は言わない。だから今更「治るよ」も「治すよ」も言って欲しくなくて、あたしは普通の年頃の女の子みたいに首を傾けた。

「もう病室戻ってもいいっすか?」

 いいよ、とおじさん医者が言う。あたしは大人しく診察室を出て入院している病室へと向かった。

 軽やかに戻っていく。二階の、ナースステーションの二つ横の病室。

 六人の患者で一つの大部屋に押し込まれている、この部屋にあてがわれたのもいつものことだった。机一つに小さな収納スペースが少し高いところにあしらわれていて、足下には小さな冷蔵庫がある。その中から買っておいたお茶を取り出して飲んでいると、向かいのベッドから、お疲れとしゃがれた声がした。ありがと、と言えば喉の病気の女性が頷く。

 他の人からも、あたしが診察室から帰ってくると同じように声をかけられたことがある。あたしは病院では既に知られた人、だった。若いのにこんなところに入院してて原因不明の難聴なんてかわいそうにね、って意味で。

 三ヶ月に一度の入院、一週間は中々長いものだった。

 特に学校に行けないのは辛かった。勉強をその時に受けられないのはひどくもどかしい。

 たとえば退院して通学すると、一週間分培われてきた知識を持った同級生と、置いて行かれたあたしの間に差ができている。それは主に補習と課題で補っていたけれど、そもそもその補講自体が面倒だった。入院して、今ここで一週間無駄に過ごすより学校へ行きたい、そうあたしは常々思っている。

 でも大きなこぶのおじさん医者は原因を突き詰めたい、という両親の要望によってあたしを三ヶ月に一度仕方なく呼ぶ。あたしも仕方なくそれに従う。原因を求めるためだらだらと通って、寝泊まりしている。まあ、それだけなら、まだ最低だけど最悪じゃない。

 本当に最悪なのは、生理の周期が入院に被ってしまうことだ。

 別に突然生理が来たって家でならそこまで気にならない。パンツもシーツも汚れる時には汚れるものだ。仕方がない。普段なら気にかけないけれど、病院ってどうしたって白いものが多すぎて、汚すのが嫌で、血のどろどろとした気配を感じると真夜中のトイレにあたしはすぐ駆け込んでいた。

 そして今日は、不幸にもそんな夜だった。

 真夜中の病院は、いつでも凪いでいる。

 ナースステーション以外の灯りは全て落とされて、真夜中の病院は誰もいないみたいに気配が静まり返っている。非常灯の灯りは足下、弱々しく緑の光を放っていてどうにも頼りがいがない。補聴器を外した耳にはざざん、ざざん、と聞こえていてその中を足音を殺しながら歩いていく。スリッパの音はひどく響くから、持参したスニーカーで足を引きずるようにして歩いていく。本当は多分、普通に歩いたっていい。けれどこんな波音に囲まれた中じゃあ、あたしはどれぐらいの強さで床を踏み抜いたらいいのか分からないのだった。

 だから安全策を選んで、すり足で時代劇の登場人物みたいに歩いていく。

 ゆっくり亀みたいに歩いていって、トイレに入ってやっと一安心。代える物を代えて出す物を出して、すっきりとして帰る同じ道のり、ただし布団までの帰り道。あとちょっと、あとちょっとなんだけど、ねえ。

 何だか波の音がひときわ大きくなった気がして落ち着かなくなってあたしは足を止めた。

 波の中で高い、少女のものみたいな笑い声がする。

「うそ」

 補聴器を外しているから波音だけがあたしの寄る辺だ。声が聞こえるなんてそんなはずはない、とも思ったけど、気になってあたしはそちらの方へすり足で近寄っていく。あくまでも小さく、世界から隠れるような気分で歩いていく。

 途中すぐに、きらきらと明かりのついたナースステーションの前を通ったけれど呼び止められることは無かった。

 むしろ誰も、中に居なかった。

 そんなことは珍しくはあったけど、全くないわけじゃないのであたしは気にすることなく視界を頼りに廊下を歩いていく。耳が聞こえなくなった代わりにひどく利くようになった両目。昼は勿論のこと、真夜中だってこの目のおかげで平気だった。頼もしい体の一部だ。

 対してあたしの、今や使い物にならないはずの体の一部があたしを道案内する。不思議な気分だった。

 補聴器を着けている時には自然に耳に飛び込んでくる部類の音である、少女特有の高い声が、進むたびに段々と波の音に聞こえないくらい大きくなっていく。

 なんだろう、どうしてだろう。生理と波音が混じったいつもの気持ち悪さはとうに感じなくなっていた。

 あたしは好奇心に胸を膨らませて一段ずつ、静かに階段を上がっていく。

 辿り着いた先はあたしの病室の三つ上、五階、個室のある階だった。

 お金持ちと重病人が入院する場所だと看護師が噂していた階だ。普段ならあたしぐらいの病気のレベルの人なんて、近づくなと言われる階。でも今は止める人もいないし入っていっても別にいいだろうとあたしは足を止めることをしない。

 真っ暗い通路を、声を聞きながら進んでいく。

 廊下の窓から見える空は真っ黒で、いっそ気持ちが悪いくらいに色も光もない景色が広がっていた。ここが都会ならもうちょっと電気が輝いて色のある光景だったろう、とあたしは聞きかじった少ない知識で想像する。都会にはまだ行ったことがなかった。行ってみたいとも思うし、こんな耳でいけるのかという不安もある。行ったとして、また一から環境づくりをはじめるのは面倒くさくもあるなあ、なんて。

 そんなことを取り留めもなく考えていると、声が聞こえてくる病室の前に着いていた。

 この階の一番端っこの部屋。その隣の部屋だって勘違いをしても仕方なかったろうに、あたしは直感的に感じた。

 あ、ここだ、って。

 そっと、ノックもせず引き戸に手をかければ個室だというのにすんなりと部屋の扉は開いた。おいおいこの病室の人、夜なのに不用心なんじゃないの、そう思いながら部屋の中をのぞき込む。

 耳の代わりに発達したあたしの目よりも、先に意識に飛び込んできたのはやっぱり、笑い声だった。ずっと聴いてきた少女の高い声が頭の芯をきん、とつんざく。

「ヤト、ヤト、最近ちゃんと食べてるの? ちょっと血が薄いわよ」

 明らかに相手がいる会話だった。でも、返事する声は聞こえない。

 もしかして、波音よりも返事が小さいのかな?

 あたしは目を凝らして、体を室内に滑り込ませる。会話する二人を見ようとする。その際に、馬鹿なことに扉を離してしまって。

 引き戸が自然と閉まった。微かな音を、多分立てた。

 二人の姿を見ようとしてあっさりと、あたしは見つかってしまう。

「ヤト、ヤト、お客さんみたいよ。お耳が遠い。おばあちゃんみたい」

 何言ってんだこの女と怒って勢いよく、より部屋の奥に踏み込んで気が付いた。そこには二人じゃなくて。一人、しか居ないことに。

 そこはあたしが居る大部屋よりかは少しばかり小さく、でも十分な一人分のスペースのある病室だった。多分部屋の設備は一緒だと思う。そんなことには意識がはっきりいかないからゆっくり後で見ないと分からない。それよりも目を引いたのは、声の中心だった。

 部屋の真ん中に大きな金魚鉢があった。その中にふかりと、こぶの大きなランチュウが一匹、優雅にひれを翻して泳いでいる。

 その色がひどく美しいな、と束の間目を奪われた。

 まるで、宝石みたいな赤だった。光り輝く生き物だった。

 そして、そこに手を突っ込んでいる男の人が一人。人間はどう見ても一人。そう、男の人が、一人。

 あたしは混乱した。部屋に遠慮なくもっと入ってぐるりと見回しても女の子なんてものはいない。波音がざざん、ざざざと細切れになってテレビのノイズ音みたいに変化していく。同じように高速で思考が回転はするものの、今の状況に理解が追いつかない。

 あたしの耳がおばあちゃんみたいって言った女は、どれだ?

「あらあら、とんでもないマヌケな子ね。ねえ、ヤトもそう思わない?」

 不意に、彼の方向からそんな声がした。見ると、彼はぽかんとした顔をしてあたしを見つめている。

「おい、クソ女出せよ!」

 イライラしているのもあって、あたしは声の大きさを調節することなくそう、怒鳴るように言った。その途端、夢から覚めたようにすばやい動きで彼の大きな手のひらがあたしの口をふさぐ。鼻まで覆われて、息苦しくて、とっさに後ろに下がった。手のひらはすぐにはなれる。

 あにすんの、とからまった舌でそれだけを言えば、またくすくすと笑い声がした。

「あなたがうるさいってことよ。ねえ、ヤト。この子耳がおばあちゃんなのよ、ちょっと口を大きく、ゆっくりと話してあげたら」

 ヤト、と言われて目の前の彼が頷いていた。

 ヤト、なんて珍しい名前だと思いながらあたしは彼をまっすぐに見つめる。

 ひどく色の白い男だった。やわらかそうな猫っ毛とつるんとした顔の形を持つ、性別があやふやな感じの細い男。

「そう、私のヤト、いい子」

 しかし、甘い声が気にくわない。またいらいらしはじめたあたしに、彼は口をぱかりと大きく開けて言う。言葉を波音の中に刻むように、あたしに意志を伝える。

「さがしてるの、おんなのこ?」

 なんとなくそう言っているのが読み取れて、あたしは返事をした。声のボリュームは心持ち、感覚で下げて。

「そう、女。あたしのことさっきから笑ってるやつ」

 口をさっきみたいにふさがれなかったから、声の大きさの調整はうまくいったみたいだった。

 ヤトはあたしの返事に少し考えた後に頷いて、指で空気を一回かき混ぜると、あたしを見ながら静かな動作で指さす。

 これかも、と。

 視線で指の先を見れば、それは、あの美しいランチュウだった。

 嘘でしょ?

 思わずそう返したあたしに彼は困ったように言った。

「うそじゃない。ぼくは、おうか、とはなしてた」



《全く、と私は騒がしくなった部屋で彼の甲が離れていくのを見つめ、悔しく思いつつ、泳ぎながら思考する。

 騒がしい夜だ。

 愛しのヤト。彼との久しぶりの会話だった。神聖な食事の時間で愛を深めあう時間だった。

 ヤトの声は柔らかくて、血もとても甘くて好き。全部、全部好き。愛してる。

 ヤト、愛しのヤト。

 私が吸血鬼だと知って、あなたの血に惹かれてこの窓辺に降り立ったことを知っていて、喜んで点滴の針を引き抜き、食事を差し出してくれる可愛い子。

 余命半年を宣告された私の最愛の子。私の旦那様、私の命の糧、私の伴侶。私の愛しい、人。

 なのにその逢瀬を邪魔された!

 臓腑が煮えたぎるようだった。久しぶりの感情に水がぼここ、と震える。

 あのチンチクリンな女のせいで!

 悲鳴を上げればかすかに水が光った。ヤトが私の様子に気がついて、指先が私の体をなぞるように触れてくる。その指に、体をすり付けて甘えながら私はチンチクリンの女を見る。

 貧相な体つきの真っ黒い髪の子。特に顔に特徴なんて無くて、薄い唇がほかりと開いて私を見ている。

 この女は、私の声が聞こえたと言う。

 今までヤトにしか聞こえなかった私の声が。

 だとすればこの女はヤトと同じように、私の餌足りうる資格を持った女、なんだと思う。美味しい血の持ち主、でも。

 今の私にはヤトがいる。ヤトしかいらない。この女はいらないもの。

 どうしたら私たちの目の前から消えるのかしら。

 ヤトの指に戯れながら私は思った。沈むように、思考する。》



 この少女のような声を出す、美しい色のランチュウの名前は、オウカと言うらしい。

 漢字は桜に花、美しい名前だろうとおっとりとした甘い声でヤトは言う。

 今の時間帯は太陽が高く上った真昼間だった。夜とは違って光がさんさんと降りそそいでいる。

 この階へは本当は関係者以外立ち入り禁止ってやつで、昼間は上がれない。ヤトから看護師づてに「来て欲しい」と連絡を貰って一時間以上待たされたあげく、やっとあたしにも許可が下りた。

 健常者には良くないから行かなくても良いと何度も行く前に言われたけど、あたしは大人の気遣いを断った。だって健常者って何よ? あたしだってこの耳がある。原因不明のままの、難聴との付き合いだってそんなに短くない。

 でも、その健常者って言葉も、すぐに理解した。あれは中身が、健常、って意味だったんだ。

 そしてあたし自身も、皮肉にもまだまだ健常者の部類に入っていたらしい。

 昼間だから大人の目がうるさくて、嫌々補聴器を着けたあたしの耳に波音の代わりに、鮮やかに声が入ってくる。

 五階に上がってすぐに飛び込んできたのは誰かのうなり声や泣き声、それから怒りの声、死にたくない、というい痛い言葉たちだった。

 ずっと聞いていたら気分が沈みそうだ。

 立ち止まるのが怖くて、早足で端っこのヤトの部屋まで行った。

 ノックをしたら彼が優しくあたしを迎えてくれた。その昼の光の下の笑顔に、ひどく落ち着いて挨拶をすることができた。やっぱりこの人、はじめて会ったときも思ったけどーーすごく美形だ。整った顔立ちをしている。真っ白だった肌色は、今日は昼の光で、少しだけ血が通っているように見えて少しだけ安心した。この人も生きてるんだ、って思って。

「この階は、死に近い人ばかりだから疲れたろう」

 そうヤトが言う。今日は耳は聞こえるの? と大きくゆっくりと話してくれるその人にあたしは補聴器を見せた。

「今日は聞こえ、ます」

 そして、あたしは

「あなたに呼ばれて、話をするためにきたんっすよ」

 そう言えばヤトはぽかんとした顔をしてゆるやかにほほえんだ。なんだ、笑うと可愛いじゃん、とは声に出さなかった。ランチュウにじろりと睨まれた気がしたから。

 大丈夫、あんたの王子様には手は出さないよとあたしは笑って彼女を見る。彼女は金魚鉢の中、ひらひらと真っ赤な体で踊るように泳いでいる。

 ヤトはあたしに甘いココアを振る舞ってくれた。自分には珈琲を入れてベッドに腰掛けながら言う。

「来てくれるとは思ってなかった。ありがとう」

「来ますよ。結構、ショーゲキ的だったし」

 昨夜は子供みたいに真っ白な人だなって思ったけれど、今の雰囲気ははじめて会った時とは違って大人びていた。正確さだけを求めた偽物の耳で聴いた、彼の第一印象には合わない優しい声に、あたしはこう思った。

 あ、大人の人だ、って。

 あたしは態度を改めて敬語を使うことにした。でもすぐに失敗した。また語尾を、です、と言えなくて運動部みたいな敬語を使ってしまって、うろたえたあたしにヤトは別にそのままでも良いと言った。変な人だな、と思いながらあたしは運動部みたいな奇妙な敬語を使っている。聞けばやっぱり年上みたいだし、敬語以外にどんな言葉で話せって言うのやら。

「じゃあ、そうだね。なんの話がしたい?」

 名前はさっき聞いた。そうしたらもう一つ。ココアを飲みながらあたしは視線を金魚鉢に固定した。

「オウカは、なんですか」

 聞けば、彼は珈琲を飲みながら頷いた。その質問が来るだろうと思っていたと言わんばかりに、彼の声が言葉を紡ぐ。

「オウカはね、吸血鬼さ」

 僕は残り少ない人生だから、この命を有効活用したいなと思ってたら、オウカが突然やって来たんだ、神様の使いみたいに。

 続いた彼の言葉にあたしは理解が追い付かなくて、呆然と聞いていた。

 吸血鬼? 

 あのファンタジーの生き物? 人の生き血をすすったり、海が渡れなかったり、ニンニクがだめとかいうあれ?

 んで命の有効活用? 何それ。

 もしかしてあたし、本当に頭の芯から変な人のところに来ちゃったのかも。そう思ったら、馬鹿おっしゃいな、と小さな声が頭の真ん中で響いた。オウカがあたしを睨みつけている。

 確かに失礼なことを考えた。あたしはそれを気付かれないように、って祈りながらヤトさんに向かう。

「全部、意味分かんないっす」

「ふふ、だろうね。でも昨日オウカを見たろ?」

 そりゃ見たけど、って思いながら頷く。

「はい」

「どう思った?」

 正直に言ってね、とうたうように言う声に、あたしの口は少し震えた後に、こう紡いでいた。

「赤い金魚。きれいだと、思いました」

 こんな変な人との会話、適当に受け流せばいいのにそこは嘘がつけなかった。

 そう、オウカは綺麗だった。声とか笑っている感じとか、むかつくって思ったけど。それ以上によく見ればーーよく見なくても見惚れるぐらいの鮮やかな赤を持っていた。彼女は美しく、綺麗だった。

「そう、凄く、うつくしいだろ?」

 そう言うヤトの声はオウカに陶酔しきっている、熱を灯したものだった。あたしの見つめる先で、何も話さないランチュウが彼と一瞬視線を交わし、ふわふわと目を逸らし背中を向ける。時折ちらりと振り返ってあたしとヤトを見る。まるで、じらすみたいに。

 その姿はまるで、ヤトからの寵愛や心酔、信仰をアタリマエとして受け入れてふんぞり返っている女のように見えて、あたしはオウカが少しだけ気味が悪いものに見えた。

 


《また来た、あの女。

 暗い耳が遠いあの女、この世の不幸を全て背負ってますって顔してる貧相な女。どうしてヤトはこんな女を呼び出したのかしら。

 後で聞いたら「僕が死んだ後に次が必要だろ」って。

 馬鹿みたい。あなただけでいいのに。

 真っ暗な夜で輝いていた一番星のような、あなただけでいいのに。

 あなたを誰よりも早く見初めたのは私。あなたを愛したのは私、あなたを傍に置くことを決めたのは私、あなたの傍に居ることを選択したのは、私なのに。

 本当は私だって、もっと長生きの人をパートナーに選んだって良かった。でも、あなたがいいの。

 あなたが、ベッドの中から私を見て、とても可愛らしく微笑んだから。

 あなたが、あなただけがいいの、ヤト。

 言えばきっとあなたは笑うのでしょうね。「嬉しいよ。だから、君には長生きしてほしい」って言うのでしょうね。

 馬鹿なヤト。好きよ。

 あなたを思うと、熱が上がるの。干上がってしまうかも、って思うぐらい。》



 ヤトと会って、つまらないだけのあたしの入院生活に花が咲いたようだった。学校に行かずとも有意義な時間を過ごすことができるようになって心が確実に浮ついている。ふわふわして、足元がおぼつかない。

 ヤトはすごく物知りで、物腰もやわらかく、対応もそこらの大人よりもしなやかだった。非の打ち所がなく、ひん曲がったあたしの心もあっという間に彼にほだされた。変な敬語は直らなかったけど、ヤトは笑わずにあたしの話を聞いてくれて、いろいろな疑問に答えてくれた。

 彼の具合は良くはないようだった。昼間の彼は常に点滴をしながらあたしと会話をしている。たえまなく、様々な種類の薬を摂取しなきゃいけないんだと言う彼は、日に日に不健康な白さが昼間でも際だってきているようだった。死にそうなぐらいにやつれていないのがまだ救いだった。

 あたしたちはいろんな話をした。勉強は勿論、月の満ち欠けから人ではないものたちの存在について。時折オウカを挟んで彼女の赤いひれを見つめながら言葉を交わした。幻想を多量に含んだあたしたちの会話に顔をしかめる看護師や医者も少なくなかったが、あたしとヤトの関係を聞いたおじさん医者は頷いてこう言った。

 いいことだ、互いにいい出会いだ、と。

 あたしもそう思う、と言えばおじさん医者は感じ入ったように何度も頷いた。あたしは知っている他人に関係を肯定されたのが嬉しくて、その日はずっと顔がゆるみっぱなしだった。

 ヤトに対する嫌悪感はもうない。良い人だし尊敬すべき人間だった。

 だからたとえその会話の中にオウカの知識が沢山入り交じっていたとしても、あたしは気にしなかった。あたしはどんどん、彼へのめり込んでいく。時間をかければもっと、もっとヤトにはまっていっただろう。

 突き詰めていけばきっと恋をして、愛をして、彼のためなら何でもしてしまうと言い切ってしまうほどに。

 そこまでに至らなかったのはひとえに、あたしの退院の日が近づいて来たからだった。あたしはとにかくこの、つながった縁を病院だけで終わらせたくなくて、入院の最終日に悩みに悩んで彼にこう話を持ちかけた。

「文通しませんか」

 確実に形に残るものがいいと思った。何度も見直すことができて、納得して送ることができるものが良いと思った。お互いに話す以上のことをできるものを、選んだつもりだ。

 断られたらどうしよう、と少し思っていた。

 でもあたしのそんな心配なんて不必要だと笑い飛ばすように、この申し出にヤトは嬉しそうに笑って頷いてくれた。

「嬉しいよ、ありがとう。ぜひよろしく」

 感じのいい返事だった。そして実際その感じの良さをそのまま保つように、手紙のやりとりはあたしが思った以上に頻繁に長く続いた。

 退院し通常の学校生活に戻って、補聴器で悪口や陰口を拾うといった憂鬱なことがあっても、ペンに任せて言葉にすれば心のつかえは取れた。嫌なことを書きつける内に怒りもなくなって、残るのは悲しみだけだと、その時あたしははじめて怒り以外の自分の感情を知った。

 そしてその言葉に慰めの返信があれば尚更だった。ヤトからの返事はいつも優しさと慈しみにあふれていて、あたしをどうしようもなくさせる。彼は優しい言葉の使い方が上手な人だった。そして、人を慰めるのが上手な人だった。

 あたしだけに向けられた言葉に、熱に浮かされたように日常生活の合間で手紙を書き続けた。

 彼からの返事も定期的に届いた。世界の雑音に揺らぐことのない、しっかりとしたやわらかい弧を描く文字。まるで補聴器を外した後の夜の凪のようだった。あたしをゆっくりと飲み込んで、不安定な気持ちにさせて、でも根っこの部分を落ち着かせる。

 落ち着いた先であたしは指の腹で何度も文字をなぞって、波音を探すように脳裏に彼を描いた。いつだって鮮やかに描くことができる。

 ヤトの傍らには赤いランチュウの姿がある。赤いひれを翻して泳いでいる。

 頭の中のオウカはあたしを笑うことをしなかった。ただ彼の傍にいるだけ。そのことがあたしを少しだけ安心させた。話すことが無ければオウカはただの美しい生き物だった。

 クラスメイトには熱心に手紙を書くあたしの姿を見られていて「彼氏?」なんて聞かれたが首を振った。

 違う、ヤトは彼氏なんてそんな程度のものじゃない。

 あたしの、かけがえのない、宝物だった。



《夜半、日に日にあのチンチクリン女との手紙のやりとりが増えるのね、といやみったらしく言ってやったらヤトはゆるりとまなじりを下げて私に言った。

「君のためだ」

「私のため?」

「そう、オウカのため。オウカだけの、ため。それ以外にないよ。僕の愛しい君」

 そんなこと言って。誤魔化しなんて許さない。本当はあのチンチクリン女に恋してるんじゃないの。

 心の奥底まで見通そうとする私の怒りを悟ったのか、彼はなだめるように右手の甲のテープを剥がすと、点滴の針を丁寧に血管から抜いて穴をそのままーー金魚鉢に浸された水の中へ、私を驚かさないように手を浸した。ゆっくりと溢れ出す紅に、そっと近寄って口を寄せる。ああ、勿体ない。

 人間みたいに舌なんて無い吸いつくだけの口。そこを密着させて、ヤトの真っ白な、血管の浮き出た手の甲から血を摂取した。

 美味しい。

 やわらかい味が、全身に巡っていく。力が満たされ安堵の息が漏れた。ほう、と泡を吐き出した私をヤトは陶酔しきった目で見つめている。時折私を慈しむように動く指に、絡みつくように鰭を絡めて私は血を吸い続けた。

 ヤト、大好きなヤト。私から離れないで、と言えば彼は血の気を失った顔で言う。

「勿論だよ、僕のオウカ。僕の、最愛の方」

 その声に血を通して嘘はなかったから、私は安堵した。ヤト、ありがとう。私は幸せよ。》



 手紙を積み上げた三ヶ月はあっという間だった。

 交わした手紙をそっと机の引き出しの奥底にしまいこんで、あたしはいつもよりうきうきと支度をして山の中の病院へ向かった。病院に行くときはひどく憂鬱な顔をして、窓なんて滅多に開けやしないあたしが、珍しく車の窓を開けたのを父が見咎めて、すぐに手紙に思い至ったのか口をにやけさせる。男の名前だと心配半分、好奇心半分といったところだろうか。

「なんか例の彼とあったんか」

「別に」

 なんもないよ、なんも、と言って補聴器の位置を耳の中で微調整してあたしはそっと緑の中から病院を見上げた。夏のさらさらとした空気に照らされて、病院は白く輝いて見えた。ヤトに会えると思えば、入院も悪いものじゃなかった。気持ちが早足で山へ駆けていく。

 入院の荷物を持って、受付や看護師、おじさん医者とのいつものやりとりを一通りこなし、病室で息を吐く。ベッドはまた、大部屋の端っこだった。慣れた景色、ほぼ同じ顔ぶれ、でも違うことが一つだけあった。

 看護師があたしをたずねてやってくる。用件はただの一つ、飛び出したヤトの名前にあたしはこらえきれずに笑顔になった。

 あたしは足取り軽く、検査の合間に階段を上って五階に行く。

 補聴器を着けたままの耳に、この間より数の減った、うめき声や恨みの声が届いた。今の今までこの階がお金持ちと重病人の階だってことを忘れていて、気分が一気に急降下する。

 声が少なくなったってことは退院したってことも考えられるけど、あたしは良い方には考えられなくてそれはきっと。考えるのを止めたいのに、あたしの思考は動き続けてしまって、気分が悪かった。

 補聴器を外そうかと思ったけどこれからヤトと話すのだから、とそれはよしておいた。五階、端っこの部屋の扉を叩く。中から細く、弱々しい声がした。応じて中に入って、驚く。

 ヤトはあたしの記憶の中よりもだいぶ、細い見た目になっていた。やせ細って、いや、これは。

 嫌なやつれ方だった。

「お久しぶり、っす」

「うん、久しぶり」

「もしかして、あんまり、ビョーキ、良くないっすか?」

 そう心配して聞いてしまったあたしに、罰が悪そうに彼が頬を掻いた。

「やっぱり分かる?」

「うん、分かる」

「三ヶ月ぶりに会ったら、そうか。そんなものか」

「あたし、ヤトさんはお金持ちだからこの階に居ると思ってました、けど」

 言い淀んだあたしの言葉を引き継ぐようにして、変わらず部屋の真ん中にある金魚鉢の中から赤いランチュウが高い声で言う。

「そうよ、耳の遠い子。私のヤトは本当にもう長くはないの」

 別にあんたに答えて欲しいわけじゃねえよ、とあたしは言いたかったけど、言われた言葉に対する衝撃の方が強くて言葉を失う。

「オウカ」

 咎めるようなヤトの声に、金魚は赤いひれをひらひらと動かして言葉を紡いだ。

「私の愛しいヤトは今日明日にも死ぬかもしれないわ。だからあなたをすぐに呼んだのよ。耳の遠い子」

 目の前が怒りで真っ赤になって拳を握り込んだけれど、真っ青な顔色のヤトに奥から手招きされてそっちに意識が移った。

「だからさ、話してよ」

「ヤトさん」

「君の話を、聞かせて」

 僕の体験してない生活の話が君の口から聞きたい、と言われてあたしに拒めるわけがなかった。だって、この人もうすぐ死ぬんでしょ?

 死ぬ直前の人にどんな手を使ってでも良い思い出を作ってやろうっていう、感動物の映画を今は馬鹿にできないとあたしは思った。だってすごい気持ち分かるもの。

 ヤトのためなら何でもしてあげたい、ってあたしははじめてはっきりと思った。



《ヤトの顔色が悪い。

 悪い細胞が一気に沢山増えて、彼自身を攻撃しているんだとヤトは私に言った。

 でもそんな血を君にあげていいのかな、なんて彼が言うものだから、あなたがいいのと私は言う。

 私のヤト、あなたがいいの。

 あなた以外の相手なんて、考えられない。

 あなたはあのチンチクリン女を私にあてがおうとしてくれているけれど、でもあなたがいいの、私のヤト。私の唯一の人。

 あのチンチクリン女はヤトのお願いを聞いて夜もやってくるようになった。ヤトの思惑なんて知らずに。そう思うと可哀想な子だった。

 あなたなんて人としても、ヤトに見られていないんだわ。

 そう思うと、私は彼女のことを哀れに思ってそれ以上は何も言えなかった。言わなかった。

 あの子は明日もやってくるのかしら、とあたしは泡を吐き出しながら思う。

 可哀想な、恋に溺れた子。私のヤトに騙された子。かわいそうに。

 あなたは結局、人としてヤトの世界にすら、いれて貰えなかったのよ。

 あわれな女。本当に、可哀想。》



 あたしが今までに経験した全てを話すには一週間分の昼間の時間だけじゃ足りない。あたしはヤトにお願いされるまま、夜も睡眠時間をぎりぎりまで削って彼の部屋に通った。

 しんと静まりかえった五階、はじめて会った夜のように誰に止められることもなく、あたしは何の障害もなくヤトの部屋にたどり着く。

 ずっと通っていて今になってようやく気が付いた。この、静かすぎる病院の夜の景色。きっとオウカが何かやったんだってこと。なんか、やってるんだってこと。

 それも全部、ヤトのために。

 そう思うと少しだけ、あたしを馬鹿にする彼女への怒りは形を潜めるようだった。

 いいやつじゃん、って思う。ヤトを大切にしたい、何でも聞いてあげたい、その気持ちだけはあたしも分かる。ヤトの何かになりたい気持ち。ヤトをほっとけない気持ち。

 扉をそっと開けば、彼女に血をやる彼の姿が見えた。

 手の甲から血が流れ出して、そこにオウカが口を寄せている。口づけるように、付いて離れてくり返し、まるで睦み合っているようだった。

 餌をあげる、なんて。自分が具合悪いっていうのに何をしているんだか、と思ったけれど。残り少ない人生ならやりたいことをやらせてあげた方がいい、なんて考えも浮かんで止めることはやめた。あたしは静かに病室へ入っていく。

 オウカもヤトも、あたしが入っていくことによって二人の触れあいを止めることをしない。それには少し嬉しくもあり、妬けた。あたしが二人にもなじんだのか、っていう実感と、二人だけの世界ってわけ? っていう気持ち。

「今日は、何を話します?」

 灯りを落とした室内は、暗いけれどそこまでじゃない。月明かりだけであたしの目には十分だった。語り部を託されたあたしは、彼の隣に静かに腰掛けると一緒にオウカを眺める。

 彼女は言葉少ない彼のお姫様だ。あたしの視線を受けて小さく、なに、とすねる声にあたしは笑ってしまう。受け答えだけは小さな少女みたい。そんな彼女に、別になんでもないと答えた。

 こうして間近で見るとやはりオウカは愛嬌あいきょうもあり、何より見た目が美しかった。赤いうろこ、長いひれ、鮮やかな宝石のような色。彼が陶酔する彼女の存在に、あたしも見惚れる。

「じゃあ今日は」

「はい」

「君の、耳が聞こえなくなって、それからの世界を」

 今日で今回の検査入院は、半分の期間を過ぎていた。確かに頃合いだろう、と思う。話すにはそろそろだろう、と考える。

 求められるなら、とあたしは思う。

 求められているなら、いいよ、と思う。全部話して、この人にあげよう。あたしのこの聞こえなくなった耳のこと、そんな話がこの人の死ぬとき携えるものになるならそれもいい。

 ただ少しだけ怖い。話し終わったらこの人は、どんな態度であたしに接するんだろう。あたしの大切なヤト、あなたはあたしをーーううん。考えることをやめた。深く考えたくはない。代わりに口を開く。

「ええと、あたしの耳が聞こえなくなってこの世界は一気に、別の世界に変わった、っす」

  


《語り口ははっきり言って、へたくそ。私は心中でそう、舌打ちをした。ひどい話。所詮チンチクリン女の耳の聞こえなくなった、それだけの話、なのに。ヤトには少し違うようだった。この話を聞くことが、私へ彼女を捧げるためのくさびだと思っている。

 その考えはおそらく正しいだろう。彼女は彼に騙されて居るとも知らずに自分の弱い部分をつらつらと吐き出していく。

 突然音が聞こえなくなっていったこと。

 補聴器を着けた時の違和感。

 外したときの沈黙と波の音。

 その中で私の声が鮮やかに聞こえたということ。

 私の声が鮮やかに聞こえたというところでひそやかにヤトが口端をあげていたことに私は気が付いていた。

 ああ、耳の遠いこの子。

 残念だわ、この子はもう、ヤトに捕まった。》



 話終わったあたしにヤトは優しく、よく話してくれたねありがとう、と言った。話す前と彼の態度が変わらなくて安心する。緊張にいつの間にか握り込んでいた拳をゆるゆるとといた。

 ほら、ヤトは態度を変えるような人じゃない。

 ありがとう、その言葉だけで、とあたしは思う。

 もう十分過ぎる程だった。彼は震える私の頭も撫でてくれた。撫でられながら、最高だ、と思う。最高過ぎて、幸せで、死にそう。

 嬉しさに打ち震えるあたしに彼が言う。あたしの補聴器に触れてみたい、って。

 言われて震える指先で差し出した、肌色の豆粒みたいなそれを、ヤトは指の腹で撫でて感触を確かめるようにして触れた。その光景に少しだけ背筋がぞくぞく、として熱い息を吐く。

 とんでもなく背徳的だった。

 イケナイコトしているみたいだった。

 こんな綺麗な顔のヤトが、あたしの新しい耳に触れている。オウカに触るみたいに優しい手つきで。

 夢みたい、って思う。戻した補聴器は彼の熱を少しだけ灯して、あたしをどうしようもなくさせた。

 明け方、そのまま熱に浮かされたように彼の病室を出て、部屋に戻って眠りに落ちた。

 あたし自身のことーー特に耳のことを他人に積極的にこうして話すのははじめてだったから、随分と体力を消耗していたらしい。ぐったりと重い体を引きずってお昼過ぎに目を覚ましたあたしに看護師が駆け寄って、朝の挨拶も早々にこう、切り出す。

「ヤトくんが」

 その瞬間、嫌な予感がした。うわ、って思っている合間に口早に看護師が言う。

 ヤトが危篤状態に入って、もう明日ともしれない命ということを。思わず口を開け放して、間抜けな顔を晒してしまった。

 何それ、って思う。

 あんなにあたしの話を聞いて、昨夜一緒に話したのに。

「変な嘘、よしてください」

「嘘じゃ無いの」

 いつもあたしを見て顔をしかめる看護師が、この時だけはひどく同情的だった。

「ヤトくんはもう、だめかもしれないの」

 あなたは仲が良かったから伝えておくわね、と言われて世界がひっくり返ったような気分だった。

 すぐに看護師に背を向ける。気持ちが悪くてトイレに駆け込んで胃液を吐いた。トイレの便器にすがりつくようになってはじめて、あたしは自覚する。オウカに妬いた、二人の関係が羨ましいかも、って体の奥底に潜んでいた最悪の感情に気が付いてしまう。

 ああ、ヤトが好きだって。大好きだって。

 もう今更気が付いたって、遅いかもしれないけれど。あたしはそのまま、こっそりと泣いた。涙はなかなか、止まらなかった。



《今夜は月が眩しい。

「おうか」

 私を彼が呼んだ。初めて会った夜のように。

 彼の求めに答えて、私は真夜中、久しぶりに吸血鬼の力を使った。ずっと大きく使わずに蓄えてきたもの。

 彼から少しずつ貰ったもの、は私を再び空に旅立たせるには十分だった。

 ああ、ヤト、ヤト。可哀想な、可愛い子。

 初めて会った時には彼の命を根こそぎ頂いて家に帰ろうと思っていたのに。今こそそれが、可能なのに。

 私はすぐに、そうしようとは思わなかった。

 水を伴って、金魚鉢からするりと抜け出した。宙に浮かぶ私の姿を見て、笑顔を見せたヤトに甘く囁く。

「死にたい?」

「……しに、たくない」

「じゃあ生きたい? 私のヤト」

「わかん、ない」

 わかんないよ、と小さく熱にうなされたように呟き続ける彼に、私は言った。

「私に、殺されたい?」

 彼は苦しげに顔を歪めて、でも少しして私の言葉の意味を理解したのか、可愛らしく微笑んだ。

 その唇がうれしい、と言葉を刻む。

 続けて、あいしてる、そう小さく言われた瞬間、私は決めた。

 そうだ、この子を殺そう。

 殺して、永遠に一緒になろう、って。》



 凪いだ夜のことだった。

 昼間吐き続けて体の芯から疲れ切っていたからもう寝ようと思ったけれど、思い直してあたしはヤトの部屋へと向かっている。周囲は真っ暗、あたしの鳥目がらんらんと光って人間を探す。あたしの邪魔をしそうな人間、見つかったら厄介なそれの位置を、目と、新しい耳で探る。真夜中に人間以外になにも動くことのない山の中の病院、静かすぎるのはいつもの通りだけど、今夜は殊更ことさらその程度が深いようだった。

 オウカが力を奮っているのだろう、そうあたしは思う。ヤトの最後の夜だから。

 きっと、あの人はヤトにはひどく優しいから。静かな最後をプレゼントしようとしているのだろう、今まで血をくれてきた彼のために、でも。

 最後を見届けたいのはあんただけじゃない。

 あたしは階段を駆け上がる。波音のしない耳で、自分の奏でる音を聞く。足音高らかに上り詰めた五階、もう足に染み着いて目に焼き付いたこの景色を端っこまで駆けていく。

 最後ぐらいはあたしも可愛くあろうと思って、扉の前で身だしなみを簡単に整えた。

 ヤト、あたしの大切な人。

 そして、あたしの大好きな人。

 本当は、彼に死なないで欲しい。長生きしてほしい。一緒に生きたい。でもそんなこと、病院に居る内に無理だって知ってしまったから。ずっと知っていたことだったから。

 最後ぐらいは、あたしだけを傍において欲しい。恋が実らなくてもいい。

 彼の最後の人になりたい。そんなわがままはいけないだろうか。

 それでなくたって、せめて好きな人の最後を見届けたい、そう思ってあたしは扉を開ける。


 そこには空っぽの金魚鉢と、空駆けるランチュウーーオウカが居た。


 こんなに月の光が明るいのに、光なんてどこにもない真っ黒な空間があった。海の底みたいな暗い澱み、深い青、水の玉がそこら中にふかり、と生まれて泡のように丸くなり、つながり、離れ、上へ上っていく。頭上には大きく水が溜まっていた。循環しているわけでもないのに水がどんどん下からこんこんとわき上がってくる。天井が、水面になる。

 どこからこの水が来るのか、いや、ここはヤトの病室で合っているのか、浮かんだ疑問がすぐにかき消された。

 オウカが。オウカのひれが、見えた。

 赤いひれが部屋の端っこのベッドのそばでゆらゆらとゆらめいている。彼女はベッドの中をのぞき込んでいるようだった。

 その中にはヤトが居るはずだ。あたしは部屋の中に足を進めて、そうして気が付いた。

 オウカの眼下に大きな水のかたまりがある。その下にはーーその、下、には?

 目を見開いたあたしの耳が、突然音を失った。空っぽの耳を感じて、補聴器を何かに外されたようだ、と頭の中の冷静な部分が囁いてくる。

 刹那、波音が飛び込んでくる。

 ざざざ、ざん、あたしの呼吸も心臓の音も水の寄せる音にかき消されて、その中で彼女がやっと振り返った。

「何しに来たの」

 波音の中で際立つ、透明な声だった。綺麗な彼女がそのこぶを揺らして、あたしを見る。魚独特の、まっすぐな澄んだ目で。

 何しに来たのかって。あたしは言い淀んだ。

 言い淀んで、やっと、声を出す。

「ヤトは」

「ああ、ヤトね」

 私の可愛いヤト、と紡ぎ彼女が口付ける先には、水に顔を覆われたヤトの姿があった。波音の中でもがいて四肢をはねさせる彼を見て、あたしは息を飲んだ。どうしてこんなことを!

 あたしは駆け寄って、泡を吐き続ける苦しそうな彼から水を剥がそうとするけれど、それは無駄な動きだった。指先が水に沈むだけ、水掻きの無い指がいたずらに水流を作り彼を余計に苦しめてしまう。水は減らない。ああ、どうしたら!

 水をひたすら飲まされて、彼は苦しそうに目を見開いていた。その中で一切駆け寄ったあたしを見ていない。

「やだ! だめ! ヤトを連れて行かないで!」

 手を伸ばしても彼には届かない。届くことがない。

 波音が耳の中で響く、ざざんざん、ざざん。水にあふれた部屋で、かたわらに浮いていたオウカがうっすらと笑った気配がした。

「いい気味。ヤトの何にもなれなかったあなたを見るのってこんなにも、清々するのね。可哀想なあなた」

 その瞬間、あたしの中で何かがはじけ飛んだ。

 あたしは夢中でオウカに手を伸ばして、それから彼女を。



 夜はどこまでも凪いでいる。

 波音は、歩きはじめたわたしを責め立て、取り囲む。

 わたしに補聴器はもう要らなかった。音はしっかりと聞こえている。この世界の中を、ゆるやかにわたしは生きていく。

 彼と一緒に。

 これでずっと一緒ね、と言えばにっこりと夜がわらった気がした。いとしいあなた、そう言われて頬がゆるんだ。

 波音は、遠く向こう、もういない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

目眩、それから 井村もづ @immmmmmura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ