コップの中の漣

青い向日葵

コップの中の漣

「心の中には人それぞれに悲しみを受けとめるコップがあってね、涙を流せなかった思いとか、抑圧された悲しみが、そこに静かに溜まってゆくの。コップの大きさは一人一人違うの」


 紗友里さゆりは、運ばれて来た時にテーブルの端に置かれたまま口をつけていないおひやの背の低い透明なコップの中の氷が溶けて、今にも溢れそうになった既に冷たくなさそうな水をぼんやりと眺めながら、唐突に例え話を始めた。

 円筒の外壁に付着した水蒸気が大粒の水滴となって流れ落ち、コップの周りに中身を零したような水溜まりを作っていた。


「多分、私のコップはバケツみたいに容積が広いんだと思う。泣くことなんて、とうの昔に忘れてしまって、それでも人間の形をとってまだ生きてる。でもね、いつかきっとコップの水は溢れてしまう。その時は、その時が来たら私は、どうしたらいいの」


 紗友里は、まるで科学で立証されているとでも言うように悲しみのコップの話をして、自分の感情の限界を本気で恐れ、酷く怯えていた。

 心の中に零れそうな重たいバケツを抱えた女性なんて、確かにとても危うい。

 だけど感情を、特に負の感情を抑え込んでしまう心理はわかる。良くないことだと頭では理解していても、育ちとか、習慣とか、身についてしまった癖というものはなかなか厄介だ。

 彼女の悲しみが溢れ出す時、それは何を意味するのか。まして僕は、こんな中途半端な立場で、彼女に何をしてやれるというのだろうか。


「ねえ見て。雲が流れてる。空の色がおかしい。嵐が近づいてるのね」


 窓から、見慣れた景色の上のほうを見ている君の言葉は、連続した比喩のようにも聞こえる。


「大丈夫だよ。何かあったら、その時は、一人よりも二人のほうが安心だ。今は、僕が居る」


 少なくとも、今、この時だけは。


「優しくしないで。本当に悲しくなるから」


 矛盾しているようだが、紗友里の言う通りなのだろう。

 この人は、そもそも何故ここに居て、僕にコップの話なんかするのか。何を言ってほしいのか。

 僕は段々と、理不尽な苛立ちを覚えた。

 それは、彼女が僕のことなんか、ちっとも見ていないからだろうか。それとも、気の利いた言葉の一つも言えない自分が情けないからか。

 自分の弱みを曝け出しておきながら、僕は結局、紗友里にとっては偶然の話し相手。たまたま近くに居ただけ。誰でもよかったんだ。


「ごめんね。言いたいことだけ言って、慎也しんやくんの話を聞かない私、ほんと最低ね」


 わかっているのならば、君は本当に酷い人だ。僕は何故か、不意に弱虫の子供みたいに泣きそうになって、少し慌てた。


「そろそろ行こうか」

「そうね。傘持ってないわ」


 外は、本当に雲行きが怪しかった。一雨来るかもしれない。

 割り勘で支払いを済ませてから、喫茶店を出て、何となく並んで歩き始めた。駅まではそれほど遠くないけれど、ここで雨に降られると無事には辿り着けないと思った。


「ごめんなさい。本当のことを言うね」


 人通りの少ない所まで来ると紗友里は、ふと立ち止まった。


「え?」


 僕は、思わず彼女を見た。

 遠くを見詰める目は、心做しか濡れていた。憂いを帯びた横顔の美しさに息を呑む。

 どんなに憎らしくても、この人を恨むことなんて、僕にはきっと、永遠に出来ない。


「私の心は空っぽ。何も無いの。もう何もかも失ってしまった」


 紗友里の頬に一筋の涙が光ったと思った時、パラパラと空から雨粒が落ちてきた。

 頬にも髪にも肩にも。僕らは、あっという間にずぶ濡れになってゆく。


「降ってきたか!」


 僕は咄嗟に、着ていた薄い上着を脱いで、彼女に雨よけを作ったが、紗友里はその覆いの中に僕も招き入れたので、僕らは、隠れ蓑に包まれた二人みたいになった。

 駅まで走るか。紗友里は、動く気配がない。


「とにかく屋根のある所へ急ごう」

「もういいわ。今更もう無駄よ」


 彼女は泣いていた。みるみる強くなる豪雨の中で、その激しい雨に負けないくらいに泣いていた。初めて見る涙は、雨に掻き消されて、視界の曇りを洗い流すみたいに溶けていった。

 僕は、せめてもの頼りない雨よけを支えたまま、紗友里が心ゆくまで泣き、気が済んで泣きやむのを待った。

 一秒一秒が、こんなにも長く感じられたことはなかった。それでもよかった。

 悲しみのコップなんて、この雨に流して空にしてしまえばいい。それがバケツだって言うなら、僕はそのバケツの底に穴を開けてやりたい。悲しみを蓄えておく必要なんてない。

 君には、心の底から笑ってほしいから。


 崩れ落ちそうな紗友里の肩を抱いて、震える身体を支えながら、落ち着くのを待った。

 得体の知れない苛立ちは、もうどこかへ行ってしまった。雨に流されて、溶けて消えたのかもしれない。それでいい。

 僕もきっと、子供のように泣きたかった。暗い悲しみを全部、雨水に流して消し去ることが出来たなら。

 そう思った時、彼女が顔を上げて、鼻を啜り、赤くなった目をこちらへ向けた。


「ありがとう」


 そして、少々無理があったけど、紗友里は笑顔を作った。


「面倒なこと全部、流されちゃえばいいのにね」


 うん。僕は肩に回した手に、力を込めた。


「あのね、悲しみの水を溜めたコップの話ね。慎也くんに少しでも、隠していた気持ちを打ち明けて、解決しない苦しみを思いながら、いろんなことを考えているとね、時々、コップの中の水に漣が立って、このままじゃ駄目だって、少し冷静に自分の状況を見ることが出来た」


 さざなみ。


「そう。良くない意味じゃなくてね。良くないことをしてるのは私で、慎也くんは、それを認めるわけじゃないけど、否定もしなかった。ただ面白くもない私の話を聞いて、見守ってくれたでしょう」


「何て言えばいいのか、わからなかっただけだよ」


 本当なんだ。君の好きな人は決して関わってはいけない人で、君のことが好きないつも近くに居る僕じゃない。それだけのことだった。


「それは、否定も肯定もしていないからよ。優しくしないでって言ったけど、貴方の優しさに救われてた。生きててよかったと思えた」


 もし、それが真実なら。


「僕は何も出来なかったけど、紗友里が少しでも楽になれたのなら嬉しい。苦しさを打ち明けてくれてよかった。泣きたい時は、そうやって泣けばいいよ」


 紗友里はもう、泣いてなかった。二人ともずぶ濡れで、被った上着からも雨水が垂れ落ちる大雨の中、さっきの憂いはいつの間にか消えて、どんよりした空に不釣り合いな明るい目をして、君はまた笑って見せた。


「このまま電車に乗るのは、どうかと思うわ」

「そうだね。歩いて行こうか」


 僕らは肩を寄せあって、ひとまず彼女の家を目指した。雨は少しずつ勢いを弱めている。


「慎也くんの家のほうが近いのに」

「いいよ。送って行くから」


 紗友里は今、沢山の感情を手放して心を軽くする作業の途中なのだ。どんなに前を向こうとしていても、心残りや忘れられない思い出は、しつこく追いかけてくるもの。

 僕は、君が歩き始める時をゆっくり待つ。

 もしもまた君が、心に悲しみの水を溜め始めたなら、僕はもう迷わず、遠慮なしに、君のコップを揺らして漣を立てるよ。

 それは誰にでも出来ることじゃないって、わかったんだ。

 何より素敵な笑顔の君が、教えてくれたから。

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