コップの中の漣

夏村響

第1話

 井戸というのは私には珍しく、竹で作られた蓋をからからと開いてみた。転落防止のためか、半分だけ開くようになっていて、中は暗くてよく見えない。

 釣瓶などはなく、傍らのポンプで水を汲みあげるらしい。レバーを持って力を込めて押してみる。すぐに透明な水があふれ出た。

 叔母がよく使っていたのだろうか、ポンプの動きも滑らかだ。

「飲料水としては使われへんってことやけど……」

 用意していたガラスのコップに、その水をたっぷりと注いでみる。

 高く持ち上げてに透かして眺めても、濁りらしい濁りもなく、汚物が混じっているようにも見えない。

「澄んでいて綺麗な水やけどなあ」

 そう思いつつも、さすがに飲もうとは思わない。

 この屋敷の、かつての主である叔母が「飲めない、飲んだらあかんよ」と言っていたのだから、その通り、飲んではいけないのだ。

 庭木の水やりにでも使っていたのだろうか。

 ぼんやりと広い庭を見渡して生前の叔母に想いを馳せていると、突然、ぴちとコップの中で小さな音がした。

 驚いて目をやると、コップの中の水が細かく波立っている。

 コップに顔を近づけて、まじまじと見ていると、やがてその透明な水の中に小さな魚のシルエットが浮かび上がってきた。それは身体を優雅にくねらせて、コップの中を自由自在に泳いでいる。

 これは……なんと美しい。

 目の前で起こっている『不思議』に心を奪われていると、突然、背後から不穏な声がした。

「もし」

 ぎくりとして振り返ると、ひとりの痩せこけた青年がぼんやりと立っている。知らない人だ。

「もし、そこの方」

 と、彼は言葉を続ける。

「お水を一杯、いただけないでしょうか」

「水?」

 私は思わず、自分の持っているコップを見た。

 これを飲む、と?

「もしもし、お嬢さん……」

「ここは」

 一歩、後ずさって、私は目で縁側までの距離を測る。引き戸は開いたままだ。

「私の家の敷地ですよ。勝手に入られては困ります」

「もし、もし、お嬢さん……お水を一杯」

 青年は私の言葉が聞こえないのか、聞く気がないのか、薄ら笑いを浮かべて、ゆっくりとこちらに近づいてくる。ぞっとした。

 この屋敷を叔母から譲り受け、住むようになってから、ここの空気にあてられでもしたのか、私は目の前に現れるものが『人』か『人外』か、感覚で判るようになっていた。

 少なくとも、今、目の前にいるこの青年は『人』ではない。

 この不気味な状況から逃げ出すには、この水を渡せばいい。そうすれば、私は……。

 そっと水の入ったコップを後ろ手に隠した。

 青年の足が止まる。

 幼い子供のように、小首を傾げた。

「もし、お嬢さん……」

「あげるから、ちょっと待って」

 私はゆっくり慎重に、コップの中のたっぷり入った水を、指の隙間をしっかりと閉じた左の手の中に注いだ。

 ぴちぴちと動くものが手の平の上に乗った感触を確認して、私は残った水の入ったコップを青年に差し出す。

「どうぞ」

「あ、ああ」

 青年は喜びに頬を緩めるとそろそろと腕を伸ばし、大事そうに両手でコップを受け取った。私はその指に触れないように素早くコップから手を放し、そしてそのまま、駆け出すと縁側に滑り込む。

「ない」

 と青年が叫ぶのと、私が引き戸を閉めるのとがほぼ同時だったと思う。

 片手で必死に鍵を掛けた。その刹那、ドンと大きな音がして、引き戸が大きく揺れ、ガラスの向こうに青年の顔が現れた。口元はぬらぬらと濡れている。あのコップの水を飲みほして、そして、目当てのものが無いことに気が付いたのだろう。

 私は両手の平に小さな魚を柔らかく挟んで、尻餅を突いた状態で部屋の奥へと移動した。

 もう一度、ドンと音がした。

 ガラスが割れてしまう……。

 唇を噛んだ。

 ……頼りたくはない。

 けれど、このままでは小さな魚は干上がってしまう。この子はきっと、あの井戸の水の中でしか生きていけないだろうから。

「ミヤモト!」

 仕方なく名を呼ぶと、さわさわと風がなる。

 気が付くと、傍らに白地に細かな麻の葉文様の作務衣を着た男がひとり、微かに顔をしかめて立っている。

「呼んだか」

 こんな時にも冷静なこの男の様子が憎たらしい。

「呼んだわ! あれ、なんとかしいや」

「また、お前は何を招き入れて……」

「違う! 井戸の水を汲んでただけや! 何もしてへん!」

「井戸?」

 眉間の皺が深くなる。

「椿は言うてなかったか? あの水は使うなと」

「使うな? 叔母さんが言うてたのは飲むな、やないん?」

「どっちもや」

 ドンとまた派手な音がした。

 ガラスの引き戸が傾いたような気がして、私は叫んでいた。

「ミヤモト、早く!」

「ええんか。殺しても? 俺は加減というものが判らん」

 ぐっと喉が詰まる。

 ガラス越しに見える青年の姿は、もはや人の形をしていなかった。

 仕方ない。

「行け。許す」

 にっと口元だけで笑うと、ミヤモトは音を立てず、引き戸の方へと歩いて行った。


 ☆


 そっと手を開くと、そこには黄金色の美しい小魚がいた。大人しくしているが、口もエラもちゃんと動いている。ちゃんと生きていてくれた。

「この子、何なん?」

 井戸の傍で、隣に立つミヤモトに聞いてみる。彼はじっと魚をみつめた後、静かに言った。

「水の霊やな。神に近いが神よりも俗や。だから、さっきのみたいなものに狙われる」

「あの青年の姿をしたものは?」

「普段は土の中におる。この魚を追いかけてここまで上がってきよったんやろ」

「追いかけて? 捕食しに?」

「ただ、エサを追いかけて、というよりは、恋慕に近い感情があった」

「恋慕? なのに、あの青年の姿をしたものは、この魚を食べようとしてた」

「喰うことで自分のものにしたかったんやろ。恋やら愛やらいうもんは、自分の身を滅ぼしかねん厄介なもんやからな」

 ミヤモトはそう言うと、井戸の蓋を開けて、私に早く魚を戻せと手ぶりで促した。勿論、すぐに私はその通りにする。井戸の暗闇に堕ちて行く金色の魚は、瞬く間に見えなくなった。

 目を眇めて更に井戸の底を覗き込もうとする私の肩を引いて、ミヤモトはさっさと蓋を閉めた。

「井戸なんてもんはな、覗き込むもんやない。何が見えるか……いや、向こうの闇からお前をみつめ返してくるものがおるかもしれんのやから」

「あ、うん。判った」

「それから、もうこの井戸の水を汲んだりすんな。何が引っかかるか判ったもんやない」

 私は心から頷いた。

 二度と、井戸には近づかない。

「マツリカ」

 と、不意に彼が私の名を呼ぶ。

 私は顔だけ向けて、返事はしない。

「俺は、お前のことを喰いたいと思ってる。いますぐにでも、許されるなら」

「……ふうん、そう」

 少し考えて、私は言った。

「五十年待て」

「五十年やな。五十年たったら、お前は俺のものになる」

 さわさわと風が吹いて、気が付いたら私はひとり、庭に立っていた。

「……ほんまに厄介やな」

 私は足元に落ちている割れたガラスのコップを見下ろした。こぼれた井戸の水が地面を黒く湿らせている。

「片付けんと」

 ガラスの破片をひとつひとつ拾いながら、私は知らず、溜息をついていた。



おわり

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