コップの中の漣・下

『昼と夜の分は冷蔵庫に入ってるから、温めて食えよ!レンジだからな!前みたいにオーブンのボタンを押すなよ!』


 分かってるよ。

 いや、確かに最初に分からなくてボタンを押し間違えてプラスチックのお皿を溶かしてしまったけど、今は説明書を読んで問題無く操作が出来る様になったから、目の前で何度もやって見せても雄介は全く信用しない。


 ボクの方が年上なのに平然とため口、それに名前も呼び捨てだ。

 それでもこうして心配してくれるのは素直に嬉しいと思う。

 そう思えるくらいには僕も心に余裕が出来た。


 こっちに引っ越してきて一か月とちょっと、体の調子も以前と比べて良くなって来た、自転車で買い出しに行っただけで疲れ果てる事も無くなった。

 不本意だけど全部、雄介のおかげだ。

 

 何時だって手を抜かずに栄養面を考えてくれている。

 僕がインスタントで済ませようとするとすぐに怒るけど、それは僕の体を気遣ってくれているからで、今まで赤の他人でそこまで気遣ってくれる人と出会った事がないから雄介と一緒にいる日々は悪くない。


 そんな雄介は今、研修で世羅に行っていて帰って来るのは明日の昼頃になるらしい、そうなるとお昼はどうするんだろう?雄介は帰って食べると言っていたけど世羅から帰ってから作るとなると、すごく疲れる筈だ。

 

 そうだ、時には僕が作ろう。

 雄介は僕が料理の出来ない男だと思っているみたいだけど何度も商品の試食を作っていたから、実はそれなりに料理が出来る……出来ると…思う、うん出来ていたと思う。


 兎に角だ、思い立ったが吉日だ。

 明日に備えて今の内に食材を買いに行こう。

 僕は愛用の自転車を跨って走り出そう、そう思った時だった。

 

 目の前に、店長が居た。


「元気みたいだな倉橋」


 何時もと変わらないあの嫌な笑顔を浮かべて立っていた。



♦♦♦♦



「暑くて喉が渇いたんだ、何か無いのか?」

「ちょうど買い足しに行くところだったんで、今は水しかないです」

「そうか、じゃあ水をくれ」


 何故、僕は店長を家に上げてしまったんだろうか。

 たぶん怖くなって、それで上げてしまった。


「それでお話とは?」

「ああ、君の復帰に関する話なんだが」

「いえ、有給と公休を使って今月末で退職と言う話になっている筈ですが…」

「それなんだが、実はね君の叔父さんに渡した書類に不備があってね、有給は三日程少ないんだ、んで足りない出勤日は出てもらう必要がってね、三日も出られるならそのまま復帰して欲しくてね」

「……」


 断らないと、だけど怖い。

 体に染みついた相手に対する恐怖心で「はい」と言ってしまいそうになる。

 はいと言えば僕は戻らないと行けない。


「それにね君の所為で今、店が大変なんだ。パートが次々と辞めて行ってね、ほら覚えてる?あの生意気小僧、タバコ吸いたきゃ勤務時間外で吸えとか言ってたあいつ、あれも辞めたしね。だから人でなくて誰も彼も残業だよ、本当に君の所為で困ってるんだ」


 大山君が?僕と同期で確か本部に栄転する筈だった。

 ただ前から働き過ぎで体調を悪くしていた、もしかしたらさらに体を悪くしたのかもしれない。

 それだと会社の体質は全く変わっていないという事になる。

 今、戻ったら僕はまた体を壊す事になるかもしれない。


 雄介が頑張ってここまで戻してくれたのに、それに今は、僕にはやりたい事が出来た、だから戻りたくない。


「て…新見さん、僕は戻るつもりはありません、退職します」


 勇気を出せ。

 僕の前で自分の夢をはっきりと語って見せてくれた雄介の様に、まだ雄介の様に大きな夢はないけど、それでも僕は変わりたい。


「それに書類の不備は叔父に伝えましたか?あと退職に関して話をする時はおじ―――」

「そう言う話をしてるんじゃないんだよ!お前の所為でこっちは大変だって言ってんだ、なら仮病で休んでないでさっさと復帰しろ!」


 新見さんは突然、テーブルを叩いて怒鳴り始める。

 そして紙を取り出す。

 そこには誓約書と書かれていた。


「これにサインしろ、そして戻れ。嫌ならお前の所為で出た損失を請求させてもらう」

「な!そもそもそれは以前からパートやアルバイトに時間外労働や足りない売上の補填する為に物を買わせていたからでしょ、そん―――」

「そうだな君も強制していたね」


 ぐうの音も出なかった。

 僕は確かに、強制していた。

 そうしなと自分が責任を取らされるから……。


「言っておくが会社に何かあればお前も共犯だから、分かるよな?ならサインしろ」


 誓約書には退職届の取り消し、叔父が進めている法的措置の撤回、僕が過労で倒れたのは僕自身の責任、そう書かれていた。

 サインをしなければ、たぶん祖父ちゃんや叔父さんや、それに雄介にも迷惑をかけてしまう、ならこれにサインをするしかない。


 僕は印鑑を持って来て座る。

 名前を書いて印鑑を押すだけだ。

 

 それでも思ってしまう。

 水が注がれているコップを見る。

 水面は揺らぎ一つ無い平面だった。


 僕は名前を書く、そして後は印鑑を押すだけだった。

 その時だった。


 コップの中に漣が立っていた。


「ちょっっっと待ってよ土座衛門!」

「誰だ?」

「雄介!?」


 印鑑を押そうとしていた僕の手を雄介が押さえていた。

 

「誰だ君は!?」

「お前こそ誰だ!名を名乗れ!!」


 自分の怒鳴り声よりも遥かに大きい、お腹から出る雄介の声に新見さんは怯んでいる。

 何時も笑っている雄介の顔は怒りに染まっていた。


「何様だてめえ!春を脅して怯えさせやがって、警察呼ぶぞ!!」

「な、お前こそ何もだ!私は彼の上司としてここにいるのだ、部外者は黙っ―――」

「うるせえ!大切な、特別な人が苦しんでんなら、黙っていられねーのが男ってもんだろ!!」


 そう言うと雄介は僕を守る様に抱きしめる。

 そして新見さんを見て。


「それに啓二さんに連絡知ってからすぐに来るぞ、いいのか?ここに居て?」


 雄介がそう言うと、新見さんはすごい勢いで帰って行った。



♦♦♦♦ 


       

「春、何で俺が怒ってるのか分かるか?」

「ええと、一人で背負い込もうとしたから?」

「分かってるなら、分かってんなら……クソ!」


 腕を組んで仁王立ちをする雄介を僕は正座しながら見上げる。

 普段は常に陽気な男だけど、今は本気で怒っているみたいだ。


「俺が少しでも遅れてたら、あれにサインしてただろ?」

「うん」

「うんじゃねえ!やっとここまで体が戻ったんだぞ?また骨と皮だけになりたいのか?」

「いや、戻りたくは無いけど……」


 僕だって好きで骨と皮だけになった訳じゃない。

 出来れば健康でありたい。


「俺に迷惑を掛けねーよーに、サインをしようとしただろ?」

「うん」


 そう僕が答えた瞬間だった。

 雄介は僕を抱きしめていた。


「迷惑の一つくらい掛けてくれて良いんだよ!春が傷つかないで済むならいくらだって迷惑掛けてろ!」

「…ごめん、もう二度とこんな事、しないよ」

「ああ、誓ってくれ」



♦♦♦♦         



 僕の退職は滞りなく進んだ。

 あれから半年、少しずつだけど僕は復帰に向けて動き出している。

 まだ体は本調子じゃないけどそれでも確実に戻って来ている。

 以前は骨と皮だけだったけど今はちゃんと肉が付いている。


「おう!元気?便秘?俺は快便、つまり元気だ!!」

「下品だよ」


 そして雄介は今も僕の世話を焼いてくれている。

 体の調子も戻ったからもう大丈夫だと伝えても、最後まで面倒を見ると言い張って今も欠かさず来てくれている。


「そう言えば雄介、ずっと言おうと思っていた事があるんだけど」

「ん?何だ?」

「前に、僕を抱きしめただろ?ああ言うのは好きな相手にするものだから、少なくとも同性の僕にやる事じゃない」

「……はっきりと言ったんだけどな、気付いていないか」

「何が?」

「言っただろ?特別だって」

「……!?」

「やっと気づいた」


 そう言って、僕が混乱して思考が停止している事を言い事に雄介は僕の唇に……。


 本当に僕はこいつが大嫌いだ。

 僕と言うコップの中の、心と言う水を、漣の様にかき乱すこいつが大嫌いだ。

 こいつは僕にとってコップの中の漣だ。

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コップの中の漣 以星 大悟(旧・咖喱家) @karixiotoko

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