きさらぎの駅にて

八須田さん

きさらぎの駅にて

常夜灯が早朝の駅のホームをぼんやりと照らし出している。私一人だけの駅は、冷たい光を受けて静かにたたずんでいる。いつも通いなれているはずの駅なのにどこか不気味な雰囲気がただよう。


私は線路とホームのギリギリのところに立って、線路の向こうに広がっている暗闇をのぞき込む。この先に何があるかなんて分かりきっているはずなのに、ちょっとした不安が私を襲う。突然、私もあの暗闇に飲み込まれてしまうんじゃないだろうか。そんなことはあり得ないと分かってはいるのだけれど。


ふと、冷たい風がホームを吹き抜けて電線がうなりを上げる。二月は、暦の上では春だというけれど、風は身にしみるほど冷たい。思わず吐き出した真っ白なため息が、暗闇の中へと溶け込んでいく。


「何やってるんだろうな、私……」

何気なくそんなことをつぶやいてみる。けれどそれは自分の現状を責めるようなものじゃない。


むしろその逆。今の私はワクワクしていた。自分だけの秘密基地を見つけたちいさな子供のような、そんな気分だった。


ほんの三十分ほど前、私はいつもより一時間もはやく目を覚ました。目を開けたとたんに、意識がはっきりするようなそんな目覚め。誰にだって一年に二、三回はあるんじゃないかと思う。布団の中にいてもなぜだか目がさえていて、二度寝というものを思い出せずになんだか落ち着かないような朝。


そんな時はきまって少し感傷的な気分で、ふと目に入った窓の向こうのなんでもない景色に、何か胸が詰まるようなものを感じる。ガラス窓の外で冷たくたたずんでいる街並みに自分を配置してみたい、なんて考えた私はいそいそと制服に着替え家を出た。


冷たく澄んだ空気が、私を包む。身に着けたコートと手袋が心強い。

空はまだ群青色で、すみっこのほうにオリオン座が見えた。どこかから新聞配達の原付のエンジン音が聞こえてくる。街は、暗闇のなかでじっと息をひそめていた。

一歩ごと、一歩ごとに私の足音が街の遠くまで響いていく。


こつーん。

こつーん。

こつーん。


なんだかそれがうれしくて、うまく音が鳴るように歩きながら試行錯誤をしてみる。どうやら、つま先で地面を軽く打つようにして歩くのが正解らしい。私はますますうれしくなって、普段は歩くことのない、道のど真ん中を音高く進んでいく。優越感にも似た、弾んだ気分。自分だけの音が響く、ささやかで特別な時間は、新聞配達の原付が前方から迫ってくるまで続いた。


歩みを進めるうちに、やがて最寄り駅の明かりが見えてきた。暗がりのなかで煌々と光を放ち、いつもより存在感のある駅の看板。それがなんだかレアに思えて、少しの間まじまじと見つめてみる。


そのうち、この駅こんな字だったっけ、とゲシュタルト崩壊を起こして、本当にここが最寄り駅だったかどうか不安になってきた私はそそくさと改札へ向かった。

薄暗い改札をくぐった先の、ホームに降りる階段では駅員さんがひとり掃除をしていた。腰をかがめてホウキとチリトリをせっせと動かしている。どうやらこちらには気づいていないようだった。駅員さんが掃いたところ踏まないように、さっと脇を通り抜けて階段を下りる。後ろから、少し慌てたような『おはようございます』が聞こえた気がした。


ホームには私以外だれもいなかった。まだ暗い早朝のホームを、常夜灯の白く冷たい光が照らしている。目の前には、鈍い光を放つ自動販売機。ふとお腹が、きゅると小さな音をたてた。そういえば、家を出るときに何も食べていないかった。もこもこの手袋を外し、ポケットからいやに冷たい感触の小銭を引っ張り出すと自動販売機に押し込む。


ごとんとという音ともに現れたのは、コーンポタージュ。いそいそと缶を取り出し、手のひらで挟んでころがす。ぬくもりがじんわりと指先に伝わってくる。プルタブを開け、ゆっくりと飲み下していく。歯ごたえのあるつぶつぶの食感とともに、おなかの中にほっとしたものが広がっていく。ふう、と吐いた息はさっきまでよりもずっと白くなっていた。


残りを飲みながら、なんとなくホームの端を目指してゆっくりと歩き始めた。その行動に、特に意味はないけれど、不思議と心が弾んだ。誰もいない早朝のホーム。いつもは味わうことのできない、ちょっとした非日常がなんだか心地よかった。


こつーん。

こつーん。

こつーん。


また、あたりに足音が響きだす。やっぱり、アスファルトよりコンクリートの上を歩くほうがいい音が鳴るみたいだ。最近お気に入りの曲を少し大きな声で口ずさんでみる。凛とした空気の中に、子気味いいリズムが伝わっていく。ホームの端にたどり着いたら、今度はくるっと体の向きを変えて反対側の端まで。意味もなくホームの端と端を往復する。途中で、空き缶をゴミ箱に投げ入れていみたり、ホームと線路ぎりぎりのところに立ってみたり。ふだん人前ではできないような、ささやかなおふざけを心行くまで楽しんでいた。


こつーん。

こつーん。

こつーん。

楽しげな足音。


そんなことをしてホームを三往復するころには、あたりは少し明るくなり始めていた。暗闇にまじった少し特別な景色は、いつも目にしている日常の景色に姿を変えつつある。


ふと、頭上の掲示板がぱたぱたと音を立てて動き始めた。もうすぐ電車が来るらしい。しばらくすると無機質なアナウンスとともにホームに電車が滑り込んできた。学校の最寄り駅へと向かう各駅停車。目の前でドアが開く。私は何かに後ろ髪をひかれながら車内へ足を踏み入れる。どこか機械の匂いを含んだ暖かい空気が、顔に当たった。直後、がくんと車体が揺れ、電車が動き出す。ホームがゆっくりと遠のいていく。もう少しあそこにいてもよかったかな。なんだかちょっともったいないことしたような気分だった。ため息をついても、白い息はもう出てこなかった。


振り返り、車内をさっと見渡す。私のほかにも何人か乗客がいる。腕を組んで眠るサラリーマンに、少し化粧が派手な女の人。私と同じ学校の制服を着た、野球部と思しき男子生徒。車両の端っこの方には背の高い荷物を担いだおばあさんが立っていた。みな座席の思い思いの場所に陣取って、じっと目的に到着するのを待っている。

私の通う学校は少し遠い。この各駅停車だと一時間はかかる。立ちっぱなしはつらいので、適当に空いている座席に座る。


窓の向こうの景色はもうはっきりと見えるくらいに明るくなっていた。

夜と朝の境目ってどこにあるんだろう? そんなことをぼんやりと考えてみる。

きっとそんなものどこにもないんだろうな、と窓ガラスにぼんやりと映る自分の影を眺めていた。


私は鞄からいつものように文庫本を取り出すと、ゆっくりと続きのページをめくっていく。その間にも、電車はゆっくりと進んでいく。

いつのまにか、空はすっかり明るくなって、車内はいつものように混みあっていく。


私がほんの三十分前に感じた静けさは、もうあの駅のどこにも残っていないだろう。

それでも私は、いつものように本のページをめくる。

こうして、私の少し特別な朝は、いつもと変わらない日常へと溶け込んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きさらぎの駅にて 八須田さん @yasuda-san

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る