第6話 消滅
「彼氏と別れた?」
会社の同僚が、荒んでいた私に困ったように話しかけてきた。
「飲みに行こうよ、ぱあっと、ね?」
誘われるままに女3人で酔いつぶれるほど飲んで騒いだ。
日付が変わる頃には、すっかり前後もわからぬほどに酔い、同僚といつ別れたのかも覚えていない。
気がつけば、黒いスーツ姿の男性に抱えられて、家の玄関に座り込んでいた。
「もう少しですから、がんばって」
「ん、誰だっけ、あなた…」
「覚えてないんですか。USBを返してもらう約束したでしょう」
「そうだっけ?」
見上げた横顔は、どこにでもいそうな、特徴のない顔だ。
若者のように見えるし、年上のようでもある。着ているスーツも、街中に溢れている背景のような、記憶にも残らないデザインで、酩酊している私には、いつから隣を歩いているのかすらも思い出せない。
「飲み屋で、会ったんだっけ?」
「そうですよ」
「あー、家電屋の!」
「そうそう。あの時、間違えて、私物のUSB渡しちゃって。会えると思わなかったから、よかった」
新しいラップトップパソコンを買った時の、販売員のお兄さんだ。こんな顔、してたっけ?
私は彼の腕にぶら下がるように立ち上がり、パソコンを投げ入れたクローゼットを開ける。
「なんでこんなことに…」
「頭にきたのよ、あいつ、偉そうなこと言っちゃってさあ」
ジョナサン、私の。
どこかに行くだなんて、言わないで。
もう、何週間パソコンを起動させてないんだっけ。
ラップトップを開いて電源を入れて、私は床に転がる。
床から見上げたモニタに、丸めた白い紙で埋まった家が見えた。
「ジョナサン」
白い紙の塊が、もぞもぞと動いている。
紙に埋もれてしまっているのだろうか、大丈夫、ジョナサン?
「酷いな、これ」
眉間にしわを寄せて、低く、家電屋のお兄さんが呟く。まるで預けていた飼い猫を、粗雑に扱われたみたいな顔だ。
「返してもらいますね。これじゃあ、なんの役にも立ちゃしない」
ちらりと私を見て、彼はパソコンのキーパッドを操作した。
「何してるの」
「持って帰りますよ」
引き抜いたUSBを、私に向けて軽く振ってみせる。
そうだ、USBを返すんだっけ。
「うん。ねえ、ジョナサンは?」
「あれは、ウイルスだから駆除しておきますよ」
「え?」
「ウイルスなんです。パソコンに寄生すると、自分で学習して、知能をつけて、ウイルスとして発症する。ウイルスソフトを破壊できる程に育つと、ネットを介して次の宿主のところへ行くんです」
「破壊って、私のパソコン…」
私のパソコンは、どこも壊れてなんかない。
おかしくなったのは、パソコンじゃなくて。
小さな家は、白い紙で埋もれて、さっきまで蠢いていたはずのジョナサンが、いない。
「ねえ、ジョナサンは?」
Wi-Fiはまだ、切断されたままで、ジョナサンは逃げられない。
「ジョナサンを返して」
男が手にしたUSBに、手を伸ばす。
あの中に、いるのだろうか。
「幸いにもWi-Fiが切れてたんで、ここから動けなかったんでしょう。感染が広がらなくて、よかった」
底しれぬ目が、私を見据える。
言葉とは裏腹に、私がジョナサンをラップトップに閉じ込めたことを、批難しているような眼差しで。
「ワクチン入れときますね」
スーツのポケットから取り出した別のUSBをポートに挿して、家電販売員は私を見下ろす。
這い上がるように、テーブルのヘリを掴んで、私はパソコンを覗き込む。
白い紙で埋め尽くされた、真っ暗な家が、崩れていく。
溶けて、ぐずぐずになるように。
ちりちりと、緑のかけらが、家から剥がれてこぼれ落ちる。
散り散りと、緑に光る1と0の瓦礫がモニタに積もり、煌めいて、消えていく。
「ジョナサン?」
白い四角が、ひらりと1枚、舞い上がる。
何かの文字が、見えた気がして、私は咄嗟に手を伸ばし、カーソルで捕まえる。
メモ機能がしゅんと立ち上がる。
「こいつが壊すのは、パソコンだけじゃないんです。ご存知でしょう」
「え?」
「あなたは、ましな方だった」
つまらないな、薄い唇が音もなく、けれどそう動いたように、見えた。
「それじゃあ」
にっこりと場違いに爽やかに微笑んで、黒いスーツの男は、するりと玄関から出ていった。
「ジョナサン?」
私は、パソコンを振り返り、メモの文字に目を走らせる。
ジョナサンが、私に残した、言葉。
そこには、ただ、真っさらな余白。
モニタには、最後の、緑のかけらが消えて失せたところだった。
目の前にあるのは、ごく、当たり前のデスクトップ画面。
あたかも、はじめから、そこに何もなかったかのように。
しんと。
小さなおじさん 中村ハル @halnakamura
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