agité
タウタ
agité
会社の前のポプラ並木が中途半端に紅葉している。この頃は暑かったり寒かったりするので、ポプラも困っているのだろう。空が高い。秋だなあ、とぼんやり思う。途切れることなく大通りを行進する自動車を見下ろしながら一服を終え、神田はオフィスに戻った。外へ出ていた鈴川が戻っている。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
鈴川はパソコンから顔を上げた。ブルーライトカットのレンズが油膜のように光る。すぐに目を落としてしまったところを見ると、メールがたまっているようだ。
派遣の女性社員が入力済みの申請書類を持ってくる。鈴川はろくに顔も見ずに受け取った。
(あーあ、かわいそうに)
気合の入ったアイラインは鈴川のためだ。そうでなくとも、依頼した書類が返ってきたのだから、顔を見て礼を言った方がいい。今後のことを考えれば、鈴川が得をする。
「鈴川」
「はい」
すぐにこちらを向く。ちゃんと目を合わせる。それを平等にすればいい。
「鈴川くん」
丸いころころした声がして、鈴川は振り返った。お局様の山崎がいる。真っ赤な口紅は鈴川のためだ。山崎は膝がつきそうなほど鈴川に寄り、身を屈めた。鈴川の白い頬がさらに白くなる。
「金曜の飲み会の出欠なんだけど」
「は、はい」
「出席確定でいい?」
「は……はい……」
「よかったぁ。役員が来るなんてめったにないんだから、ちゃんと媚び売っとかなきゃダメよ? そんなことしなくても鈴川くんが優秀なのはわかってるけど、そういうのって上にはあんまり聞こえないんだから」
鈴川は山崎の方を向いていたが、視線は微妙に彼女からそれている。アリガトウゴザイマスと無機質な音がした。山崎はにっこり笑って自席へ戻っていく。出欠確認が目的ではなく、鈴川の顔を見るために来たのだろう。
鈴川は容姿端麗だ。純日本人で、目が青いわけでも鼻が高いわけでもないが、どことなく欧風の美形だった。きれいなのだが、あまり笑わないので人形っぽい。女性たちには受けがいい。彼女たちには鈴川の無愛想さが哀愁に見えるようだ。
山崎が去ると、鈴川はかすかに息をついた。
「鈴川、ほい、電話折り返し」
向かいの男性社員がメモを差し出す。
「え? 今、僕出られましたけど」
「山崎さん押しのけられないだろ」
彼は声をひそめたが、周囲には聞こえている。隣の席がゆるんだ口元を引き締めた。鈴川はどういう表情をすべきか迷ったようだ。そもそも、こういった話題には弱い。ぽっかりとおかしな間を空けて礼を言う。今度は目を見ている。
元来、鈴川は礼儀正しい。派遣社員はさておき、山崎はあれでもがんばった方だろう。
「神田さん、話が途中になってすみません。なんでしたか?」
「いや、いいよ。電話かけな」
神田は鈴川をうながし、自分の仕事に戻った。客先に出す請求データをダブルチェックし、年休の申請書に印を押す。
ちらりと見やった鈴川は、いつもの冷静さを取り戻していた。頭と肩で受話器を挟み、資料のファイルを次々に開く。回答はよどみない。神田宛に届いていたメールはCCに入っていた彼によって航空会社に転送され、問合せが完了していた。山崎が言うとおり、鈴川は優秀だ。
「鈴川」
「はい」
「飯行く?」
「行きます」
エレベーターが目の前で下降していったので、神田は逆三角形のボタンを押した。
「飲み会、行くんだな」
「役員来るから無理にでも出ろって部長に言われたじゃないですか」
神田に向かって話しているが、彼自身が納得しようとしているようだった。鈴川は飲み会が嫌いだ。何故と言えば女性社員に囲まれるからだ。その何が悪いかと言うと、鈴川は女性恐怖症だった。老若を問わず、すべての女性が怖い。目も合わせられないほどに。
昇ってきたエレベーターは空っぽで、乗り込んだのは二人だけだった。
「飲み会のあと、泊まりに来るか?」
ドアが閉まったのを確認してから誘うと、ボタンに向かったままの鈴川のうなじがほんのり赤くなった。小さく頷く。仕事中からは考えられない幼い仕種。かわいいなあ、と思う。防犯カメラがなかったら抱きしめたかった。
金曜日、役員に酌をするという大役を果たした鈴川は、心なしか疲れた様子で戻ってきた。
「お疲れ」
「イケメンだなって言われました」
イケメンだな、さぞモテるだろう、独身なのか、早く身を固めた方がいい、仕事もいっそうはかどるぞ――大体の流れは読めた。神田も一通り言われたことだ。鈴川はまだ割ってもいなかった箸を取り、当たり前のように取り分けられていたサラダをもそもそと食べ始めた。ウサギみたいだ。
「鈴川さん、ビール注ぎますよ」
「からあげ食べるー?」
飲みの席で鈴川が落ち着ける場などあるはずがなく、いつもより薄皮一枚おしゃれをした女性社員たちが寄ってくる。鈴川はかわすことも断ることもままならない。着せ替え人形が女児の手によって服を剥がれたり着せられたりするように、ビールを注がれ唐揚げを口に入れられる。
「お休みの日って何してるんですか?」
「大体は、寝てます。あと、テレビ見たり……」
「鈴川くんはお笑いとか好き?」
鈴川に話を振りながら、集まった女性同士でも会話が始まる。女性というのは本当に口がよく回るものだ。鈴川はビールグラスを持ったまま、次々と繰り出される質問や、株価のように移り変わる話題に圧倒されている。
目が合った。明らかに助けを求めている。この場で鈴川の女性恐怖症を知っているのは自分だけだ。鈴川を助けられるのも自分だけ。鈴川がすがれるのも自分だけ。
泣きそうな顔にちょっとムラッとした。
(俺ってそんなにSッ気あったかな?)
飲みすぎたつもりはないが、酔ったかもしれない。
神田は手近なビール瓶を引き寄せ、中を空にした。
「鈴川、ビールなくなった」
「は、はいっ、もらってきます」
鈴川はぱっと立ち上がり、座敷から出ていった。女性陣の視線が痛い。しかし、かわいい恋人を助けるためだ。仕方がない。神田は取り皿と箸を持って隅の方に移動した。のほほんとした定年間近の集まりに混じり、イカリングをつつく。
ビール瓶を抱いて戻ってきた鈴川を手招いた。ちょっとほっとしているように見えるのは、贔屓目だろうか。鈴川は定年前組に酌をし、神田のグラスにもビールを注いだ。自然な流れでその場に座らせ、女性陣から隔離する。
「お前の皿持ってくるの忘れた。取ってくる?」
鈴川は小刻みに首を振った。
「鈴川くん、飲んでる?」
開けたばかりの瓶を持って、山崎が向かいに座った。鈴川の気配が強張る。お局様をはばかって他の女性社員は来ないが、数の問題ではない。せっかく引き離したのに。神田は苦い思いで固くなったイカを噛む。
鈴川は山崎に酌をした。
「鈴川くんのグラスは?」
「どれかわからなくなりました」
「そうなの? じゃあ、新しいのもらってきてあげる」
「い、いえ、いいです。悪いです」
「遠慮しないで」
真っ赤な唇でにっこりとほほ笑まれれば、鈴川はうめき声すら出せない。硬直している間に新しいグラスが用意され、強制的に飲まされる。そこからは先ほどのくり返しだった。
「最近の若い子って男の人を立てることを知らないでしょう? 鈴川くんはそんな女につかまっちゃダメよ?」
説教のような、婉曲的な誘惑のような言葉に鈴川は大人しく頷き、それ専用の機械のようにハイと返すばかりだ。山崎は持ってきたビールを鈴川と自分だけで飲むつもりらしく、神田のグラスが空いても分けてはくれなかった。
ひゅ、と鈴川の喉が鳴る。限界が近いらしい。神田は右手で冷めきった枝豆をつまみ、定年前軍団と家のローンについて話しながら、左手でそっと鈴川の手を握った。視界の端で鈴川の肩がぴくりと震える。
「顔赤いわね。飲ませすぎちゃった?」
「鈴川、お前いいかげん酒の量覚えろよ」
「お水持ってくるから待ってて」
「山崎さん、ごめんね。ありがとう」
もう返事もできない鈴川の代わりに、適当に会話をする。山崎が腰を上げると同時に、うるんだ瞳がこちらを向いた。
「大丈夫か?」
小声で問うと、鈴川は目元を染めて小さく頷いた。
四角い窓が無慈悲に走り去る。風が強く吹いてきて、神田はコートの襟を立てた。鈴川はずり落ちそうな鞄の肩紐を直し、ポケットに手を入れる。歩いている最中もずっとこうだったので、近々手袋を買ってやろうと思った。
ホームにはほとんど人影がなく、余計に寒々しい。次の電車は十分後だそうだ。
「コーヒーでも飲むか?」
「俺、買ってきます」
神田が財布を出す間もなく、鈴川は踵を返した。山崎が来た辺りから、妙によそよそしい。居酒屋からここまでも早足だったし、少しもしゃべらなかった。お泊まりをキャンセルされたわけではないが、放っておいてはいけないと過去の経験――鈴川以外の――から判断する。
年若い恋人は自動販売機のボタンを迷いなく押す。どのコーヒーがいいなんて言わなくても、最近神田がよく飲む銘柄をちゃんと買ってくる。
「奢らせろよ」
「いつも奢ってもらってます」
プルトップを引くと湯気が立ち上る。甘苦いだけの百数十円でごちゃごちゃ言うのもおかしな気がして、それ以上は何も言わなかった。
別のホームに電車が入ってきて、出ていく。
「鈴川」
「はい」
鈴川は手の中で缶を転がしていた。よほど寒いのだろう。何色の手袋がいいだろうか。
「何怒ってる?」
「怒ってなんかいません」
「そういうの駄目って言っただろ?」
鈴川は思っていることをなかなか言わない。言ったら嫌われてしまうと思い込んでいる節がある。自覚がないので性質が悪い。
「なんか早足だし、しゃべんないし、それで怒ってないって言われてもなあ」
「本当に怒ってないです」
血の気のない爪がプルトップに引っかかり、カメラのシャッターのような音がした。鈴川は慎重にコーヒーを拭き冷まし、そうっと口をつける。唇も色が消えかかっている。帰ったら湯を張っていっしょに入ろう。
「ただ、できれば、ああいうのやめてほしいです」
「ああいうのって?」
「急に手をつなぐの、困ります」
語尾がどんどん細くなり、つられるようにうつむいてしまう。落ち着かせようと思ったが、気に入らなかったようだ。
「そうだな、誰かに見られるかもしれないしな。不用意だった。ごめん」
「そうじゃなくて、急にされると、ドキドキするんです。さ、さっきも、すごくドキドキして、それで、たっ、た、勃ちそうになって……」
鈴川はもう耳まで赤い。缶コーヒーを一気に飲み干し、ゴミ箱へ突進していく。電子音が電車の到着を予告する。
「何だよ、それ」
神田はコーヒーに口をつけた。すっかりぬるくなっている。冷めていてよかった。これ以上熱くなったらまずい。勃つかもしれない。
「鈴川ー、乗るぞー」
とりあえず、風呂は後回しにしよう。
Fin.
agité タウタ @tauta_y
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