08.紳士協定など猫には効かない

「御主人様~起きてくれないと~ちゅーしちゃうわよぉ~」


 聞きたくない言葉を夢の中で聞いたネルはともかく目を開けた。人生で一番の死に物狂いだった。


「とまれ!」

「いやぁぁん、いいところだったのにぃ~」


 すぐさま命令を下しスペードの暴挙を止めた。貞操危機一髪を凌いだネルは、額の汗をぬぐう。


「わたくしはどれほど気を失って?」

『一分かな?』

「命拾いしましたわ」


 おしゃまにお座りしているダイヤを見て、ネルは底の見えない谷底よりも深く息を吐いた。


『あの骨のドラゴンは燃え尽きたかなんなで消えたよ』

「わたくしの魔法は最強ですから」

『……あの変態の身体からでたけどね』

「思い出したくありませんでした……」


 気を失う前、スペードの胸から焔の濁流が溢れだすのを思いだしたネルは、草原に手をついてがっくりと項垂れた。


「燃えちゃうくらいのご主人様の愛を感じたわ」

『そのま燃えちゃえばよかったのに』

「可愛くないネコちゃんだこと」

『変態よりは五周くらいいいと思うけど』


 失意のネルを余所に、ダイヤとスペードの仲の悪さが加速していく。

 ダイヤは口は悪いがネルには従順だ。使い魔なので当然なのだが。

 スペードはスペードで煌びやかな気配を纏うネルにぞっこんだ。魔法を封じて負けるはずのない戦いにも負かされ、心底惚れたと言ってもいい。


「そこまでにしましょう、何かの魔力を感じます」


 いつの間にかネルは立ち上がり、茜色の空が途切れる地平線を睨んでいた。

 土に汚れお腹に穴が開き、裾もボロボロの紫紺のドレスをはためかせ、凛とした顔を向けている。


「見惚れちゃうわね」

『意見が合うなんて癪だけど、そこは認める』


 スペードとダイヤはボロを纏っても隠せない気品をネルに感じていた。


「かなり遠いですが、大きな魔力の存在が確認できますわ」

『ふーん。とすると、何かがいる、と』


 ダイヤはトテトテとネルの足元に忍び寄り、しゅるっとその艶のある尻尾を絡めた。


「ま、ここにいても仕方がないし、行きましょうかね」


 スペードはそう言いながら、同じく腹に穴の開いた執事服の上着を脱ぎ、ネルの肩にかけた。


「意外に紳士なのね」

「あら、ずぅっと紳士よ?」

『変態紳士だ』

「うるさいネコちゃんねぇ」

『ダイヤだと言ったはずだよ?』

「まぁまぁ、ともかく歩きましょうかね」


 ネルは履いていたヒールの高い靴を脱ぎ棄て、裸足で歩き始めた。





 焦げ茶色の草が風に揺れる。茜色の空は紫に変わることなく世界を照らしている。

 飛ぶ鳥の姿もなく、蟲の声すらも聞こえない。

 もう歩き続けて二時間を超える。ネルは言い様のない違和感を覚えた。


「ここって、どこなのかしら?」

『ネルが知らないものは分からないね』


 ゆっくり歩くネルの足元をうろつくダイヤが答えた。


「うーん、さっきから生き物を見ないのよねぇ……」


 スペードは顎の髭をさすりながら空を見上げた。茜色の空に動くものは雲しかない。


「わたくしもそれが不思議でならないのですが」


 スペードが同じ意見だったことに、ネルはちょっと安心できた。変態とはいえ、賛同者がいるのは心強いからだ。


「ずっと休まずに歩いているのですが、ちっとも疲れません。おかしいのは間違いないでしょう」


 ネルは若いが女性である。貴族令嬢故、体力があるわけもない。二時間も歩いていればへとへとになってしまうはずだ。

 だがネルは疲労を感じていない。喉の渇きも、空腹感もない。

 生物として歩けば汗をかき、水分を補給したくなるはずである。それがないのだ。


 ネルがおかしいのか、世界がおかしいのか。


 使い魔であるダイヤ、同行しているスペードは吸血鬼で人間ではない。参考にはならないのだ。

 判断に迷うネルだ。


『そういやそこの変態紳士は吸血鬼なわけで』

「ネコちゃん? 何が言いたいのかしら?」


 二人の間に走る剣呑な空気。だがネルはそれを切り捨てるかのように「黙りなさい」と一喝する。


「いま大事なのは、ここがどこであるかをはっきりさせることです。わたくしはお父様とお母様の安否を確認しなければ。いえ、確認したいのです」


 真っ直ぐ前を向くネルの強い口調に、ダイヤもスペードも押し黙った。ふたりともネルの使い魔と下僕なのだ。力関係は絶対である。

 強い沈黙が三人を包んでいる。


「あら、向こうの方に何か見えてきたわね」


 その重苦しくのしかかる空気を打破する如く、スペードが指を向けた。

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ネクロ様が逝く。~お供はポンコツ吸血鬼~ 凍った鍋敷き @Dead_cat_bounce

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