その顔が見たくて

「じゃあ、アンケート集め終わったら、職員室まで持ってきてもらっていい?」

「わかりました」


 僕の簡潔な返事に、我らが3年5組の担任教師は短く礼を言って、教室を去った。

 先生に言われた通りアンケートを集めながら、僕は教室をぐるりと見回す。


 放課後。ホームルームを終えたばかりの教室はガヤガヤしていて、僕はそれが、少しだけ苦手だった。

 毎日当番制で行われる掃除を形式的にこなすクラスメイトや、同じ部活に所属している者同士で集まる人たち。遊びの相談だろうか、周りの子よりちょっとだけ派手な色の唇で話す女の子たち。


 そして、彼女。

 向こうも僕を探していたらしく、ぴたりと目が合った。


「あ、いたいた。さっき先生に呼ばれてたよね。なんだった?」

「ああ、さっきのアンケートの回収。大体終わってるけど」


 朗らかな笑みを浮かべながら問われて僕が答えると、彼女はその表情を曇らせた。


「ごめんね、ちょっと話してて。私の仕事でもあるのに」


 彼女は心底申し訳なさそうな声で言う。僕は「気にしないで」と言った。本心だ。別に、大した手間でもない。

 僕と彼女はこのクラスの学級委員だ。二人とも、自分で立候補(そんな大層なものじゃないけど)して、他に誰もいなかったのでそう決まった。


「でも、悪いよ」

「大丈夫。先生も僕にしか頼まなかったし」


 謝罪の言葉を重ねる彼女にそう言ってから、僕は後悔した。しかし悔やんだところで、一度口に出した言葉は戻せない。僕は急いで言葉を継いだ。


「あ、いや、今のは嫌味とかじゃなくて」


 彼女は一瞬きょとんとして、それから笑った。鈴を転がしたような笑い声。


「ああ。わかってる、わかってる。そんなに気使わなくていいよ」


 暇を持て余している僕と対照的に彼女はなにかと多忙で、学級委員としての業務はほとんど僕が担っている。僕はそれを不満に思ったことなどないのだが、彼女は負い目を感じているらしかった。

 だからこそ、さっきは「しまった」と思ったのだが、杞憂だったようだ。


「そっか。ごめん」と口を回しながらも、僕の意識は内側に向いていた。

 僕はしばしば、こうした的外れな心配をしてしまうことがある。それが、自分が社会に馴染めていない証拠のように思えて、そのたび小さな自己嫌悪に陥るのだ。

 今だって、もちろん。


 胸の裡で、自分を苛む声に耳を塞ぐ。目の前の現実に意識を引き戻した。

 見れば、彼女もまた自責しているような表情かおで立っている。


 僕にしてみれば、彼女がそういった責務を面倒くさがって投げ出すような人物じゃないことは知っている。だから、彼女のそれこそ的外れに思えるのだが、当人にとってはまた違うのだろう。


 僕がかける言葉を探していると、不意に横合いから声がかかった。


「これ、よろしくね」


 そう言ってクラスメイトが差し出したアンケート用紙を、適当な返事をしながら受け取る。これで揃った。


「じゃあ」僕は少し視線をさまよわせて、言った。「僕、行くね。揃ったから」


 彼女は手伝いを申し出てくれたが、断った。わざわざ二人で分けるような量でもないし、何より──


 瞬間、脳裏をよぎった言葉を打ち消した。自分でも、馬鹿げたことなのは理解しているからだ。






 心なしか、足取りが軽い気がした。


 放課後に教師からの頼まれごとで拘束されるとなれば多少面倒なものなのだろうが、僕に限ってはそれは当てはまらない。僕は望んでこの仕事を請け負っている。

 それを思えば、先ほどの彼女の自責は真に的を外していたということになるだろうか。もう少し、うまく伝えられたらよかったのだが。


 頭の中ではあれこれと考えられても、いざ言葉にしてみれば必要な情報は欠け、逆に無駄な一言を紡いでしまう。僕はどうしようもなく不器用だ。


 そして今も、そうだ。


「失礼します」


 扉を開け、努めて明るい声を出す。及第点といったところか。


 軽く頭を下げて入室。勝手知ったるとばかりに職員室を横切り、一番右の、奥から二番目のデスクへ。


「先生」声をかける。「アンケート、持って来ました」


 先生は振り返ると、すぐに笑みを咲かせた。「ありがとう」とやはり短く謝辞を口にして、僕からアンケート用紙を受け取る。


「仕事が速くて助かる」

「いえ」


 ああ、そっけなかっただろうか。やっぱり僕は不器用だ。

 

 何か言わなければ。


 言葉を探す。見つけた。


「好きで、やってるので」


 慌ててそう言ってから、恥ずかしくなった。先生には気取られていないと思いたい。いや、きっとそうだ。今のやりとりで意味が通じるのは僕だけだ。


 僕の内心を知らない先生は、笑みを深めて興味深げに言った。


「何が君のモチベーションになってるの?」






 その質問に、僕がなんと答えたかよく覚えていない。たぶん、当たり障りのないことを言ったのだと思う。


 教室の、自分の席に座って天井を見上げた。目を閉じて、息を吐く。


 覚えているのは、先生の、あの優しげな笑みだけだ。


 「その顔が見たくて」。


 言えなかった、言わなかった言葉が心に浮かんで、消えた。

 今日だけは、自分の言葉足らずに感謝してもいいかもしれない。


 

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青春コンプレクセス S @warukunai

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