鬼さん、こちら。~隣はなにをする人ぞ~

シンカー・ワン

雷光鬼・蔵王丸


 宵闇の中、駅から少し離れた住宅街の路上を足早に歩く人影ひとつ。

 地味な雰囲気をまとった妙齢の女性である。

 洒落っ気のない髪型に飾りのない化粧、おまけに眼鏡。言っては何だがルックスの方も地味目。

 ただ派手さのない装いに包まれた肉体の方は、思わずむしゃぶりつきたくなるようなボリュームをしていた。

 そんな美味しそうな身体を隠すように帰路を急ぐ女。

 街灯がLEDに替えられて明るく照らされていることと、まだ夜といっても早い時間帯であり辺りの家々から多くの人の気配がしていることが、焦る心を何とか落ち着かせていた。

 女が焦りを抱える理由。

 それは少し前から誰かが後をつけているような気配がしているから。

 何度か立ち止まり振り返って確かめてみるのだけれど、後ろに人影などはなかった。

 だが前を向いて進みだすとがつけて来る感覚が沸いてくるのである。

 叫び出しそうになる気持ちを必死に抑えながら、女は歩みを速めていく。

 あと少し、先の角を曲がれば自宅である賃貸マンションが見える。

 小走りに角を曲がり、やっと見慣れたマンションのエントランスを視界に捉えたと思ったその瞬間、彼女は見知らぬ袋小路に立っていた。

「……え……なん、で?」

 呆然と自分の前方を囲む壁を見まわす女の背に、

「ざーんねん」

 と、背後から息が抜けるようなイントネーションで声がかけられる。

 驚いて振り返った女の視線の先には、ひょろりと細身で背の高い、暗い色のフード付きパーカー姿の若い男がいつの間にか立っていた。

 目深なフードから刺さる視線、それが先ほどからずっと感じていたものと同じだと確信する女。

 思わず後ずさりするが、すぐに壁に背が付いてしまう。

 少しでも男から距離をとろうと壁伝いに動くが、逆に自ら隅に追い詰められるようになる。

「な、なんなんです? わ、私に何かするつもりなんですか?」

 恐怖におびえながら両腕を前で合わせ、身体を守るようにしつつ震える声で問いただす女。

「あんた、美味しそうだからさ、食べちゃおうっかなってね」

 例によって空気が抜けていくようなイントネーションで、楽しげな声をかける若い男。

 その言葉にこれから自分の身に降りかかるだろうを想像し、ガチガチと歯を鳴らし震えながら身体を縮こませていく女。

 ゆっくりと男が近づいてくる。

 女は逃げ出すことも叶わず、恐れながらも男から目が離せない。

 フードの影から男の顔がうかがえた時、

「――ひ、ぃ」

 女はさらなる恐怖に身を打たれ、声にならない声を漏らす。

 男のかおには凹凸がなかった。

 ツルツルとした表面はキラキラと光るうろこに覆われ、人でいう口のあたりに縦細の小さなふたつの孔、その下にVの字に大きく裂けた口。

 口の両端辺りにランランと輝く、爬虫類特有の冷たい眼があった。

 男の口から二股の長い舌がしゅるりと送り出されたのを見た瞬間、女は意識を手放していた。

 力なく横たわる女の姿態に舌舐めづりをしつつ、男が近寄っていく。

 その姿も少しずつ人の形から離れだして、首が伸びてきつい前傾姿勢になりパーカーの裾からどこに隠していたのか長い尾が飛び出し揺れ動く。

「くくク、ほントうにウまソウだ」

大きく裂けた口はもはやのイントネーションでは喋れず、開けた拍子にピチャリと滴る涎が地に落ちる。

 若い男だったが大きく口を開け、女へと覆いかぶさろうとしたその時、


美味うまそうなのは否定しない。けど俺なら性的に食べるね」


 よく通る低い男の声が投げかけられた。

 反射的に声の聞こえて来た方へ振り返る元・若い男。

 読み取りにくいその顔に困惑が浮かぶ。

 この場は彼が作り出した獲物を追い込むための結界である。常人が踏み込んでこれるような場所ではないのだ。

 なのに彼にも気付かせず、いつの間にかやって来ている侵入者。

 彼の視線の先に立っていたのは、フリース地のスウェットの上下に半纏はんてんを着込んだ、ちょっとそこまで買い物に出たといった風情の中年男だった。

 実際その中年男は右手にコンビニの袋を下げており、まさに買い物帰りに立ち寄ったのだろう。

 黒の短髪天然パーマでもみあげは長め、薄い眉に唇。

 切れ長の三白眼が鋭くトカゲ男を射抜いている。

「なーんかおかしな感じがするから寄り道してみたけど……ビンゴ、だったな」

 人の形をしたトカゲ爬虫類を前にしても動じた様子を見せることもなく、飄々と言葉を紡ぐ中年男。

 異形の背後に横たわる女へと視線を向けて、

「そこのひと、知った顔なんでね。悪いが見逃しちゃもらえないか?」

 本気で悪いと思っているような苦笑いを浮かべつつ、ゆっくりと近づいてゆく。 

 異形の鼻先がわずかに動き、鋭敏な感覚器官が目の前に立つ中年男が何者であるかを看破する。

「͡このニおイ……キシャま、オニか?」


「――鬼だよ」


 異形の問いに立ち止まり、凄絶な笑みを浮かべて答える中年男。

 放たれた鬼気に一瞬気圧される異形だが、

「フ、人にその身ヲ落とシたツノなしゴとき、おそルるにたりン」

 敵にもならないと見たのか、異形――トカゲ男――は牙をむき出し爪を立てて、わずか数メートルしか離れていない中年男へと目にもとまらぬ速さで飛び掛かった。

「おおっと、危ない危ない」

 しかし言葉とは裏腹に、全然危なげなくトカゲ男の突撃をかわす中年男。

 たいをかわした動きを利用してすっと回り込み、かばうように倒れた女の前へ。

 中年男は大胆不敵にもトカゲ男に背を向け、女の身の無事を確かめてから手にしていたコンビニ袋をそっと預けるように置き、改めて向き直る。

 一見無防備に見えた行動だったが、トカゲ男は襲い掛かる隙をうかがえずにいた。

 先ほどとは位置を変えて対峙する中年男とトカゲ男。

 ふたりの男の間に強い緊張感が走る。

「――お前はツノ無しと言ったが、今日日きょうびの鬼のツノはちょっと変わっててな」

 数歩前に出て言うなり、中年男は右手の指で何かの印を組み、すっと額に掲げゆっくりと腕を前に突き出し、


鬼身変化きしんへんげ


 と、一言。

 次の瞬間、中年男の全身に雷がほとばしり、光輝く。

 あふれる光の奔流にトカゲ男は視界を奪われ、中年男の姿を見失う。

「ケぅっ」

 たじろぎながらもなんとか踏ん張り、取り戻した視力でトカゲ男が見た先、そこに中年男の姿はなかった。

 代わりに深い深い緑色の身体をした一本角の鬼が立っていた。

 額に鉢金はちがねを付けた帷子かたぴらの頭巾をかぶり、頭頂部から額へのスリットから鈍い銀色をした一角が突き出ている。

 顔は面のようであり、目や鼻、口は見えないが隈取の紋様がそれらを表すかのように描かれていた。

 引き締まった筋肉質の体躯、体色に近いくすんだ緑色をした革の胸当てや肩当て、手甲に脚絆。

 猛々しくも凛とした、戦う者の姿がそこにあった。


雷光鬼らいこうき蔵王丸ざおうまる。――推参」

 斜に構え、印を組んだ右手を指すように伸ばして名乗る鬼。


「!」

 突然現れた鬼の姿にトカゲ男は一瞬ひるむが、闘争本能に突き動かされすぐさま戦闘態勢へと移行する。

 強靭な尾と脚の瞬発力が生み出す凄まじい速度で飛び掛かり、大きく開けたあぎとが鬼――蔵王丸――の頭を狙う。

 が、縮地と見まごうような踏み込みを見切ったのか、飛び込んでくるタイミングに合わせて身体を捻り、回し蹴りを叩き込む蔵王丸。

「ハッ」

 がら空きになっていた胴体に蹴りを食らい、女の倒れているのと反対側の隅の壁へと叩きつけられるトカゲ男。

「くケケ……」

 ダメージは小さくないが致命傷ではない、とトカゲ男は負傷具合を即座に見極め、鬼から目を離さずに再び戦闘態勢をとる。

「退く気は……やっぱり無いか」

 トカゲ男の様子をうかがいながら、小さくこぼす蔵王丸。

 ふっと構えを解き脱力したかと思うと、先のトカゲ男のそれに劣らない鋭い踏み込みを見せ、脇を締めて肘から先だけのストロークの短い直突き!

 一見ただ突いただけの拳であったが、蹴り足から腰、肩から肘そして拳へと力の伝わったとてつもなく重い一撃で、

「ウごげバぁ、オぉオぅ」

 蹴りを受けたあたりにもろに食らったトカゲ男は、言葉にならないうめき声をあげ、吐瀉物をまき散らしながら悶絶する。

「おおっと、危ない危ない」

 すかさず飛び去り、トカゲ男が吐き散らかす体液から、いまだ気を失い倒れている女をかばうように両の腕を振るう蔵王丸。

 吐瀉液を受けた革製の手甲が煙を上げ溶けていく。

 トカゲ男の体液は、強力な溶解液にもなるのであった。

 悶絶しつつも蔵王丸の対応から、かすかな勝機を感じとるトカゲ男。

 蔵王丸ではなく、その後ろの女を目掛けるように、溶解液を吐きつけんと大きく口を開ける。

 が、蔵王丸。それを読みとり、

「させんよっ」

 溶解液が噴出されるより早く飛び出し、強烈な前蹴りをトカゲ男のあごへとぶち込み、口をふさぐとともに液の噴出角度を前方から上方斜め後ろへと変えてしまう。

 大きく蹴り飛ばされ、自身の作った結界の入り口付近まで転がっていくトカゲ男。

 もはやボロボロだが、目には怒りと闘争心の火がいまだに灯ったままだ。

 彼我の戦闘力の差を受け入れつつも、尾で踏ん張るように立ち上がり爪を立て蔵王丸と対峙する。

 退き下がり汚名を被るより、強敵と闘い名誉ある死を。

 戦闘種族の矜持を胸に、最後まで戦い抜くことをおのれに誓うトカゲ男。

 自身も戦闘種族の鬼であるからだろう、トカゲ男のそんな覚悟を蔵王丸は察し、正面から受け止めんと構えをとる。

 戦士には戦士としての相応しい対応をと、腰を落とし右腕を引き、その拳へと静かに闘気を込めていく。

「――雷光拳らいこうけん

 蔵王丸の唱えに合わせるかのように、トカゲ男が最後の力を振り絞り飛び掛かってくる。

「くケケケーーっ」

 爪が銀閃を描き、蔵王丸に届く寸前、

雷迅撃破らいじんげきは!」

 いかづちをまとったこぶしがトカゲ男をカウンターで迎え撃ち、致命的な一撃を加えた。

「ぐガあアアぁーーーーっ」

 絶叫を上げながら激しく吹き飛ばされたトカゲ男が、袋小路の側面の壁へと激突しそのまま崩れ落ちる。

 胸当てに残された鋭い爪痕をそっとなぞりながら、

「……お前らも、俺らみたいに共存を選んでればなぁ」

 蔵王丸がこほしたどこか湿ったようなつぶやきを、一矢報いたトカゲ男が聞き取れたかどうかはわからない。

 拳から体内へとぶち込まれた電撃がトカゲ男の全身を内側から激しくいてゆく。

 トカゲ男が黒焦げになり灰と化し散る。

 完全に塵に還ったのを確認した蔵王丸が指で印を組み規則的な腕の振りを行うと、体表が揺らめきだし戦う鬼から元の中年男の姿に戻っていた。

 中年男は女に寄り添うとコンビニ袋を手に取り、しばらく思案すると倒れた女の身体をゆっくりと起こし背負った。

「うほっ、役得役得」

 背に触れるふたつのたわわな柔らかい膨らみ、抱える両手に伝わるボリューミーなももの肉の感触を楽しみつつ、中年男は袋小路の出口へと歩き出した。


天海あまみさん、こんばんはー。今お帰りですか―?」

 突然の声掛けに天海あきらは驚いて振り返り、今自分がどこにいるのかを知って、また驚いた。

 そこが自宅である賃貸マンションの一階エントランスだったからだ。

 

 "――あれ、おかしい。自分はここまでの道を急いでいたはずで、もうすぐって角を曲がったところで……ところでどうしたんだっけ? あれ、変だな、記憶が飛んでるみたいな、何か変な感じが――"


「天海さん天海さん、どうかしましたか? ぼうっとされてますけどぉ……」

 突っ立ったまま、あれこれと考えを巡らせている天海あきらに、再び声がかけられる。

 戸惑いながらも、声のかけられた方向へ目を向けるあきら。

 視線の先には、部屋着だろうスウェットの上下に半纏を羽織った隣人・財津原ざいつはらがいた。

「……あ、ちょっと記憶が飛んでて。――たぶん疲れだと思います」

 まとまらない考えを横に置き、額を軽く抑えながら財津原に答える。

「ちゃんとしたお勤めの人は大変ですねー。その点俺なんかは自由業でお気楽なもんですよ」

 売れてない漫画家だという財津原の自虐的な言葉に、少し笑みが戻るあきら。

「お疲れなんなら早く部屋に戻って休んだ方がいいですよ。って、あ~呼び止めたのは俺かー」

 自分に気を使いながらも場を明るくしようとする財津原の思いやりに、気持ちがほぐれていくのを感じるあきら。

 タイミングよく、エレベーターが降りてくる。

 財津原が急かすようにしてあきらともども乗り込む。

 健康はなにより大切だとか疲れをとるにはあれが良いこれが良いとか財津原が一方的に話しかけ、あきらがそれに適当に返しているうちにお互い目的の階につく。

 角部屋の財津原が先を行き、あきらが後に続く。

 自室のカギを開け入ろうとするあきらに、

「今夜はあったかいお風呂に入って、ゆっくり眠ることです。おやすみなさい」

 同じように自宅の扉を開こうとしていた財津原が、優しい笑みと渋い低音で告げる。

 よく通る声が耳を打ち一瞬胸が高鳴ったが、あきらはごまかすように笑顔を返してドアを閉じる。

 居間に入り服を着替えながら、今夜はよく眠れるかもと思うあきら。

 どこかすっきりとしたその顔には、あの空白の記憶などなかったようだった。


「どこ行ってたんですか、鬼頭きとうせんせーいっ」

 自室に戻った財津原を迎えたのは、スーツ姿のスレンダーなうら若き女性の叱責だった。

「あー、気分転換と夜食買いにコンビニまで。あ、ちゃんと日登美ひとみちゃんの分もあるから」

 面食らったが、即立て直し何事もなかったかのようにふるまう財津原。

「外出するならケータイ持ってってくださいよー。お手洗いから出たら姿消えてるし、逃げたかと思ったじゃないですかー」

 日登美と呼ばれた女性は 言うことを聞かない子供叱るような態度で財津原を責め立てる。

「あー、ごめんごめん。ついうっかりしてた」

 全然反省の色のない口調で答える財津原。

「買い出しなら私が行きますから。先生は原稿に向かっててくださいっ」

 財津原からコンビニ袋を奪い、机の方へと押し立てていく日登美。

「わかってますか? 締め切り明日のお昼なんですよ? まだ十ページも残っているんですから、もっと危機感持ってくださいよー」

 机についた財津原に訴えかけるようにまくしたてる。

 言動から察するに、どうやら彼女は財津原の担当編集者のようだ。

 売れてない漫画家と天海あきらに名乗っていたのは、どうも本当のことらしい。

「大丈夫、大丈夫。これくらい、今まで何度も切り抜けてきたから」

 修羅場は慣れたもんだとつぶやく財津原。常習犯の気配がプンプンだ。

「締め切り前にきちんと上げてくれてれば、なんにも問題ないんですよー」

 そんな財津原に対し、もっともなことを叫ぶ日登美である。

 机についた財津原を監視するように、座卓に置かれた原稿を手に取りチェックし始める。

「今時アナログオンリーだなんて……デジタルなら編集部でテータ入稿できるのに……」

 仕上げ済み原稿の吹き出しに、セリフの写植を張り込みながら愚痴る日登美。

 そんな彼女の恨み節をBGMに、ペンを走らせる財津原。

 大変な時なのに、浮かんでいるのは笑顔であった。

「笑ってないでキリキリ描きましょーっ」

 見えていないはずのない笑みをなぜか察知し、檄を飛ばす日登美。

「――はいはい」

 背にかかる日登美の声に、やはり笑みを浮かべて原稿に向かう。 


 彼の名は財津原王仁彦ざいつはらおにひこ。三十九歳、独身。

 鬼頭蔵王丸きとうざおうまるの名で、細々と成人男子向け漫画家をやっている。

 サラリーマンからの転身で、キャリアはだいたい十年。

 これまでに単行本三冊上梓、売り上げはそこそこ。

 別のペンネームで一般誌に描いたりすることもあったり。

 現在、絶賛締め切りと格闘中。アシスタントは常時募集。


 たま~に鬼の姿になって、異形から人々を守ってたりもしてます。

 

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