鳩(pigeon)

安良巻祐介

 

 ある薄曇りの午後、大学の構内を歩いていると、食堂前のアスファルトの地面に、鳩が一羽、背を向けているのを見つけた。

 青味の混じった灰色の首を少し右へ傾けて、じっとしているそれは、どこにでもいそうな、ありふれた種類の鳩だった。いわゆる土鳩という奴だ。

 鳩の向こうには、休業日の看板を提げた学生食堂のガラス戸が、駐車場から中庭までの景色を、現実よりほんの少し、モノクローム寄りの色調に映している。

 辺りに風はなく、とにかく退屈な光景だ。何も際立ったものはない。

 それなのになぜ、足を止めてしまったのだろう。

 ガラス戸の中に、着慣れた服を壊れたように着て、無意味に肥った鞄を肩にかけて立っている、自分の姿をぼんやりと感じながら、僕は考えた。

 食堂横の時計が、カチリと音を立てるのが聞こえた。

 鳩は、石造りの彫像のように動かない。

 鳥類独特の、目玉だけが昆虫類のような顔を、ただ虚空に向けているばかりである。

 本当に、ありふれた鳩なのだ。

 僕は、昨日の朝も、今朝も、家のベランダに、この鳩の羽音が響くのを、窓越しで聞いた。

 母が、また来てる、迷惑な鳥だ、何が平和の象徴だ、と、物干し竿の合間から手を打っているのを幾度も見た。

 僕はいつも、枕に半分顔を埋めてまどろみながら、母も、何羽いるのだか知らない鳩たちも、ただ、うるさい、と思うのである。

 けれど、今、僕の視線は、そんな鳩の一羽の姿に、奇妙に吸い寄せられていた。

 特にその、ねじった首のあたりに。

 その部分は、全体にくすんだ感じの鳩の姿の中で、鮮やかな紫と緑の色彩を現している。

 灰色の胸回りに刺す、ベルベットの紫紅色。

 そこへさらに、ひとつかみの晶玉を砕き溶いて、筆で滲ませたような、濡れた、濃い緑。

 この鳥にこのような美しい部分があることを、僕は今まで知らなかった。

 見つめれば見つめるほど、その部分は鮮やかさを増していく。

 まるで、古い小説の屋根裏の闇の中、彫刻の施された古い遠眼鏡を逆さにして、おそるおそる覗きこんだ時のような――不思議な視覚である。

 それだけではなかった。

 やがて、その色合いを中心として、僕の目の中で、それまでありふれたものであったはずの鳩の姿は、パーツ毎に奇怪な正体を現し始めたのだ。

(この鳥の目は、ガラス粒だ)

 と、僕はまず気がついた。

 それも、薄めた血を封じ入れた、細工物である。

 絡繰り仕掛けの髄脳へ、何とか感情を持たせようと、人の血液を使ったところが、まるで効果を上げなかった。そのために、結局のところどこをも見ていない。

 そういう、つくりものの薄赤い目玉である。

 さらに、その嘴は、古い象牙を削り出して、余った破片にやすりをかけて、くっつけたものである。

 それが証拠に、最初ペン軸にしようとして掘り付けた溝のあとが、鼻先から付け根にかけて、はっきり残っている。

 鳩としての全体の形は、薹の立った柔らかい瓢箪を取って、それらしく整えたものらしく、羽根の下のふくらみに、その面影があるように思われる。

 また、行儀よく畳まれた翼は元々地図であり、そこに浮いた斑は、奇妙な諸島の影に見える。つまり、隠された記録である。

 弓のように広がった湾を持つ、秘海の一孤島と、その周りの、殆ど島に成りきらぬ小さな島の、点々と散らばっているかたちとが、こうして目を凝らすとよくわかる。

 そして、この鳩を支える、皺の入った桃色の足は、その諸島で産される、特殊な植物の茎である。

 幾又かに分かれたその爪状の根を以て、地面や家の中の床に取り付いて、人の見ぬ間に、身体のインキやガラス粒を瑞々しく保つための、養分を吸うのだ。

 それらの、魔法的な細工が組み合わさって、目の前の鳩が造られている。

 僕には、もはやそうとしか思われなくなってきた。

 それが証拠に、こうして見ている間ずっと、鳩はぴくりとも動こうとしないではないか。

 すでに輪郭を暈しきった、モノクロームな周囲の景色の中で、僕はいつまでも、鳩の姿を見つめていられる気がした。……


 ばさばさばさ、と音がした。


 ハッとして見てみると、視界から、鳩の姿が消えていた。

 ガラス戸をよぎった軌跡を一瞬間遅れて追うと、灰色の空に、影が飛び去るところであった。

 ……それは紛れもなく、日々の視覚に慣れ切った、ただの鳩の影であった。

 食堂横の時計がまた、カチリと音を立てた。

 僕は口を開けて、ぱちぱちと目をしばたたかせた。

 ガラス戸の中に、僕一人の、立ち尽くした白黒の姿だけが残っていた。……

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鳩(pigeon) 安良巻祐介 @aramaki88

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