笑顔の理由
カカオ豆
第1話
「こうくーん! はやくはやくー!」
彼女が公園の広場を満面の笑みで駆け抜ける。
「待てってー!」
僕はその後ろ姿を、どうにか追いかける。砂場の縁枠で足を止め、まだ走るこちらを向いて仁王立ちをする。
「こうくんおそーい!」
そう言って、少女は
「はぁ……はぁ……。みゆが、速すぎるんだよ……」
荒い息を整えながら、もう何度も繰り返した弁解を口にする。
「えへへ。また私の勝ちー」
次こそは勝ってやるからな!
またもや何度目かわからない決意を抱く。目の前で笑顔を振りまく彼女と目が合う。彼女の目を見つめていると急に恥ずかしくなり目を逸らす。彼女は何か不思議なものを見たかのように首を横に傾ける。
「こうくん、どうしたの? 顔赤いよ?」
「これは夕日のせいだ!」
「あははっ。こうくん変なのー」
恥ずかしさでみゆを直視できない。みゆはそんな僕の姿を見やって、次いで空を見上げる。
「――私いま、すっごい幸せ」
誰に向けるでもなく発せられた言葉。僕はその時のみゆの顔を見て、この先絶対に忘れられないだろうな、と直感的に思った。
この時間が、僕が一番好きな時間。
靴を履き、玄関の扉を開け、肩からずれ落ちそうな鞄を担ぎ直して家を出る。
外に出ると凍てつく空気が肌に触れ、自然と身震いをしてしまう。
「さぶ……」
この調子だと、もうすぐ降りそうだ。
良いとは言えない空模様を確かめると、隣の白い家が視界の端に入った。俺はそれを気に留めることもなく顔を前に向け直し、なかなか動こうとしない足を
今日も憂鬱な一日になるんだろうな。毎日の様に頭に浮かぶそれを、無理矢理意識の外へ追い出す。それでも悪いことしか浮かばない脳を意識から外し、目の前の景色をぼうっと眺めながら学校へ向かう。
俺は学校が嫌いだ。俺が虐められているとか孤立しているとか、そんなことが理由ではない。俺ではなく、周りの問題だ。手に何かを持ちながら不愉快極まりない
「……はぁ」
盛大に溜息を吐いて、思考を打ち切る。想像するだけで、嫌気が差す。だれど、そう考えていても、学校には行かなければいけないという謎の使命感が俺の中に存在していて、足が勝手に学校に近づいていく。
様々な考えが浮かんでは消え、頭を巡っていると、学校が見えてきた。
そして今日も一日、忍耐力のいる学校が始まる。
校門を抜け、昇降口に足を踏み入れると、早速誰かが精を出している現場を目撃してしまう。あれは確か、花田と伊藤だったか。そんなことをする奴を脳が記憶していたことに驚きながらも、俺は何食わぬ顔でその横を通り過ぎる。
下駄箱から内履きを取り出し、脱いだブーツと入れ替える。
今見たことを頭から追い出して、教室に向かう。
教室に入るとそこには既に生徒が数名いるが、俺は一切構わず自分の席に向かう。座るとすぐに鞄から一冊の推理小説を取り出す。最近はよく本を読むようになっている。それは本が好きだからという積極的な理由ではなく、この教室から意識を遠ざけることが出来るからという消極的な理由からだった。
しばらく本を適当に読み進めていると、扉の奥から誰かの足音が聞こえてくる。そしてそれに浴びせるように、クスクスと乾いた笑い声が静かに聞こえてくる。本から目を離さなくても分かる、もう何度も見た、嫌になっても良いだろうにそれでも崩れぬあの表情が俺の胸を抉る。
……やめてくれ。
胸が苦しくなる。
本を閉じ、机に突っ伏して、俺は逃げるように目を閉じた。
みゆと遊ぶ日は、知らず知らずのうちに胸が躍る。
「みゆー! あーそーぼー!」
みゆの家の前で叫ぶ。家の中からドタドタ足音が聞こえてきたと思うと、凄い勢いで扉が開く。
「……いいよ! 今日は何して遊ぶ?」
「みゆの部屋でゲームしたいな」
「あ、……ごめん。今日はお母さんが朝から怒ってて」
「そっか。じゃあ駄菓子屋に行かない?」
「分かった! すぐ準備するね」
それだけ言い残して、みゆは家の中に戻っていった。その後一分程でみゆが扉を開ける。
「行こっ!」
「うん!」
僕の手を取り、走り出す。元気一杯のいつもの笑顔に、僕は自然と胸が高鳴る。二人で仲良く駄菓子屋への道を歩いていると、道の端に猫の姿が見えた。
「あ、ねこだ」
「え、にゃんこ! どこ?」
あそこ、と指で猫の位置を指し示すと、みゆがその方向に走り出す。すぐに猫の目の前まで移動して、みゆは猫を持ち上げた。
「かわいー!」
可愛いと連呼しながら猫の腹を撫でるみゆと、それに対し身を
「待ってー、にゃんこー!」
猫が道を走る。交差点をそのまま突っ切ろうとして――車とぎりぎりの所で擦れ違う。猫は轢かれることはなかった。しかしその光景を間近で見ていたみゆの表情は、かなり切迫していた。
「……」
念仏に聞こえてくる授業を全て終え、その後の掃除も済ませた俺は昇降口へ向かう。クラスの他の生徒は部活で体育館や校庭に足早に向かった為、俺以外には誰も居ない。校門を出たところで、ふと今日宿題を出されたことを思い出す。宿題のワークは入れてあったかなと鞄の中を探る。結果は不発で、教室の机の引き出しに入れっぱなしになっていた様だった。俺は面倒臭いと思いながらも、もう一度内履きに履き替えて教室へ戻る。
扉の前に来て中に人がいることが分かった。誰も居ないはずの放課後の教室に居た、一人の少女――クラスメイトに虐められている少女。彼女は校庭側の窓に背を預けて立っている。
俺は気にせず、自分の席に向かい引き出しからワークを取り出し、鞄に入れる。後は帰るだけとなった俺の耳に、ほとんど声になっていない程小さな囁き声が届く。
「――これで皆、幸せになれるね」
その声が聴こえて、俺は咄嗟に顔を少女に向けた。少女の顔は非常に整っていて、おそらくすれ違った十人中十人が振り向くだろう。しかしその頬や額には青黒い
「……ふざけるなよ」
無意識に怒気の含まれた声が漏れていた。その事に遅れて気付き、少女の顔色を窺おうとして目を合わせて、後悔する。少女の表情は、今この現状で絶対に生まれるはずのない――満面の笑顔だった。
目が合った以上、そのまま去ることは出来ない。そう感じてしまうと、勝手に口が動いた。
「何でお前は……いつもいつもそんな顔をするんだよ。そんなんだから虐めが止まないんだぞ。分かってんのか」
一度漏れ出た言葉を、止めることが出来なかった。
「お前馬鹿じゃねぇの!? 虐められて、叩かれて、それで何で笑顔なんだよ! 違う顔できねえのか。お前のその顔が頭から離れないんだよ……頼むから、やめてくれよ……」
俯き、手で顔を覆う。こんな罵声を浴びせても、どうせこいつは笑ってるんだろうな。そう思うと、もう少女の顔を見れなかった。少女は俺の叫びを聞いて、俺の方へと一歩歩み寄る。
「……そうしないと、皆が不幸になるんだよ」
「………………は?」
その言葉の意味が分からず、思わず顔を上げてしまう。その時の少女の顔は、いつもの笑顔ではなく、真剣そのものだった。
「……私が不幸にならないと、皆が不幸になっちゃうんだよ。昔からそうだった。いつだって私が幸せだと思った時に、絶対に周りで何かが起きる。私はそれが耐えられなかったの。憶えてる? あの子猫だって、私が抱き上げなければ怖い思いをしなくて済んだ。近所の人とお母さんが、今日は会社で怪我をした、空き巣に遭った、危うく交通事故に遭うところだった、ってほぼ毎日言い合ってるんだよ。それで私が事故に遭って入院してる間は何もなかったって言うんだから、笑うしかないじゃない。これまでの不幸は私の所為だって、神様に通告されてる様なものなんだから」
「……だから自分から不幸になる、って?」
「そう。そうすれば
知らない。知りたくもない、そんなこと。
「だから、皆を幸せにする為に私が不幸になる。それで全てが解決するの」
……ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな!
「馬鹿な事考えてんじゃねぇぞ! お前が――みゆが幸せだった時、いつも隣に居た俺が不幸になったことあったか? 毎日遊んで、毎日楽しくて、毎日幸せで、それでいいじゃねぇか! そんな名前も知らない人の幸福を願うなんて仏じみたことが、自分に出来ると思ってるのか! 幸せになれよ! 幸せになって、俺も一緒に幸せにしてくれよ!」
少女の目から、一筋涙が垂れる。その顔は盲点を突かれたように、間抜けな顔で目が見開かれていた。
「……そうだった。こうくんは、いつもそばにいて、いつも、笑顔で……」
もう、限界だった。少女の目から大量の涙が溢れ出す。止めようと目を拭っても、全く収まらない。膝から崩れ落ち、床に沈む。
「……ごめん、ごめんね。こうくん……」
「謝るんだったら、まずは現状を変えようぜ。俺も、一緒に頑張るからさ」
両手で顔を覆い
みゆは他人の為に自分を犠牲に出来る凄い人間だ。
凄くて、偉くて――優しい人間だ。
そんな人間が不幸になるなんて、納得できない。
これからの人生で、美優に際限ない幸福が訪れますように。
笑顔の理由 カカオ豆 @monrabu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます