妖狩りの九十九(2)

 真っ暗闇の中で彼は声を耳にした。誰の声かは分からない。聞いたことも無い声だ。低く、重たく振動する、言うなれば地響きのような。体を芯から揺さぶられる不快な感覚。この呼びかけは不穏な者に違いないと、夢見心地ながらも少年は察した。

 何と言っているのか、おおよそ判別できなかった。理性のない獣が呻いているようにしか聞こえない。けれども、その声はどこか落ち着いており、抑揚さえ感じられるため、語り掛けてきているように思えてならなかった。

 誰だと尋ねることさえできない。闇の中でただ意識と聴覚だけが取り残されたようで、手も足も口も機能しない。叫ぼうにも、口を閉じる感覚も開ける感覚も、さらには息を吸う自覚さえない。

 お前は誰だと、自我の中でのみ彼は幾度となく叫んでいた。それなのに、その問いかけが聞こえていないのか、答えるつもりがないのか、重低音は鳴り続ける。途端に、満足してしまったように、高らかな笑い声だけを大きく響かせて、もう二度と自身のごとく不快な音は、聞こえなくなってしまった。



 代わりに、彼が自覚したのは甲高い電子音だった。こちらの神経を逆なでるような、喧しい音が部屋の中で反響する。朝が来たのかと、眉をひそめて彼は起き上がった。時計の針はいつも通り、七時を示している。

 立ち上がると、昨晩の疲労がどっと押し寄せてきた。随分ひどい目にあったもんだと、襲ってきた天狗のことを思い返す。何とかいつも通り滅することはできたものの、ここ最近現れた中では最も手強い相手だった。

 朝食の匂いが漂ってきて、それにふらふらと誘われるがままに少年は部屋を出た。部屋を出て、一歩進めばもう居間だ。安くてぼろいアパートであるため、歩く度に床が軋む。軋む度に驚いているのだろうか、床板の下で小鬼が驚く「きゅっ」という小さな悲鳴が少年の耳まで届いた。

「おはよう、母さん」

「あらおはよう。今日は早いのね」

 いつもは念入りに起こしてあげないと目を覚まさないくせに。年齢を感じさせない女性はくすりと笑って言う。いつもは中々起きないのにという言葉が耳に痛く、夜行は不満げに唇を突き出した。

「一言余計なんだよな、母さんは。今日は新年度最初だから仕方ないさ」

「クラス分けもあるもんね。沙織さおりちゃんと同じクラスだったら嬉しい?」

「別に」

 下世話な問いにも、澄ました顔で彼は返した。その淡白な様子があまりに味気なく、母親も先ほどの少年のように不満げな態度だ。同じように、率直にその態度への不満を口にするところまでそっくりだ。

「母さんも夜行の浮いた話とか聞きたいんだけど」

「……浄雷じょうらいが五月蠅くなるから駄目だ」

 食卓についた彼は、湯気を放つ味噌汁を啜った後に応答する。まだ少し眠気に包まれていた脳裏が冴え渡っていく。確かにそれは大変そうねと、納得した様子で彼の母は頷いた。

 それに何より、彼が恋に溺れられないのにはもっと大きな理由がある。しかし彼は、その理由を口にしようとはしなかった。それを伝えるが故に、母の顔が曇ってしまうのを恐れたからだ。

 何せ昨日も、一手間違えれば死んでいたはずだ。頬を触れてみれば、細長い線が走るようなかさぶたの痕。天狗の槍を避ける中、一撃交わしきれずに頬の皮が裂けた。それだけで済んでいるだけ充分ましな部類ではあるが。

 黙々と米を食べながら、朝はいいものだと太陽を見て思う。あれのおかげで自分はこうして穏やかに過ごせるのだから。丑三つ時は、いつだって殺意と欲望に塗れている。何時その苛烈な欲求に呑まれてしまうのか、安堵などできない日々を生きていくしかない。

 陽が沈めば、人の世が終わり、人ならざる者の世界となる。そしてまた夜明けを待ち望むのだが、その宵の世界が夜行を狙っていた。どうしてかなどは教えてくれないくせに、執拗に夜行の肉をみ、血潮を啜りつくそうと画策する連中の多い事多い事。

「夜行、一応昼間だからって、浄雷ちゃんを連れて行くの忘れないでね」

「分かってるよ」

 ただしその理由は、代わりに母が夜行に伝えてくれたのだが。




 うさん臭い話ではあるのだが夜行はとある人間の血を引いている、らしい。苗字が示す通り、それは平安の時の有名人。“ある世界”において最も名高い男、魔を払い、日の本の国の霊なる存在の抑止力であり、呪術をも極めた陰陽師の代名詞とも取れる男。安倍 清明、その人だ。

 当時の陰陽師のおかげで、妖との戦は永遠に終わったように思われた。当時最高の陰陽師たちが大掛かりな結界を作り出し、地獄へと封印したとの事だ。結界は『悪意』と『強力な妖気』の両者を持つ者の通過を拒む。それゆえ、悪鬼羅刹はもう二度と現世うつしよには出てこない。と、されていたはずだった。

 その前提が崩れたのは、一年前の話だ。何でわざわざ自分が生まれた時代にと夜行は嘆いたものである。結界が張られ、約千年。いつしかその術式が老朽化し、悪意ある大妖怪が少しずつ現世へと漏出している

 それだけならば、厄介な事などほとんど無かった。こちらに現れた妖怪の数などたかが知れている。人生の内で夜行が遭遇することも少なかっただろう。しかし、陰陽師にはさらに厄介な特性があるのだとか。

 それは、餌としての特質。陰陽師を喰らった妖怪は、その能力を高めるというものだ。だからこそかつて、両者の争いは熾烈を極めたとも言える。食えばいくらでも強くなると言うなら、摂食しない理由は無い。同胞を手にかけられた怒りから、陰陽師もまた妖怪どもを駆逐する。

 そうして、血で血を洗う戦いに疲れた上層部、主に清明がついに決定した。住む世界を分けてしまえばよい、と。それゆえに断行した、妖全ての地獄送り、それこそが今まで人の世を、陰陽師の血を引く者の安穏を守ってきた訳ではある。

 全てを封印しきるのは不可能であるし、本来人間に敵意を持たない者にまで恨みを抱かせることになるため、悪意の無い者、能力が弱い者のみこちらの世界に現れるのを許し、封印し損ねた少数の大妖怪のみ、その後の子孫が滅していたという歴史がある。

 少なくとも、夜行はそのように母から伝えられていた。

 その陰陽師の、能力ドーピング剤としての役割もそうだが、それ以上に永らく地獄に追いやられてきた恨みもあるだろうと教えられた。実際に彼らに地獄の住み心地を聞いた者は居ないが、おそらくは好く思っていない。本人達に確認していないため、そう思っていない可能性はあるが。

 だが、夜行の受難はそれのみに留まらなかった。何よりも問題があったのは最後の一点。夜行には、陰陽師としての素養は皆無であった。妖で言う妖気、妖力と呼ばれるエネルギーの概念。陰陽師が持つその力を呪力しゅりょくと呼ぶのだが、その力が夜行から一切感知されない。

 もしこれが一級の陰陽師であれば、敢えてその力を隠しているととれなくも無いが、力を扱おうともしていない夜行となると話は別。単純に呪力を生まれつき持ち合わせていないのではないか。そのように母からは教えられていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

丑三つ時のワルツ 狒牙 @hiGa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ