薄恋慕鬼
藤原埼玉
薄恋慕鬼 (はくれんぼき)
夏の湿り気を帯びた夜風が着物のはだけた肌の上を通り過ぎていった。
寂蓮の熱い舌が胸の上をざらりと撫でる。寒くもないのに背筋がぞくりとする。
体の内にもどかしい火照りが灯る。
白い髪の間から寂蓮の優しくてどこか切なげな眼差しが私をまっすぐ射抜いていた。
私はもう何もなす術を知らない。
寂蓮の指が私の丘を撫でた。私はうっかり声を出してしまい、空気に溺れそうになる。
指が私の顔色を探るようにゆっくりと体の上を行ったり来たり、時折爪の先を引っ掛けたりする度、私の身体の芯は感応して微かに震える。
快さが身体の内に後ろめたさと混ざり合って染み込んでいく。まるでお酒に酔ったみたいに甘やかだ。
寂蓮は私の心の中の何かを埋めるように、はたまた寂蓮の中に欠けた何かを私の身体に求めるように。舌を這わせ指で撫でた。
寂蓮のその姿に私は母性にも似た愛おしさを感じる。
その情動の輪郭を確かめるように寂蓮の頭を撫でると寂蓮は悪戯をたしなめられた子供のように泣きそうな顔でこちらを見た。
多分、寂蓮を見つめる私もそんな顔をしている。
寂蓮。
私の愛おしい寂蓮。
私は寂蓮の唇に指で触れた。
吐息を吐くように出た微かな甘え声が喉の奥に沁みた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
寂蓮を初めて見たとき彼女は森の奥深く、大切にしまわれたような木陰で水浴びをしている最中だった。
その時私は婆やに連れられての川遊びの帰り道だった。
私は片手に婆やがくれた風車を持って森の奥に分け入っていった。
婆やが呼ぶ声が遠くから聞こえたその時、遠くの川べりに寂蓮を見つけたのだ。
その水浴びをしているあられもない姿に、私はどぎまぎしながらも見入ってしまった。
鬼の存在は婆やに繰り返し聞かされていたから知っていた。人を喰らう恐ろしく忌まわしい鬼のことを。
でも、初めて見る鬼の寂蓮は私の想像のどれとも違っていた。
腰の辺りまでスルスルとまっすぐに伸びた絹のような白髪。褐色の肌を纏う細長い手足は鼈甲細工のように綺麗で、その上を水滴が滑っていく様はどこか艶っぽく、見つめることすら躊躇ってしまうほどだった。
そして、額のかすかに屹立した角。
なぜだろう私はそれに触れたくてたまらなくなったのだ。
寂蓮、私が初めて見た鬼。そして…初めて触れた鬼。
今思い返して見るとそれが無性に嬉しいことのように思えるのだった。
それからしばらく私は我を忘れて陶然と寂蓮を眺めていたが、ふと河原から腰を上げた寂蓮と目が合った。
私はあっと声を出しそうになったが、寂蓮はどこか面白がるようにこちらを眺めるだけだった。
「…すい…さま…!翡翠様!」
背中から婆やの声がして私はぐいと現実に引き戻された。私は後ろから糸で引っ張られるみたいに踵を返して森の中を駆け抜けた。
婆やは森から抜け出た私を見つけて駆けつけてくる。婆やは眉を歪ませて言った。
「翡翠様、危のうございます。この辺りは鬼が出るという噂もございます…。余り戯れが過ぎると人鬼にされてしまうやもしれませんよ」
私は婆やに上の空で返事をした。
その夜、私は寂蓮と目が合ったその瞬間のことやその時の寂蓮の肢体を何度も思い描いた。恥ずかしい想いが火照りとなり、火種となり、そしていつしか焔となって体の内をぐるぐると駆け巡るようだった。
『秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず』※
その日見たことは、まるで誰かと約束したみたいに私は誰にも言わなかった。
その記憶は心の中の箱に大事にしまっておいて、私は一人の時にそれを取り出しうっとりと眺め回す。豊かに許されたその遊戯に、私は密かな満足感を覚えたのだった。
その後、幾月が経ったころ。鬼の子が捕まったという話が耳に飛び込んで来た。
私の住む宮では特段珍しいことではなかった。人に危害を加える鬼は大きくなる前に狩人(かりびと)達が捕獲し、一月魔落としをした後に処分するのだ。
私はまさかと思いながらも、心のどこかに期待を携えながら騒ぎの聞こえる方へ歩いて行った。
広間の檻の中にいたのは紛れもなく、あの日目が合った鬼だった。
まだ小柄な彼女は周囲の人間の大人たちをどこか怯えたような様子で見上げていた。
それでも不思議とあの日見せた威厳すら感じさせる野生的な美しさは微塵も損なわれていなかった。
それどころかそんな寂蓮を見て私の胸は不思議と高揚したのだった。
寂蓮は怯えた顔も綺麗だった。
ふと、寂蓮と目があったとき、不思議なことが起こった。
時間が止まって二人のこと以外は遠くの世界に行ってしまったようだった。
私はその瞬間理解した。
この鬼の少女が私にとってどうしようもなく特別になるのだということを。
私があまりに長く鬼の子に魅入っているのが奇異に見えたのか、婆やは私から寂蓮を引き剥がすように間に入った。
「翡翠様、湯浴みに参りましょう」
寂蓮はなんとなく名残惜しそうに俯いた。
寂蓮のそのいじらしい様が愛おしく、私は婆やに聞こえないように口を動かして伝えた。
また来るね、と。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
夜中になって皆が寝静まった頃を見計らい私は寂蓮に会いに行った。
薄暗い部屋の中で灯具に火を点すと横顔を照らされた寂蓮はウトウトと船を漕いでいた。こんな状況で寝れるなんて結構肝が据わっている。
私はしばらくそうして檻の隙間から寂蓮を眺めていた。
寂蓮は人の気配に勘付いたからだろうか、すぐに目を覚ました。
そうして私を見つけた寂蓮は目を爛々とさせた。好奇心からか、それとも同じくらいの背丈の子供に対する親しみからだろうか。
その屈託のなさに私の口からも思わず笑みがこぼれた。
「…ひょっとして待っててくれたの?」
私は彼女に友愛を示そうとして檻の隙間からそろりと指を差し出した。すると寂蓮は私の指の先をちゅると口に含んだ。
私は驚きで小さな悲鳴が出た。
寂蓮の温かい口の中で、チロチロと舌が蠢く。まるで灯具の蝋燭のように、私の指はとろけてしまいそうだった。
甘やかな感触に戸惑いながらも、それを自ら受け入れ、欲するようになるまで寂蓮の舌は私の指の間をねぶり、そしてようやく離した。
寂蓮の唾液で濡れた指は夜風に当たると冷んやりとした。
私はいけないことをしている気がして罪悪感混じりにドキドキしているのに、寂蓮はあっけらかんとした様子で笑っていた。
「じゃく、れん」
寂蓮の口から言葉が放たれた。
寂蓮は自らを指差してそう言ったのだけれど、私はしばらく惚けたままで意味が頭にまで登ってこなかった。私は慌てて自分の名前を告げる事に思い至った。
「翡、翠」
どぎまぎしながら私はそう告げる。
寂蓮は艶然とした笑みを浮かべた。
「じゃくれん、ひすい、すき」
私はたぶん、滑稽なくらい目を白黒させていたと思う。
呼吸が苦しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく身体が熱くて、逃げ出したい気持ちだった。同時にさっきまでの甘やかな感覚に揺蕩い、没頭してしまいたい気持ちにも激しくかられた。
寂蓮は檻にもたれかかると、私を誘う様な視線を寄越した。
私はまるで白痴のようにふらふらと檻に近付くとまたおそるおそる指を差し出した。
すると寂蓮は私の手首を掴み、少し乱暴に檻の内側へ引っ張った。
引っ張られたところの皮膚が突っ張り、微かに痛みが生じた。私は咄嗟のことに恐怖で目を閉じると、その瞬間唇に温かな感触が重ねられた。
私は驚きのあまり目を見開いたまま、寂蓮の長い舌は強引に口内へねじ込まれていく。
体内の血が沸騰するのと裏腹に身体には脱力感がのしかかってくる様だった。
私はされるがままに口内を蹂躙され、やがて解放された折にはへたり込み、言葉にもならず、弱々しい呻き声を赤ん坊みたいに漏らすだけだった。
寂蓮は満足げに微笑むと私の手を握った。
「ひすい、かわいい」
私は頭の中がぐるぐるとしてしまいこれ以上は、だめだ。と、頭の中で呟いた。
私は気がつくと寂蓮の手を振り払い、まだ充分に動かない足腰で部屋から飛び出した。
私はたぶん恐れていた。
初めてこじ開けられ、触れられた心。それを誰かに明け渡すことが。自ら御しきれないほどの愛おしさや欲望が。
おそろしかったのだと思う。
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檻に入っている寂蓮は日に日に衰弱していった。
健康的だった鼈甲細工の肌も日増しにくすんでいくようで、それを見るたびに私は胸を刺すような悲しみを覚えた。
そのことを周囲の大人に訴えても、「鬼に情けをかけるとは、翡翠様はご慈悲のある御方ですね」と笑うだけで相手にはされなかった。
そんな日が何日も続いたある日、私は決意した。
(寂蓮を逃がしてあげよう)
あの夜から幾夜も行こうかどうかと逡巡していたのに、そう思い立ってからの行動は早かった。
その夜、襖を後ろ手で締めると闇の中で微かに反応を返す寂蓮の気配が感じられた。
少しずつ目が慣れるに従ってその輪郭がはっきりと見え始める。
「寂蓮…」
寂蓮は少しこけた頬で弱弱しく笑って見せた。それでも、その笑顔は初めて出会った日の威厳のある凛々しさを感じさせた。私は寂蓮の健気さに涙が出そうになる。
「待っててね、こんなところすぐに出してあげるから」
私はこっそりと持ち出した鍵で檻の扉を開けて中に入った。
そうして一歩檻の中に踏み入れた時、まるで空気の圧が変わったみたいだった。私は咄嗟に息を呑む。
私は初めて対峙する寂蓮の純粋な野生に気圧されるように感じた。
(でも私は)
私は綺麗な寂蓮に蹂躙されるのであれば構わない、と無知さゆえにそう思った。
寂蓮は檻を支えにしてようやく立ち上がると赤子が甘えるようなふわふわとした足取りで私に身体を預けた。
ふわりとした白檀のような香り、そしてうっとりとする様な優しい手触りだった。
「っひ!?」
途端に首筋に生暖かい舌が触れ私の意識をさらっていく。
それは、一度だけで終わらずむしろ執拗と言えるくらいに私の肌の上をざわざわと通り過ぎてはまた引き返してくる。
乱暴なようでいて、繊細に。私のすべてを覆い尽くすみたいに。私のすべてを支配するみたいに。
私は出してはいけない声が出てしまいそうになるのを何とか堪えようとした。体温が急激に上がっていくのを感じる。
私はとどまることを覚えない寂蓮の愛技に息も絶え絶えになりながら、許しを請う様に寂蓮を見上げた。
すると寂蓮の目の中に野生の冷徹さが宿っていることに私は気がつき、背筋が寒くなった。
鬼は人の生気を喰らう。
私は愚かしくもその時になるまで全く気がつかなかったのだ。寂蓮と私は、全く別の理に生きる者であることに。
寂蓮の舌が私のいろいろなところを荒荒しく責め弄ぶ度に、私は寂蓮に何か大事なものを捧げているような気がした。
でも、寂蓮にとっては、鬼にとっては『それ』はただの食事に過ぎないのだ。
その溝が無性に悲しかった。
それなのに、寂蓮が私に与える快楽は、非道く、優しく甘やかだった。
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目を開けると私は自室の寝床にいた。
私は気だるさにまどろむ体を何とか起こそうとする。すぐに目に入ったのは窓枠に腰掛けている寂蓮だった。
寂蓮がわざわざここまで運んできてくれたのだろうか。私の頭は起き抜けで少しぼうっとしていた。
夜明け前の曙の明かりが寂蓮に後光のように差していて、私は天使が部屋の中にいるのだと思った。
元の光を取り戻した寂蓮は本当に綺麗だった。
私の心に烈しい悲しみが去来する。私は今更ながら手に入りようのない寂蓮の美しさに荒れ狂う様な恋慕を抱かずにはいられなかったのだ。
「寂…蓮」
私の口からひとりでに出てきた言葉に寂蓮は部屋の中に振り返った。
寂蓮はどこか寂しそうに笑ったので私は悲しくなった。
窓から風がさらりと吹き抜けたと思うと、寂蓮は手品か魔法のように跡形もなく消えてしまった。
「寂蓮!!」
私は慌てて窓へ駆け寄った。
「待って!!寂蓮!!」
窓の外の寂蓮は私のことを見上げていた。
「これを…」
私は自分の髪に刺さった風車を象った簪を寂蓮へ投げた。
寂蓮はそれを両手で受け取った。
俯いた寂蓮の表情は見えなかった。
「…れないで」
私の口からひとりでに言葉が紡がれる。
今まで私の知らなかった感情。感じることのなかった想い。
それを伝える言葉だった。
「私を忘れないで」
寂蓮はいつか見せた様な艶然とした笑みを浮かべると、振り返りもせず数瞬後吹いた風と共に去っていってしまった。
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大人たちはひとりでに檻から消えた鬼のことを気味悪がったがそれはただそれだけの話だった。
全ては何も無かったことみたいに過ぎていく。
そんな中、私の胸にだけぽっかりとした穴が虚のように空いている。
全ては何も無かった事のように。
私は悲しかった。
こんなにも嵐のように強い想いが内側にあり、それが名前しか知らないたった一人の寂蓮という鬼へと捧げられるものであり、そしてその想いを自ら伝える術はなく、終ぞそれを誰にも打ち明ける事すら出来ないという事に気がつく宵。私はその絶望に力無く愕然とするだけだった。
翡翠様はまた川遊びかと周囲の大人達に呆れ顔でからかわれ、私は曖昧な笑みで返す。
内心で大人達に秘密を抱えていることに虚ろな満足感を感じながら。
寂蓮の美しさは私だけの秘密だった。
寂蓮を知った日から、私は何処までも独りの時間をさまよい歩いているようだった。
私は少し日の陰るのどかな道を辿っていく。
あの日からこの道を何度通った事だろう。
婆やを連れてここを通った時、私は十三だった。
今私は十四になり、この間初潮を迎えた。
血の混じった履物を見ながら、きっともうすぐ取り返しのつかない事になる事を私はやけにくっきりとした意識で悟った。
女という役割を着させられ、自分の意志などはるか及ばない力により、顔も知らない男を充てがえさせられる。
それは端的な絶望だった。
私は下駄を空に向かって蹴り上げる。
裏だったら今日は寂蓮に会える。と念じてみる。
カラコロと乾いた音を立てて下駄は表に着地した。私は憂鬱な気持ちで下駄を片足で取りに行く。
それでも微かな期待と恋慕を携えて川原に向かう事には変わりないのだ。
その時、風がそよいだ。
「翡翠」
声を掛けられ片足立ちのまま、私はふと顔をあげた。
まさか、と息を呑んだ。
寂蓮はその悪戯っぽい笑顔を木の間から見せていた。
それは寂蓮だった。見紛うことのあるはずもない。
私は、その何の屈託もない笑顔にもやもやとした腹立たしささえ覚えた。
私がどれだけあなたに会いたかったか。
私がどれだけあなたに焦がれていたか。
知っていたらあなたはそんな風に笑えるわけはないのだ。
「言葉、少し、覚えた、翡翠、話、したい」
それでも寂蓮はまるで子犬の様なあどけなさで私に遠慮なくすり寄ってきた。私のこの一年に渡る煩悶なんて露知らずに。寂蓮はなんて罪深いんだろう。
私は僅かに残っていた自尊心から決して心を開いてはいけないと思った。想いを吸いこんで、夏季の雨雲の様に重たくなった心は、いとも容易く決壊する事をどこかで知っていたのだ。
今思えば、そこに至っても私はあの時寂蓮から逃げ出した私を抜け出せてはいなかったのだ。
それでも、なお五月晴れの様な爽やかな寂蓮の愛情に十全に応えたい気持ちがせめぎ合った。私の心はただかき乱されるばかりだった。
「翡翠?泣く?なぜ?」
私の目からは涙が溢れてきた。
こんなはずでは無かったのに。
「ちが…うの…寂…蓮……わた…し……」
しゃくり上げしゃくり上げ、私はそれ以上上手く言葉が継げなかった。
そんな私の頬を温かいものが触れてびっくりした。寂蓮の舌が私の涙を拭ったのだ。
私は訳もわからずきょとんとしていると寂蓮はにっこりと笑みを浮かべた。
「翡翠、可愛い、いい匂い、好き」
たぶん、私は今にも泣き出しそうな泣き顔をしているだろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
寂蓮との逢瀬は丑の刻と決まっていた。
私は着衣の乱れがないか確認してからそろそろと襖を開けて後ろ手に閉める。
胸の奥がまだとくとくと寂蓮の温もりを反芻していた。
寂蓮。
じゃ・く・れ・ん。
私は口に手を当てて寂蓮の名を唱えた。
途端に胸の奥に一斉におかしみが雪崩れ込んできた。私は布団の上に倒れこむとお腹を抱えてくっくっと笑った。
きっと私は気が触れてしまったのだろう。
寂蓮という鬼に魅入られて。
私はやがて身も心も鬼に喰われてしまうかもしれない。
でもそれも悪くはないと思えた。
むしろそれは望むところだった。
あなたのためなら何も惜しいものなんてない。
私は天井を見つめ、天井の先にある星空を見上げた。
あなたがこの世界にいるということを知れただけで、私に見える景色はどこまでも広がっていく。
そして願わくばあなたもそうであってほしい、と星空に向けて願った。
そうして寂蓮との初めての逢瀬から幾月が経ち霜の降りる季節になった時、私はお父様に呼ばれた。
星読みのお父様は娘である私にすら滅多に姿を見せず、普段から書斎にこもっていた。
それは私が生まれた日から、お父様が刻み続ける正確な暦と同様に何一つとして変化のない事だ。
「翡翠、そこに座りなさい」
私は書類の山の中の一角に正座をした。
「…人の…いや、現在人と呼ばれているものの始まりも始まり。人の起源の話をしよう」
お父様は私の前にゆったりとした動作で正座をした。
よく考えたらろくに人と会話もしないお父様にしてはとても奇異な行動であるのに、私はその事に不思議なくらい何の疑問も持たなかった。
「初まりの『いきもの』は皆、満月のように丸い身体をしていた。しかしその身体は坂を登れず水場にもなかなかたどり着けないという大層不便な身体だった」
「不憫に思った神はそれぞれに手足、それと角や尻尾を与えようとした」
「しかし神のお作りになった手足と角や尻尾の数には限りがあった。そのためある者は四つ足となり、ある者は二つ足で歩く様になった」
「鬼、は」
鬼、という言葉に反応して私の肩はびくと震えた。
「鬼は角、そして私達人間と同じ2本ずつの手足が与えられた。そうして、その角は人と比べてより多くのものが鬼に与えられたという証であった。寿命、力、ありとあらゆる価値のあるものだ」
「太古、私達人間は鬼の供物であった。数年に一度乙女が鬼に捧げられる。それは名誉ある事として幾世代も口伝が伝えられた」
私はお父様のお話を聞きながら何故か得体の知れない動悸が止まらなかった。
「だが…やがて私達人間は力を手にする。それは"火"と"書"だ。火は圧倒的だった。森を焼き尽くし獣達を追い払う。鬼すら例外ではなかった。書もそうだ。書を糧に私達人間はあらゆる知識を蓄えた…そこで例の口伝に疑義が生じた。『これほどの力が神により与えられた私達人間は鬼よりも特別な存在であるのではないか?』と」
お父様の口から鬼と一言出る度に不吉な予感と共に動悸の激しさは増した。
「確かに私達人間は弱かった。自然の摂理からすれば鬼が私達から奪う事は道理なのかもしれん。だが今は違う。私達人間は強くなった、その鬼を…滅ぼさんとするぐらいには」
途端に後ろから大きな手に羽交い締めにされ、私は身体を捩ろうともがいたがビクともしなかった。
「翡翠、これより私達は最後の鬼狩りに向かう…鬼と情を通じたことが許されるのは…お前が星読みの娘であるからに過ぎないのだ…その事を…肝に命じておけ」
声を出す間もなく私の意識は暗闇に堕ちていった。
「翡翠、渡世の残酷さを知るにはお前はまだ幼い。今宵伝えた事をいつかはお前も知る日が来るだろう」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
得体の知れない焦燥感の中、目が覚めた。襖を開け夜空を見上げると時は丁度丑の刻だった。
(これより私達は最後の鬼狩りに向かう…)
「寂蓮!!」
願わくば…あなたの…
私は無我夢中で暗闇を駆け出した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
途中で何度も木の枝が顔に引っかかる。
遠くで大人達の騒ぎ立てる囃子の様な声が聞こえた。
それでもそれは紛れも無い戦争の声なのだと思うと背筋が寒くなった。
ガサ、と草むらの中で音がした。私が身を潜めると微かに少女が呻く様な声が聞こえた。
それが寂蓮なのではないかと思うと居ても立っても居られず、私は危険など考えないまま音がした方へと駆け寄った。
ズル、と湿った音が聞こえた。
最初、私はそれを蛇か何かと思った。
そして、寂蓮はうたたねから覚める様に瞼を薄く開きかけた。
「寂…蓮…?」
私は笑みを浮かべそうになった。寂蓮と会えたから。明らかに寂蓮であるのに、寂蓮であり得ない姿形をしているそれを見て。
私は。
「翡…翠……」
寂蓮の獣の様にしなやかに動く美しい四肢は切断され、額の角はちぎり取られていた。その惨状は筆舌にする事も敵わない。
夜なのに遠くから獣の鳴き声が騒がしいと思ったのは、他ならぬ私自身が悲鳴を上げ続けているからだった。
全身が燃える様だった。足場が唐突に外され、深い深い洞に落ちていく。
私が焔であれば。
この狂った様な悲しみごと包んで消えてしまえるのに。
一つ二つ。ひやりと手の甲に白い精が舞い落ちる。
どれくらい経ったのだろうか、いつしか空からは雪が降ってきていた。私は地面を這う様にうつ伏せになり、自分の指先の冷たさや喉のひりつく痛みを知覚できる程に我に返り始めた。今自分に正気が残っているのが残酷なほど、不思議だった。
私はふらふらと立ち上がり寂蓮に近付いた。見る影もないその姿に怒りと悲しみで心が潰されそうになりながら。私は寂蓮を抱き上げた。ぬるぬるした血糊で滑り落ちてしまいそうな、その身体を。
「寂蓮…私を食べて…」
寂蓮の虚ろな目が微かに驚きで見開かれた。
「翡…翠…?」
「だって…寂蓮が死ぬなんて間違ってるよ」
そう、寂蓮が死ぬなんて間違っている。言葉にするとひどく当たり前の事のように思えて私は少し勇気づけられる気がした。
「私の命なんかであなたを救えるのなら、私は喜んで地獄にでも行くわ」
「翡…翠」
「ね?寂蓮?そうしよう?」
「翡…すぃ…」
寂蓮は黙り込んでしまい、私は慌てて寂蓮の表情を伺った。
「寂…蓮…??」
寂蓮は何も言わず、ただ静かに泣いていた。
彼女は自らの鬼の宿命を呪うがゆえに涙していた。人を喰わなければ生きられないという宿命を。
そしてその涙は私を愛するが故のものなのだと、私は直ぐに理解した。
寂蓮は苦しんでいる。そして苦しめているのは他ならない私だった。
「ごめんね……泣かないで寂蓮……」
私は寂蓮の小さくなり過ぎてしまった身体を横にして頭を胸元にそっと付けた。
「聞こえる??私の鼓動」
遠くからガサガサといくつもの慌ただしい足音が聞こえる。
寂蓮の言葉や声を脳裏に焼き付けようと必死だった私はただそれを煩く思った。
「翡翠様ァ!!!!鬼からお離れください!!!!」
「約束しよう寂蓮」
「約…束」
寂蓮の掠れ声は最早朦朧となりかけた意識を表していた。私は彼女が少しでも安らかに逝ける様に、その先の存在しない未来のために絶望的な努力を続けた。
「こんな下らない争いが、私たちの子供の代にはなくなるように…愛おしい人がもう傷つかないで済むように……」
寂蓮の肺から、ひゅうっと空気が抜ける音がした。
「翡翠様ァ!!!!」
ビチャ
私が振り返りざまに右手を払うとその叫ぶ男の首から血飛沫が上がった。
私は寂蓮の顔を搔き抱いた。
「私が…鬼になるから」
綺麗な寂蓮の顔には紅がよく映える。
私は幼な子に着物を当てるような気持ちで寂蓮の頬に指についた血潮を塗った。
見ると寂蓮の頭には、私のあげた風車の簪が飾られていた。私はそれを取ると寂蓮の血のついたままのそれを自分の髪に突き刺した。するとコツンと音がした。
頭の登頂の辺りに堅い何かが屹立しているようだった。
「翡翠…様…??」
「じ、…人鬼だ…!!」
「とうとう気を違えたかこの……鬼女め!!」
「…きじょ……?」
あぁ……。鬼女。
鬼、の女。
数瞬間遅れて私の頭の中で鍵が錠に嵌るような音が聞こえた気がした。
鬼女と呼ばれて私の胸に去来したのは抑えようのない歓喜だった。
「寂蓮…私も…!鬼になれた!嬉しい!」
私は愉悦が抑えられず、哄笑を上げた。
私は寂蓮の血を舐めた。塩辛くて、温い。涙が出そうな味だった。
私は狂乱の如くただただ踊り続けた。夜空を見上げるとはらはらと純白の雪花が落ちてくるのが雅だった。
大人達の首が一つ二つと見世物の様に跳ね上げられるのを他人事のように眺めた。
それにしても、人の身体のなんと脆い事だろう。こんな脆いのに鬼を駆逐せんと思い上がったのだろうか。あの美しい寂蓮を見下したのだろうか。
身体がどうすれば良いのか教えてくれる。人鬼とはこういうものなのだろうか。私は寂蓮との交歓にも似た全能感を身体中に感じ続けた。
周りの身体達が血が噴き出せば噴き出すほど大人達は滑稽に立ち回った。初めはあんなに剣呑に声を上げていたのが嘘のようだった。
踊り疲れた私が一つ息をつくと、周りには最早生きた人間は一人も居なかった。
私は手にべっとりとついた寂蓮の血を舐めた。寂蓮の味。
私は冷たくなった寂蓮を抱き締める。
「寂蓮…もう大丈夫…私があなたを守るから」
私の願い事。決まったよ。
お父様や婆やにはもう伝えることはないけれど。
私は。
この世界で人という存在の全てを駆逐する。
これ以上、愛しい人とその同胞が苦しまないで済むように。
深々(しんしん)と降り積もりゆく雪の中。
狂々(くるくる)と周り続ける風車。
それがのち、鬼姫と呼ばるる災厄の生誕であった。
※(岩田文庫 『風姿花伝』より)
薄恋慕鬼 藤原埼玉 @saitamafujiwara
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