何年何月何日何時何分何秒地球が何回回った時?
くまけん
何年何月何日何時何分何秒地球が何回回った時?
その『時』は唐突にやって来た。否、「唐突に去って行った」と表現した方が適切だろう。この現象はそれ以上でもそれ以下でもない。『時』はもう、人類の元から去ってしまったのだから。
「おい、今何時だ?」
彼はふと、『今』を知りたくなった。さほど珍しい疑問でもなく、むしろありきたりな質問だ。人類が幾度となく繰り返して来た、「今はいつだ」という疑問。それに答えることは、現代においては息を吐くより簡単なことのはずだった。
「えっと……あれ?」
彼女は腕時計を見て、すぐさま眉をひそめた。時計を見た瞬間に、本来ならば時を知れるはずなのだ。その結末に、彼女は一寸の疑いも抱いていなかった。だがそんな常識は、もう失われていた。
「何時、だろう……?」
「は?」
彼女の素っ頓狂な返答に、彼は首を傾げる。時計を見ておきながら、「何時だろう」とは何事か。彼は彼女の隣に近付き、彼女の腕を見た。そして、彼もまた同じ疑問を放つ。
「何時、なんだ? 今は」
時計の針は引っ切り無しに回っていた。長針も、短針も、秒針も、止まることを忘れたかのようにグルグルと動き続けている。時計の針が動いていること自体は普通のことだが、三つの針が同じ速度で回り続けているのなら、それは異常としか言いようがない。腕時計は、時計としての機能を有していなかった。
「故障かな。こんなこともあるんだね」
違和感を覚えつつも、彼女は腕時計を外し、机に置いた。時を知らせない時計など、存在意義は無い。後で修理に出しに行くとして、とりあえずは別の時計を探した。現在時刻を知るだけなら、他の時計でも差し支えない。
彼女はスマホを取り出し、画面を確認した。スリープモードを解除されたスマホが、明るい画面を映し出す。画面には、デカデカと現在時刻が表示される……はずだった。
「あれ?」
またしても彼女は訝しんだ。スマホの画面が、現在時刻を表示していない。月日も、曜日も、時間も示さない。一旦スリープモードにして、再び解除しても結果は変わらなかった。
「スマホも故障? 嫌な偶然ねぇ」
一度目は違和感。二度目は偶然。ならば三度目は何とする。
「おいおい。テレビの時計も変だぞ」
彼はテレビの電源を付けてすぐ、声をあげた。彼の言う『テレビの時計』とは、ディスプレイの左上に表示されるはずの、現在時刻のことだ。デジタル数字が表すのは「88:88」。もちろん、「88時88分」なんて表現は普通しないので、これはテレビの表示が異常だと分かる。
「テレビが壊れたか? テレビ局の悪ふざけ……な訳ないか」
低い声で、彼は目の前の現象に理由を付けようとした。言い知れぬ不安が、彼と彼女の間に宿っていた。一度や二度ならず、三度までも。『現在の時間が分からない』という状況が、現代に生きる者にとっては異常事態だった。その不安から逃れるために、『原因』を知りたかった。
「今は何時か」。その他愛ない質問は、すぐに解消されるはずだったのに。いとも簡単に答えを知れるはずだったのに。ただそれだけのことが出来ない。
常識が、壊れていく。僅かな異常は、社会にとってあまりにも大きな変化だった。徐々に徐々に、安寧を乱していく。
「ねぇ、ちょっと。ネットは大騒ぎよ」
彼女はスマホでSNSをしていた。単なる暇潰しではない。彼女はなんとなく、嫌な予感を抱いたのだ。この異常が、他の所でも発生しているのではないかと。その答えを知りたくて、衝動的にSNSを確認したのだ。そして彼女の予感は、的中した。
「何だって? 何が大騒ぎだって言うんだ」
「私たちだけじゃないみたい。みんな、時計が壊れたって」
スマホ画面には、無数の人々の嘆きが言葉として流れていく。「時計壊れた」「スマホバグった?」「うちのPC、長年の労働に耐え切れず壊れた模様」などなど。中にはスクリーンショットや動画を用いて、現状を説明している者もいた。そのSNSで話題になっている単語……通称『トレンド』は、あっという間に「時計」「時間」「何時」などの言葉で埋め尽くされた。海外のユーザーも多い為、「time」「watch」などの単語もトレンド入りしている。
「これは……」
彼も彼女の、さすがに現状に恐怖した。自分たちだけでなく、世界中で同じ現象が起きているのだ。『時計が壊れ、現在時刻を確認出来ない』。それだけのことが、世界中を混乱させた。
今はまだ、漠然とした『不安』だった。怪奇的な現象に怯えているだけだ。だがすぐに、『不安』は確固たる『不満』へと変わった。
ある会社員は「会議まで後どれくらい?」と頭を抱えた。会議までの時間が分からないと、遅刻してしまうかもしれない。上司からの叱責や減給はもう勘弁だ。
ある学生は「いつまで授業やるんだろ」と首を傾げた。授業はもうすぐ終わるはずだが、授業中に時計が壊れてしまい、チャイムも鳴らないため、先生が授業を終えるタイミングを見失っている。
ある主婦は「タイムセールまで何時間あるかしら」と鼻息を荒げた。一円でも安く食材を買いたいお財布事情。タイムセールは逃す訳にはいかない。
短期的には、その程度の不満だった。現在時刻が分からなくても、すぐに社会が崩壊するという訳でもない。だが小さな不満が積み重なっていくうち、人々の鬱憤は抑えきれなくなる。
どのメディアも、この話題ばかり取り上げていた。有名人のスキャンダルとか、政治家の汚職とか、そんなものはどうでもいい。『時が分からない』という状況の方が、よっぽど大問題だった。
地球上全ての時計は狂っていた。時を知りたいと思っても、その答えを教えてくれる存在はどこにもいない。空の明るさだけが、かろうじて曖昧な時間を教えてくれる。
原因は不明。世界各国の有識者が議論に議論を重ねているが、無根拠な推測しか出てこない。この問題に明確な解答を用意してくれる者は皆無だった。
どこぞの宗教が、「これは神の怒り」だと触れ回った。人々の信仰が少ないから、神が怒って天罰を下したのだと言う。全くもって、科学的根拠のない説だ。しかし不安に駆られた人々は、そういった荒唐無稽な話をも信じた。現状そのものが荒唐無稽なのだから、どんな変な話でも「あり得る」と思ってしまう。
時計が狂い、現代人も狂う。あっという間の出来事だった。
現代社会は、『時間は分かるもの』という大前提の上で動いている。今日と明日の境界は明確で、今月と来月の境界は明確で、今年と来年の境界も明確だ。だがそんなもの、全く意味を持たなくなってしまった。
誰が『今日』と『明日』の違いを理解出来るのだろう。誰が『今月』がいつから『来月』になると知っているのだろう。誰が『来年』の来るタイミングを測れるのだろう。「今はいつだ?」という問いに答えられる者は、既にどこにもいないのに。
地球上の時計が狂い、『時』に名前を付けられなくなった時点で、『今』と『過去』と『未来』に明確な差など無かった。
人類に為す術は無い。時間が分からないという現状を、黙って受け入れるしかなかった。天体観測で時間を計ろうとした者もいた。だが不思議なことに、科学や数学のエキスパートでさえ、観測結果を見ても「何も分からない」としか答えられなかった。本来なら豊富な知識によって現在時刻を知れるであろう者達さえ、急にその知識を失った。日時計を見ても意味が分からず、砂時計は動きを止める。どんな時計もただの飾り物と化した。
神の怒りか、悪魔の悪戯か。人類は『時』に関する英知を唐突に失ってしまったのだ。
新たな西暦を作ろう、と提案する者もいた。かつての西暦が意味を無くしたので、『時』の基準をもう一度作り直そうという考えだ。しかし無意味だった。例えば今を『0年』と仮定しても、そこから『1年』にたどり着くまでどれくらいか、誰も分からないのだ。『1秒』の定義さえ忘却してしまった人類に、新たな時間基準を作ろうなど困難を極めた。
時間というものは、基準があるから理解出来るのだ。その基準が失われた今、人は時間を理解出来ない。
時計の発明が、いかに人類に貢献をしていたか、思い知ることとなる。尊い物でさえ、その価値とは失って初めて気付くものだ。気付いたところで、何になる? 『時』を失ってしまった失望と、『時』への渇望が強くなるだけだろうに。
社会は瞬く間に変化を遂げた。いや、変化せざるを得なかった。同じ『時間』を共有してない以上、多くの人間が会社や学校に集まるのさえ困難だ。遅刻や欠席は当たり前……というか、遅刻しない方が難しい。時間に縛られない形態の組織には大きな影響は無かったが、やはり社会というものは一部の変化が全体に広がり得る。社会の混乱に伴って経済は急激な衰退を迎え、その衰退がさらに混乱を生む。
会社をクビになる者もいた。逆に、時間が分からないのをいいことに従業員を十数時間も働かせる会社もあった。当然、労働者の環境は悪化の一途を辿る。それがまた、経済の崩壊を引き起こした。
それもそうだろう。世界から『時』を奪われたのに、通常通りに働いていられるか。
「いや、これでいいんだよ」
中にはこの異変を受け入れる者もいた。
「太陽が昇れば起き、太陽が沈めば眠る。それが人間の本来の生活習慣なんだ。時計なんかに縛られて、一分一秒厳密な生き方なんかしてるから、いざ時計が無くなったくらいで泣き喚くんだよ。時計はいらない。空だけを見よう」
文明が後退を続けていく間、原始的な生き方を模索しようとする動きもあった。社会が混乱しようが、生きていくことは出来る。それで十分じゃないか。他に何がいる?
受け入れてしまえば、楽なものだ。そう簡単に割り切れない者にとっては、時計無き社会は地獄以外の何物でもなかったが。
「ねぇ、今何時?」
ある少年が、母に聞いた。おやつを食べたいのだが、母から「おやつはおやつの時間に食べなさい」と躾けられていたため、『おやつの時間』が来るまでどのくらいか知りたかったのだ。
「知らないわよ」
母はおざなりに答えた。それ以上何も言えない。
「ねぇ、おやつ食べていい?」
「勝手に食べなさい」
母の声には覇気が無かった。大人には、この現状の絶望が見えてしまっている。自暴自棄にもなりたい気分だ。発狂するくらいなら、その方がマシか。
「やったー!」
まだ世界の異常を理解していない少年は、無邪気に喜んだ。時間という制約に縛られないから、好きな時におやつを食べられるのだ。
少年がポテトチップスを頰張っていると、弟がやってきて「ずるい!」と指差した。
「お兄ちゃんばっかずるい! 僕もポテチ食べる!」
「えー? ヤダ! だってお前、この前俺のチョコ勝手に食べたじゃん!」
「そんなことしてないもん!」
「したよ!」
「いつ? 何年何月何日何時何分何秒、地球が何回回った時?」
兄弟はお菓子を巡って喧嘩を始めた。子供らしい言い回しで、反論にもなってない反論をする。母は喧嘩を止めもせず、ただ溜め息を吐いていた。
『何年何月何日何時何分何秒地球が何回回った時?』
その答えを、全人類が欲していた。
誰も知らないことを教えてくれる人はいない。それでも人は、答えを心の底から欲するのだ。そしてまた、同じ質問を繰り返される。手に入らないと知りながら、何度でも何度でも求め続ける。
「今、何時?」
何年何月何日何時何分何秒地球が何回回った時? くまけん @kumaken68
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