ある日、死ぬことにした男の話。

@j-ankoromochi

ある日、死ぬことにした男の話。

 死のう。


 自殺には小さくとも劇的な理由があるかと思ったら、そうでもないようだ。恋人との死別、親友の裏切り、突然のリストラ。数ある自殺のための理由とされるうちのどれも、男は持ち合わせていなかった。一般家庭で育って、名を言って恥ずかしくない程度の大学を出て、そこそこの企業の本社に就職した、独身のサラリーマン。三十代を手前にして結婚を焦らないわけでもなかったが、それも理由ではない。

 言わば「なんとなく」だ。なんとなく死にたくなった。もっと正確に言えば、生きるのをやめようと思った。

 いつも通りの仕事と少しの残業をこなして、ワンルームの賃貸マンションに帰ってきて、シャワーを浴びて、冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出して、そのプルタブを開けながら思った。


 そうだ、死のう。



 そうと決まればただちに死ななくてはいけない。早急に計画を立て、明日にでも実行しなければいけない。

「僕の長所は意志が固いことです。やると決めたことは最後までやり遂げます」

 そんなことを最終面接で言った気もしないでもない。とにかくやるからには計画が必要だ。

 列車飛び込みは、まず無い。通勤ラッシュの時間帯でもそうでなくてもそれが迷惑極まりないのは、サラリーマンである男は身を以て知っていた。

 首吊りもいただけない。死ぬまでに時間がかかりすぎる可能性が高いし、噂で聞くそれはけっこうハードでグロテスクらしい。そこまで苦しみたいほどマゾヒストじゃない。

 練炭でガス自殺も惜しいが却下だ。スーツのサラリーマンが会社帰りに大量の練炭とガムテープを買い込んだら、あからさまに怪しい。止められてしまうかも知れない。近くにホームセンターは一つだけだから、ホームセンターごとに買う物を変えてカモフラージュも難しいし、そんなに遠出もしたくない。なるだけ手軽に、金をかけずに死にたい。


 いつも使っているシステム手帳のメモ欄が文字で埋まっていく。そして最終的に、男は一つの答を出した。


 飛び降り自殺にしよう。


 金はかからない。会社のビルが十階建てだから、いつも通り出勤して、適当な時間にそこから飛べばいい。オフィス街のビル下など、時間帯によっては誰も歩いていないタイミングなど簡単に探せる。屋上は解放されているが、「緑化」と称して草が生え放題になっているから誰も来ない。まさにうってつけだ。しかもこれなら明日にでも実行できる。

 完璧な計画だ。もっと地味に死ねる手段も候補にあったのだが、何せ人生の最期だ。そこは少し贅沢をして、派手にいきたい。手軽で贅沢。完璧だ。

 早速、遺書の作成もしなくては。順調な人生を歩んでいた息子が突然自殺した上に理由も分からないのでは、両親も心配するだろうから。

 男はいまの心情を正直に書き連ねた。悩みがあるわけではございません。ただ、ほんの思いつきで死のうと思うのです。今まで大変お世話になりました。先立つ不幸をお許しください。僕の貯めた貯金は、両親と弟で半分ずつ、老後の貯えや結婚資金などにお役立てください。そんな旨の手紙を便箋に簡潔に書いて署名をして、なんとなく印鑑も捺して、適当な封筒に入れた。会社で任されている仕事の、引き継ぎの手順や引き継ぎ相手も、別の便せんにできる限り分かりやすく書いてから、同じく封筒に入れた。

 次に男は、明日着ていくシャツとズボンに自分の持っている中で一番きれいな物を選び、いつもより丁寧にアイロンをかけた。クールビズの時期だから、上からスーツを着て誤魔化すことはできない。人生最期のシャツなのだから、やはりぴしりと着ていた方がいいだろう。見栄えがいい。


 きっちり用意された鞄、しわの無い服上下、それと、慌てて家を出なくていいように、いつもの十分前にセットした目覚まし時計。

 それらを満足げに眺め回すと、男はもそもそと布団に潜り込んだ。

 子供の頃のように高鳴る胸の鼓動を聞きながら、目を閉じる。

 明日はいよいよ決行だ。




翌朝、学生時代から世話になっている目覚ましの音で、男はきっちりと目を覚ました。いつもより寝覚めがいいような気さえする。

 最後の朝食は、食パン一枚と、牛乳と、ヨーグルト。もっと豪華にしようかと思わないでもなかったが、胃がパンパンの状態で死ぬのは後の処理や死んだ瞬間の見映えに差し支えそうだったため、やめにした。

 シャワーを浴び、歯磨きをし、髭を剃り、髪を乾かしたら制汗スプレーを軽く振ってからシャツを羽織る。起きる三十分前から涼しく空調を整えておくから、蒸し暑い夏の朝にも、腕はするりと袖を通った。

 もう使わない冷蔵庫は、中身をそっくりそのままゴミ袋に突っ込んでから、コンセントを抜いておく。歯ブラシも、本当はあまりよくないけれどカミソリの刃も、全部ゴミ袋に入れた。捨てられる日用品は全部捨てないと。それと、親が見たらショックを受けそうないかがわしいDVD類も。

 遺影に使えそうな写真を何枚か分かりやすく残したデジカメを机において、準備完了。

 さあ、出発しよう。


 ゴミ袋を揺らしながら、軽快な足取りでマンションの階段を降りる。途中で管理人とすれ違ったから、いつものように、おはようございますと頭を下げた。

「おはようございます」と、管理人もまた人当たりのいい笑顔を見せる。鼻歌が漏れそうなほどの日差しだ。遠くに見えるカーブミラーが白く輝いている。

 ゴミ袋を共有のゴミステーションに放り込み、最寄り駅まで向かう。五、六人の小学生の集団登校に出くわすと、先頭を歩いていた真面目そうな少年が元気よく挨拶をする。なんて清々しい日だろう。自殺の陰鬱なイメージなど微塵も感じさせない、自殺日和だ。

 文字通りすし詰めの電車の中では、会社勤めらしいいつもの面々が、いつものように吊革に掴まるなり、僅かなスペースでスマートフォンをいじるなりして無表情に職場を目指している。運良く席に座れたらしい高校生が鞄を抱えて眠っていた。

 この電車に乗るのもこれで最後か。

 そう思うと、暑くて汗臭い電車の中が幾分か許せる気がした。何なら、愛着すら感じた。現金なものだ。

 吊革広告に目をやると、入社当時よく世話になったスタミナ飲料の広告だった。二本も飲めば徹夜も余裕でできてしまう、今考えたら恐ろしい代物だ。今だってまだ若い自信があるが、あの頃は本当に若かった。

 電車を降りて改札を通ると、無表情の集団はそのだるそうな顔からは想像もできないほど素早く、散り散りになった。東から強い日の照りつける交差点を、靴音がバラバラに動く。頭が蠢く。周囲の建物から少し突き出た会社のビルが、ここからでもよく見えた。外装は全てガラス張り。どの部屋にも大きな窓。

 胸が高鳴る。

 あそこから、パッと飛ぶんだ。ここからでも見える。

 少し派手すぎたかな?

 口元が勝手に笑顔になっていたらしい。向かいから歩いてくるスーツ姿の女に気味悪げな視線を向けられ、男は慌てて真顔に戻った。怪しまれてはいけない。ここまで来たんだから。

「おはよう」

 声に気づいて振り向くと、同じ部署の同期が駆け寄ってくる。入社直後のオリエンテーション合宿で同室になって以来ずっと仲のいい友人で、一緒に花見の場所取りをして、宅飲みで終電を逃して、上司のことを愚痴り合って、お互い楽しくやってきた。

 この計画のことも自慢してやりたいところだが、間違いなく止められるだろう。こいつはそういうやつだ。優秀で、いいやつだ。学生時代からの、恋愛結婚の嫁さんがいる。うらやましい限りだ。

「今日は、十一時からあの一番広い会議室でプレゼンなんだ。緊張して仕方がない」

 胸をさすりながら、同僚は不安げに息を吐き出す。大丈夫さ。お前はとても優秀じゃないか。

 ああそうだ。僕が最後に、その緊張をほぐしてやろうじゃないか。

 たしか会議室は南側にあったから、そちらから、十一時頃に飛び降りよう。ガラス張りだから、きっとよく見える。パワーポイントを使うときはカーテンを閉めてしまうから、それより前がいいだろう。

 朝会って言葉を交わしたばかりの同僚が飛び降り自殺なんてしたら、プレゼンの緊張なんて吹っ飛ぶだろうな。

 まさかここまで来て誰かの役に立てるとは思わなかった。自殺も悪いものじゃないな。

「じゃあ、俺は準備があるから、ここで」

 小さな会議室がいくつかある三階で、男の同僚はエレベーターを降りた。驚く顔が目に浮かぶ。

 こんなの、同僚が結婚する時に、みんなでサプライズパーティーをしてやった以来かもしれない。洒落た居酒屋の2階を借りきって、昼から飾りつけをした。嫁さんなんか、同僚以上に感極まって、声を上げて泣いていた。いいお友だちがたくさんいるのね、と嫁さんの絶賛を受けた同僚は、後日高い酒を送ってきてくれたっけ。

 五階の、仕事場のあるいつものフロアに降りながら、男はにやつきそうになる顔を今度はしっかりと抑え込んだ。




「帰ってきたらこれの確認よろしくね」

 煙草を吸いに行くと隣の席の女性社員に告げると、ポンとデスクの上にファイルが置かれる。

 もうする事のできない仕事を請け負うのは気が引けたが、男は心の中で謝罪しながらにこやかに返事をした。内ポケットに遺書を入れることを忘れずに。

 十時四十分。まあ、ゆっくり行けばいい。急ぐ旅じゃないのだから。

 屋上までエレベーターで行くなんて社員は居ないから、怪しまれないよう、部署が入っていて人の多い八階までエレベーターで上って、そこからは階段を使うことにする。滅多なことでなければ八階以上の階段に人はいない。鼻歌交じりに悠々と登っていく。

 九階は静まり返っていた。社長も出席するような会議の時だけ使われる会議室と、それに必要なものの倉庫しかない。あいつは今日、この階でプレゼンをする。

 十階。少し覗き込むと、重厚な廊下の先に社長室が見えた。廊下の両側の扉は秘書の部屋だろうか。

 社長室は、最終面接で一度だけ入ったことがあった。

 あんな椅子に座るのは、一生無理だろうな。いや、もうすぐその一生も終わるのだけど。


 いよいよ、屋上に続く階段を登る。

 社名に「ガーデン」と付けただけの安直極まりないプレートが登り口の壁に張り付いていた。誰も使いやしないのに、掃除のおばさんはこんな所まで掃除しておいてくれているようだ。ぴかぴかだった。

 見上げた先のガラス張りの扉の向こうに、伸び放題の雑草が見える。

 無機質な階段が、今じゃまるで天国への階段だった。人生最期の階段だ。正月を迎えると何でもかんでも「初○○」と言いたくなる気持ちと似ている。最期階段。最期扉。

 その最期扉を開けると、さすが十階建ての屋上なだけあって風が強い。雑草が音を立てて揺れている。手を離すと扉は風に押されて勝手に、乱暴な音を立てて閉まった。

 空は青かった。向こうに、もくもくと天までそびえ立つ入道雲が見えた。その前を飛行機雲が横切っている。美術の心得は無いが、素人目に美しいと思った。太陽が頂点に達しようとしている、夏の昼前の風景。

 ・・・その美しい風景に、似つかわしくない黒点が一つ。


 女性が一人、手すりに掴まって座り込んでいた。


 驚きよりも何よりも先に、困ったな、と男は思った。誰もいないのが前提だったのだ。計画が狂った。

 ようやく足音に気がついたようで、女性が恐る恐るといった感じで振り返る。綺麗な人だ。目元は真っ赤だった。

「どなた」

 蚊の鳴くような声が言った。

 しかしどちらかというと、女性は男が誰かと言うより、男がここにいる理由を知りたがっているようだった。そんな口振りだった。

 だから男は、屋上の緑化を見直すための委員会の者だと、目的がおよそ自然に思える嘘をついた。営業の部署でおべっかを遣いまくった甲斐があったと思う。自然な嘘が自然に出てきた。

「そう」

 風に吹き消されそうな声。

「綺麗になっちゃうんですね。ここ」

 女性の視線が、男から外れて空へ行く。髪がばさばさとなびいている。

 状況からして、この女性の目的はほぼ明らかだった。様子からして、背景に何かあったのも大体明らかだった。

 ただ、女性の話し方はひどく淡々としていた。

「あなたも同じ目的で?」

 十時五十分。

 女性に動く気配はない。

「変ですよね。一流企業に就職して、幸せだったはずなのに」

 いよいよ弱った。いっそこの女性に構わず飛び降りてしまおうかと思った。

 しかしそれでは気分が悪い。念入りに計画したこの最高の自殺において、そんな後ろ髪の引かれる飛び降りは嫌だった。善人ぶりたい訳じゃないが、人並みの道徳観は一応持っている。死ぬならそれを欠かさずにすっきりと死にたい。


「でも、最期が一人じゃなくて良かった」

 女性が立ち上がる。

 手すりに手をかける。

 身を乗り出す。

 ビル風に巻き上げられて、長い髪が舞い上がって、丸い額があらわになって・・・

「死んじゃだめだ!」


 ・・・とりあえず、そう叫んでいた。


「死んじゃだめです、その、ええと・・・あなた、とても綺麗じゃないですか!何があったのかは知りませんけど、とても綺麗じゃないですか!やり直せますよ!」

 我ながら支離滅裂だ。さっきの自然さは何処へやら。頭が回るより先に口を動かしたりするからだ。

 女性も、目を見開いて、口を半開きにしたままこちらを見ている。

「飛び降りはだめです、ここではなく余所で・・・そうです、もっと後にしましょう!もう一頑張りしてからにしましょう!綺麗なんですから!ねっ!」

 何を言っているんだろう。何が「ねっ」なのかさっぱり分からない。ただ、とにかく、自殺は避けたかった。人生の最期において、それ以外のことは概ねどうでも良かったが、ここで、目の前で自殺されるのだけは絶対に避けなければいけなかった。

 沈黙が流れる。身を乗り出したときに浮いた片足が、所在なさげにふらふらと揺れる。

 一瞬雲に隠れた太陽が、また屋上を照らした。そしてそのとき、ついに女性は、そっと身体を降ろしてくれた。黒のパンプスが、生え放題の雑草の茎を折る。髪は乱れてボサボサだった。

 視線の行き場が他にないから、じっと女性を見つめる。女性はまだ手すりの外側を見ていた。

 黒いスーツ。お世辞にもセンスがあるとは言えない、リクルートスーツのようなスーツだ。座り込んでいたせいか、尻のところが汚れている。

 十時五十八分。

「北野です」

 か細い声が言う。

 え、と男が疑問符を吐き出す前に、再び女性が重ねて言った。


「私、北野と言います。七階の、北側のオフィスで働いています。仕事もろくに覚えられない平社員です」

 涙声だった。

 ただ、もう蚊の羽音ではなかった。

 振り向いた女性の、北野さんの顔は涙に濡れていた。ついさっきと同じような光景だが、今度の彼女は笑っていた。やっぱり綺麗な人だ。泣き顔も綺麗だった。

「ありがとう」

 赤くなった目尻を、頬を、涙がぽろぽろと落ちていく。

「ありがとう。嬉しかったです。よく分からなかったけれど、すごく嬉しかったです。ありがとう」

 それだけ言い終わると、北野さんは走って行った。突っ立っている男の横を通り過ぎるとき、そこに小さく風が起きた。香水の匂いがした。

 扉が開く音。本来歩くべき堅い床に辿り着いたパンプスが、元気を取り戻してカツカツと高らかに遠ざかる。数秒後に、扉がひとりでに、やはり乱暴に閉まる音。

 入道雲はそのままだった。さっき太陽を隠した雲は、別の雲だったみたいだ。相変わらず、子供のころに見たままの抜けるような青空だった。


 かくして屋上は、再び静寂を取り戻した。

 自分や、北野さんが来る前の様子は知らないけれど、多分こんな静かさだったのだろう。雑踏の響きや、車のクラクションが遠く聞こえる。飛行機の音も。

 しかし、この場所それ自体が持つ音は、雑草のこすれ合う音だけだ。静かだった。

 手すりに歩み寄る。


「ありがとう」


 彼女の言葉が耳に残っている。

 徐に手すりに手をかけて、同じように身を乗り出してみた。耳の中で空気が渦を巻き、ごうごうと音がする。エントランスに続く大きな階段が小さく見える。少し向こうの交差点の近くで、いくらかの人が蟻のように忙しなく、絶え間なく、落ちつきなく歩き回っている。会社の手前には、片手で足りよう人数がまばらに動いている。まぁ、これなら大丈夫だろう。タイミングを見計らって、誰にも当たらないように。


「ありがとう。嬉しかったです」


 ・・・彼女は、止めてほしかったのだろうか。礼を言ったということは、そういうことだろうか。

 止めてほしくて、こんな所にいたのだろうか。誰かに止めてもらえる確率なんてゼロに近い、こんな場所に。

 ビル風で目が乾く。

 自分がここに来なかったら、彼女は飛んだのだろうか。

 

「ありがとう。嬉しかったです」

 

 男は靴を脱いだ。

 脱いだ靴をきちんと並べ、その上に遺書を置いた。遺書が飛んでしまわないように、上に、更にスマートフォンを置いた。

 ドラマで見たテンプレートをまさに再現したような状態で、男は満足げに頷いた。

 南側、真向かいに見える太陽は、まだまだ、どんどん上にのぼっていく。

 十一時二分。

 間に合わなかった。

 今ごろ同僚は、固い笑顔で練習の成果を発揮している頃だろう。

 まあ、自分は結果的に一人救ったのだ。人生を諦めかけた、綺麗な女性を一人。結果オーライだ。あいつは、同僚は人の力なんて借りなくても、ひとりで何とかやれる。

 手すりを握る。

 太陽に近づくように、腕の力で大きく前へ出る。両足が宙に浮いた。

 あと一押しすれば、この体は、頭から地面へと落ちていく。重力が裏返って、真っ逆さまに。

 目を閉じた。

 晴れ晴れとした気分だ。汗が首筋を伝っ

ていく。こんな、こんなすっきりした気分で死ねる。昨日から立ててきた計画は完璧で、気分的にも完璧。旅の終わりにふさわしい。


「ありがとう、嬉しかったです」


 ・・・彼女は、もうオフィスに着いた頃だろうか。


 ちらりとそう考えた瞬間、邪魔が居なくなってすっきりとしたはずの心が、とん、と重くなるのを感じた。

 それに気づいた男は、大きく息を吸って、ひとつ、大きくため息をついた。ため息をついて、ゆっくり、一旦体をおろして、手すりから手を離した。手が汗ばんでいた。

 彼女が踏み固めた雑草が、靴を脱いだ足の裏にぴったりと馴染む。心地よい重みだった。

 ああ、そうか。

 男は笑った。ここに来て、すっきりした笑いでもなければ、自嘲したわけでもない。笑って、彼女の言ったのを思い出して、ありがとう、と呟いてみた。


 そして、北野さんがしたのと同じように、手すりに背を向けて、靴下のまま走り出した。


「ありがとう、嬉しかったです」


 自然と笑顔になる口元を、今度は隠すことはなかった。

 靴下越しにちくちくする雑草の茎を感じながら、走って、走って、



 男は、反対側の手すりから勢い良く身を投げた。

 北側の彼女に見えるように。

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