6・週末〜
そこから先は、木下の記憶が曖昧で、鮮明に語ることが出来ない。
金曜の午前十時過ぎ、木下は早退し、自宅へ向かったと思われる。
土曜日、日曜日と、愛子の通告した家出騒ぎが、実際に行われたらしい。愛子の実家から両親が訪れ、荷物と共に妻と息子を連れ、いなくなった。結婚と同時に買ったマンションの中に、ぽつんとひとり、膝を抱えて座っている、そんな画像が木下の脳裏に、途切れ途切れに浮かんでいた。
「私は、あなたのことを好きだけれど、あなたとずっといることは、私と息子を不幸にする」
愛子の言葉が、木下の耳に残る。
泣きじゃくる勇人の声が、妻と息子を呼び止める木下自身の声が、暗闇の中でこだましていた。
何もない、空っぽの空間に、漂い、沈んでいく。
夏の暑さが見せている、幻影なのだと、木下は自分に言い聞かせた。
(全ては夢、夏の夢だ。俺は家に帰られなくなったはず。愛子にあんなものを突きつけられたから、こんなに怖い夢を見たんだ。いや、もしかしたら、あの離婚届も、夢だったに違いない。夢だ、夢に決まってる。だから、目が覚めたら、元通り、いつもの生活に戻っているはずなんだ──)
*
月曜日の朝、田中が営業一課に出勤すると、課長の島田が不機嫌そうな顔で事務室内をうろうろしていた。木下の机に人だかりが出来ている。なにやら言い合っている。
「どうかしたんですか?」
気の抜けたような声であたりに尋ねると、同僚の女性が答えた。
「木下係長と、連絡が取れないらしいよ。携帯電話も、家の電話も不通らしくて。どうしたのかなぁ」
いつもキッチリ、時間前に到着しているはずの木下が、役職者のミーティングに顔を出さないのは、明らかに不可解だった。島田が朝から数度電話したが、留守で連絡の取りようがないという。無断欠勤するような人間じゃない、だからこそ、彼のことが皆気がかりだった。
田中は、暫く黙りこくっていたが、何かを思い出したように、島田のもとへ駆け寄った。
「課長、課長、ちょっと、いいですか?」
人ごみを掻き分け、島田のスーツの袖を引っ張って、応接間へ引き込み、内鍵を閉める。「田中、どうしたんだ?」との声に耳を貸さず、彼は自分の中に
「先週もチラッと話しましたけど、係長の様子、おかしかったんです。多分、連絡取れないのはそれが原因ですよ!」
「田中、お前もそう思うか!」
真剣に訴える彼の目に、島田は動揺した。木下の態度の不自然さを気にかけていたのは、自分だけではなかった。田中までも、自分と同じ考えだったとは。彼の不安が確証に変わった。
「課長も、そう思ってたんですね」
極力声が漏れないように、田中はボソッと、島田に
島田は慌てて、田中をぐいぐいと応接間の奥へと引き寄せ、
「ぐ……具体的に、どうおかしいと思った? 言ってみろ」
「は、はい。それはですね……」
田中は先週の木下の様子、とりわけ朝のエレベーターホールでのことを細かく説明した。ホールで出会うたびに、必要以上に驚いていたこと、前日飲みにいったことを忘れていたこと、階段をわざわざ使用していたり、弁当を不思議そうに何度も見ていたりしたことを……。
「田中、実はな、木下は俺に、『家に帰ってない、帰られない』と言ったんだ。彼の字でサインした書類を見て、『書いてない』だの、『自分かもしれないが、違う』だの……」
二人は、木下の行動を、ひとつずつ、思い出そうとした。何があったのか、すこしずつ、突き詰めなければ、一向に結論に辿り着かない、そんな予感すらした。『帰れない』と、島田に話した、あの言葉は、どこまで本当だったのか。毎朝の、奇妙な行動は何だったのか。田中と島田は、答えの出ない謎にぶち当たっていた。
突然、エレベーターホールから、女性の悲鳴。
二人は顔を見合わせると、現場へと急いだ。タイミングのいい悲鳴に、彼らの心臓は激しく鼓動していた。
「木下係長が……、係長が……」
悲鳴に駆けつけた島田と田中は、彼女が震えながら指差す先──、ホールの角に置かれた小さなテレビへと視線を注いだ。ニュース画面が、見覚えのあるマンションを上空から映し出している。
『──マンション駐車場で発見された遺体は、ここに住む会社員、木下充さんとみて調べを進めています。近所の人の話では、ここ数日、家族と激しく口論……』
青いビニールシート、駐車場に張り巡らせられた、KEEP OUTの黄色テープ。
『……落下したと見え、自宅から遺書など見付かっていないことなどから、自殺・他殺の両面から捜査を……』
淡々と事実を語る、アナウンサーの声。
島田と田中は、画面に釘付けになった。
ばたばたと、人がホールになだれ込んでくる。そして皆、島田たちと同じように、事態に困惑し、呆然と立ち尽くした。
「木下……、お前に何があったんだ……? 何がそこまでお前を、追い詰めたんだ……?」
島田の声だけが、空しく、ホールに響いた。
*
最終的に自殺と断定された、木下の葬儀は、
木下が役場に離婚届を提出していなかったことから、喪主は妻の愛子が勤めた。
あまりに突然な出来事に、皆胸を痛め、号泣していた。
島田は騒ぎの間ずっと、全身にざわざわと走る悪寒と、
葬儀から一週間ほど経ち、木下の机を整理しなければならなくなったその日。
営業一課の事務室の隅、島田は田中と二人で、木下の机を
鍵のかかった机の引き出しを、最後に片付ける。遺品から見付かった鍵で開けると、一枚の妙な紙が出てきた。白いA6版のコピー紙、木下の性格を思わせる、裏面再利用のメモ紙。
二人は、そのメモの内容に、目を見張った。
全体にぎっしりと細かく並ぶ、神経質な字。
『気がつくと朝』
『田中と飲んだ?』
『エレベーター……× 階段……?』
『離婚届』
様々な言葉。
木下があの事件の前後に記したことは明白だった。
「やっぱり、あの辺から係長に何かが起こっていたんですね」
田中の一言に、島田が
『サイン=俺?』
これは、離婚届のことだ。
『弁当→家から出勤、間違いない』
『離婚の理由……?』
だんだん、字が乱れてくる。
言葉の羅列が、どんどん短い文章になり、
『何故、愛子は俺と別れようとしたのか』
『俺が、間違っていたのか』
『愛子と直接会って話し合う方法がわからない』
悲痛になっていく、木下の心の叫びが、それを読む島田と田中の胸に突き刺さっていく。
そして最後、メモの終わりに、やはり小さな字で──、それこそが、自殺の原因なのだと、二人が思わずにいられない言葉が、綴られていた。
『もうひとり、俺がいる。
そいつが俺の幸せを奪っていく』
<終わり>
帰宅不可症候群 天崎 剣 @amasaki_ken
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