第30話


 あたりのざわめきで、ミラは気がついた。

 日差しがかなり高く、肌が焼かれてひりひりと痛い。涙でついてしまった睫毛の隙間から、まぶしい日差しが目をしぼませる。


「おらおら! しっかり掘り起こせよ! おい、ちょろまかすな、この間抜け!」

 聞き覚えのある声だ。ミラは、あわてて飛び起きた。

 その姿に、水晶堀の作業をしていた一座の面々の手が止まる。中には悲鳴をあげ、腰を抜かす者すらいた。

「おおお! ミラ、おまえ、生きていたのかい?」

 醜悪な女が叫ぶ。

 座長も目を丸くして、吸いかけの煙草を取り落とした。

 どうやらミラは屍だと思われていたらしい。

 一座の者は、ミラの生死を確認する間もなく、水晶探しに没頭していた。

「ミラよ、おまえは適当に休んどけ! まぁ、特別待遇だ。明日からは、しばらく水晶ほりだ……。あ、こら、ちょろまかすな! あ、こら!」

 話の途中で、座長は作業中の者を追まわし、ミラを忘れ去った。

 ミラが行方不明だった間、いったい何をしていたのかなど、聞こうともしない。

 彼の頭にはハゲができていた。どうやらそこが、ミラが叩いたところなのだろう、すっかりそのことは忘れている。水晶のせいだ。


 青水晶は、一角の人々の哀れな子供たちの成れの果て……。

 それを知っているミラの目に、一座の者たちの行為は許せなかった。汚い手で、汚れきった心で、すべてを掘り尽くそうとたくらんでいる。

 シルヴァーンが、ミラを絶対にこの人たちの中に戻したくはないといった意味が、あらためてわかる。

 やがて、彼らは喧嘩をはじめた。一座のためではなく、自分たちの私利私欲のために、水晶がほしいのだ。

 殴り合い、蹴り合い、殺しあいそうな勢いになった。

 ミラは、そっと起き上がった。


 水晶なんて、ほしくはなかった。

 ほしかったものは……失われた。


 人気のない一座の馬車に戻り、水瓶の中の水をひしゃくですくって何杯か飲み、ついでに顔にかけて泥を落とした。

 額に小さな傷があり、少ししみて、ミラは驚いた。

 最後にシルヴァーンがふれたところ。

 彼の角が、最初にミラの心臓を貫き、最後に額に傷を残した。そして……。

 涙がこぼれそうになる。

 かすかな痛みが、すべてが幻ではなかったことを証明している。

 しかし、あの日々は戻らない。

 森は、崩れ去ってしまったのだ。何もかもが、取り返すことのできない幻と化した。

「すべては……夢……。でも」

 ミラの瞳に力が宿った。何か体の芯が燃えてくるような、そんな気がした。

「悪夢ばかりじゃなかった」


 一座にいてはいけない。

 ミラは、人が戻らぬうちに手早く旅支度を整えた。

 元々のミラの私物など、さほどない。

 わずかなパンと干し肉を失敬し、革製の水筒にたっぷりの水を入れる。リューまで、ここからは距離がある。

 女の足では歩ききることは不可能だ。ミラは裏に回り、若くて一番元気なロバに荷物を括りつけた。そしてハミをかけて、出ようとした。

 ばったりと、小間使いの老人とはちあわわせてしまった。

 痩せこけていて、少し頭が弱く、いつもは馬糞干しの仕事をしている。

 たいした使えない老人を、馬車の番として残したのだろう。ミラの顔色は引いた。

「じっちゃん、お願い……見逃して」

 小声で、ミラは必死に頼んだ。のろのろしていたら、座長に見つかる。

 老人は、すかすかの汚い歯を見せて笑うだけだ。ポケットを探ってもぞもぞしている。

「じっちゃん、お願い。私、自由になりたいの……」

 ミラは、祈るようにして老人に頭を下げた。

 すると、目の前に老人が手を差し出した。

 ミラが驚くと、老人はうれしそうにして手を広げて見せた。

 青水晶がきらりと光った。


 いつの間に、座長の目を盗んだのだろう?

 この小間使いに、そのような勇気があろうとは……。


 ミラが驚く中、老人は、ほらほら、と手を突き出す。

「もってけ、もってけ」

 ミラにくれるというのだ。ミラは驚くと同時に、首を振った。

「だめ、そんなもの、もらえない!」

 老人が必死に手に入れた唯一の財産である。しかも、ミラは水晶の正体を知っている。

「もってけ、もってて損はないべ、おなごが一人で生きるのは大変だべ」

 すかすかの歯から漏れるような言葉だった。

 押し付けられたミラの胸の前で、水晶は青く輝き、去っていった人の瞳の色を思い出させる。

 生活だけが人を低俗にするわけではない……と、シルヴァーンは言った。生活がどうであれ、魂の美しい人はいるのだ。

 ミラは、はじめてその言葉の意味することを知った。

「じっちゃん、ありがとう……」

 ミラは、目を潤ませて水晶を受け取った。



 ミラは一人、ロバに揺られていた。

 西を見ると、はるか向こうまで荒地だった。

 東を見ても枯れ果てた野原が広がっている。

 どちらを見ても、荒地だった。豊かな森など、どこにもない。

 これから先、ミラが向かうところも、けして楽園であるはずがない。

 だが、不幸に囚われたミラは死んだ。今のミラは、自由で新しい魂を持つ。シルヴァーンが、最後までミラに求めていたものだ。

 シルヴァーンは、はるか彼方へと去っていった。

 最後に、二度と会うこともない、会ってもミラにはわからない……と言い残して。

 思えば、彼はいつも希望に控えめだったかもしれない。だが、ミラは彼よりも欲張りで、諦めが悪いのだ。

 永久の別れなんて、信じない。

 二人が本当に互いの心臓を貫いたのなら、この心臓を持ち続ける限り、必ずどこかで呼び合うのだ。


 その日がどんなに遠くても。

 この命が果てたそのあとでも。


「私にあなたがわからないはずないじゃない。私たちは、きっとどこかでまた出会うわ」

 空に向かってミラは呟いた。

 真っ青な空だ。雲が流れてゆく。

 それから心臓に青水晶を押し当て、目をつぶった。強い決心とともに、ミラは目を開け、前を見据えた。

「でも……それは、あなたの夢をかなえてから……」

 気合を入れられたロバは、短い足で走り出した。



 =了=

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一角の森 わたなべ りえ @riehime

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