第29話
かすかにまだ、緑の香りが立つ。
悲鳴を上げながら、裂け、熔け、崩壊していく森が、ただ、風になびいているかのように静かになった。
空は澄んでどこまでも青い。青いのは、一角獣の瞳だった。
青空に風が渡り、シルヴァーンの銀の髪を躍らせた。
この瞳を、この髪を、どこかで見たことがあると……ミラは時々思っていた。
そう、やはり……見たことがあった。
その事実に、ミラはすでに驚かなかった。
ゆっくりと生き返り、ぼんやりと風景を見つめているだけで。
ゆっくりと……記憶がよみがえってくる。
――それだけで、今まで生きてきた意味がある……と思いたい。
走馬灯のように浮かんでは消えた人生を振り返り、ミラは納得したかった。
死を、真直ぐに受け止めようとして……死ななかった。
なぜ?
「このような、悲しい死を迎えてはいけない、ミラ……」
声がした……。
声がしたのだ。あの時。
「あなたと私は、あの時、互いの心臓を刺し違えたのです」
震える手が凍りついたミラの手を握り、そっと持ち上げた。一瞬シルヴァーンは目をつぶり、ミラの手を唇に押し当てた。
「私はただ、あなたを殺すことだけを思っていた。なのに、この角があなたの心臓を貫いた瞬間に、あなたの心に浮かんだ人生すべての思い出を、私は一気に受け取ってしまって、心が死んだ」
ふれた手も唇も温かだったが、まるで凍りつきそうなくらいに震えている。空のように澄んだ瞳には、すでに憎しみの色はなく、悲しいまでの青しかなかった。
ミラの脳裏に、すれ違っていた頃の日々が浮かんでは消えていった。
彼は、一座にいた時のミラも、踊りを踊っていたミラも、すべてを知っていると言った。それを、ミラは否定した。
彼は何度も肯定したのに……。
シルヴァーンにとって、自分はよそ者だ……。そう思いつづけていた。
しかし、所詮はわかりっこないと耳をふさいだのは、ミラのほうだった。
シルヴァーンの小さな声は、かすかに震えている。が、はっきりと染み渡る。
青い瞳から、涙はとめどなく落ちてきた。ミラの乾ききった瞳にも涙がにじんだ。
「生れ落ちた瞬間から、あなたは不幸に囚われていて逃れられない運命にあった。森の世界しか知らなかった私は、あなたと出会って傷ついた」
思い出した……。
あれは、想像の世界ではない。
一角獣に突き刺されて血を流す私を、彼は抱きしめ、泣き叫んだのではないか?
夢なんかじゃない。
必死に蘇生させようとして、無駄な努力を繰り返したのではないか?
血を流す私を抱き上げ、グリンティアたちの反対を押し切って、村に運び込んだのではないか? そして私も……声に答えた。
でもなぜ? どうして?
どうしてそこまでして、殺した敵を助けたのだろう?
「耐えて生きぬいた果て、私に殺される。あまりにも魂にそぐわない、そんな悲しい死を迎えてはほしくなかった。なぜなら、あなたは美しいから……」
心臓の奥に突き刺さっていた冷たい刃が融けていった。
生きる気力が萎えていたミラの頬に、再び涙が伝わった。乾ききった心が潤い、ミラはかすかに唇を震わせた。
「でも……私…。あなたのすべてを壊してしまった……。もう、とり戻せない」
まったく愛に値しない。
彼が抱いた清らかな愛に対して、自分は何と勝手なことか?
貪欲に愛を求めたうえに、言葉に惑わされ、愚かな行為に走り、そして、もう戻れない。
「ミラ……」
髪を撫でるシルヴァーンの手を、ミラははじいた。
「私、あなたやグリンティアに謝る方法を知らない……もう……どうしたらいいのか、わからない! 憎んでください。恨んでください。そして、殺して!」
「憎んでいます! 恨んでいます! 殺したいほどに」
興奮して泣き叫ぶミラの手を抑え、胸に押し当てててシルヴァーンは言った。
「でも、清らかなだけが愛ではない。生きている者は誰しもが惑う。私も……です。あなたを閉じ込め、独り占めしたいと、何度迷い、自分を責めたか……。私は禁忌だと知っていた。そして許されないと知りつつ、あなたを抱いた。あなたにふれて追いつめた……」
ミラが迷い込んでいた世界は、シルヴァーンにとっても葛藤の世界。硝子のような繊細な幸せと、梢の上から地の底までも落ちてゆくような不安、そして森のような迷路の上に成り立っていた。
だが、ミラは間違った出口を選んでしまったのだ。
崩れ去った森のあとには何も残らず、荒れた大地と虚しさだけが広がってゆくだろう。
「私にとって森はすべて。だから、森が崩壊しはじめた時、あなたのしたことに気がついて、あなたを探した。裏切られたと感じ、悲しみ、怒り、憎み、殺すためだけに……。でも、あなたを見つけて、再びふれて思い出しました。私はすべてを失ったわけではない。まだ、夢があると……」
「夢?」
「そう、あの時、あなたの夢を聞いて、私はとても幸せな気分になりました。その夢を叶えたいと切に願いました。でも、私の見ていた夢は、もっとささやかなものでした」
シルヴァーンはかすかに微笑んだ。
そして、自分の角で傷をつけてしまったミラの額に口づけをした。
「私が救ったミラの命が、何事にも束縛されることなく、自由に生きてまっとうする夢」
そういうと、シルヴァーンは立ち上がった。
「永久のお別れです。ミラ」
ミラも起き上がりたかったが、体が痺れて動けない。彼の姿を見ることができない。
「グリンティアの夢が覚めた以上、時を終えた私はこの姿ではいられません。西へと旅立たなければならない。同じく、時を終える仲間とともに……。あなたに二度と会うことはない。会ってもあなたは、私とは気がつかない……」
大地が揺れた。
ミラは必死になって、体を動かそうとした。これが暗示なら、何かの拍子で解けるだろう。しかし、二度とシルヴァーンの姿を見る事はなかった。
蹄の音がだんだんと遠ざかってゆく。
やっと、横向きに体を動かした時、あたりはすっかり荒れ果てた大地となってた。
はるか彼方に、きらきらと波打つ湖が揺らめいて見える。枯れた大地にかすかに残された希望。ミラは震える手を伸ばした。
いや、湖などではない。
青白い燈明をかざした一角獣の群れだ。西へ向かって遠く小さく走り去ってゆく。
すでに彼らを一頭一頭数えることもできない。水がひいてしまうかのように、少しずつ小さくなり、そしてついに見えなくなった。
ミラは起き上がれぬままに、枯れ果てた大地で再び仰向けになり、青空の下にさらされた。
なんという結末! なんという……。
ミラは大きな声を上げて泣いた。
こんな悲しい別れがくるなんて! これが知りたかった真実だなんて!
ミラはさらに泣いた。泣いて、泣きつかれて、気が遠くなるまで泣きつづけた。
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