第549話 欲しかったのは
リフィが他の細々としたことを確認しに去っていくと、それと入れ替わるようにして、なんと
その後を追うように、心配顔の
沈は目立つから、こっちに来ないでほしいと切実に願う。
帰路に就けば
なんならこうなることを見越して、雨妹は友仁の側ではなく、こうして荷車に張り付いていたというのに。
――だって、絶対に最後まで面倒臭いことを言い出しそうなんだもの。
そんな雨妹のげんなり顔をものともせず、笑顔の沈が「やあやあ」と声をかけてきた。
「雨妹よ、幡に留まらぬか?
そなたを満足させる美味いものがたんとあるぞ?」
なんと、堂々たる引き抜き案件である。
「それは確かに魅力的ですけれど、私もそろそろ都風の味付けが恋しくなってきたところです」
そう告げる雨妹は笑顔でありながら冷や汗をかいていると、傍らで
「都風の味なら、こちらでも作ってやれるぞ?」
「いえいえ、都風とは、都に生きる人々の人柄も含めて、都風なのです」
きっぱりと言ってのけた雨妹に、沈が眉を上げる。
「都に生きる者と、共にありたいと?」
「ええ、そうです」
都には、百花宮には皇帝や太子――父や兄がいる。
雨妹がきっぱりと断ったのをきっかけに、友仁が
一瞬待ったのは、先んじて会話を遮れば「威圧で答えを歪められた」と因縁を付けられるからだろう。
雨妹は彼らの背後にさっと隠れて、ホッと息を吐けば、離れてこの様子を野次馬している
――もう、助けてくれてもいいんじゃないの!?
雨妹がムッとした顔で
どうやらあちらも面倒には近付かないつもりらしい。
まあジャヤンタを佳へ連れて行くという面倒を引き受けてくれているのだから、これ以上は望むまい。
「
すると沈の側で、
「もう諦めることだな。
策士気取りは、結局純粋な力に負けるものだ」
林の遠慮のない口調に、沈が口を尖らせた。
「だって、欲しいじゃないか。
ずっと自分だけを想ってくれる誰かが」
「私を手に入れたことで、満足しておけ。
どうせ大方、明様の婆殿の面影を重ねているのだろう?」
「あ……あ?」
沈の言葉にハッとさせられた雨妹だったが、すぐその後に続く林の話に、それがまるっとすっ飛んだ。
「え、婆殿って、あの留守番の?」
頭の中を疑問符が飛び交う雨妹に、明が深くため息を吐いた。
「この皇子殿下はな、うちの婆に九回も求婚しているんだ」
「……え?」
その瞬間、雨妹はどんな顔をすればいいのかわからず、とりあえず心も顔も無になった。
「そういう顔になるだろうから、言わずにおきたかったんだがな」
この反応に、明はますますため息が深まる。
雨妹はあの明家の老女の顔を思い浮かべ、そして沈の顔を見た、その瞬間。
――ああそうか、この人が最初から求めていたものは、それだったんだ。
雨妹は沈がやたらに絡んできたその根っこが、ようやくわかった。
「あの、前に行かせてください」
雨妹は、明と立勇に前を開けてもらうと、その青い目を真っ直ぐに見た。
「沈殿下、これから少々無礼を働きますのを、先に謝ります」
「なんだ? 少々の無礼くらいはかまわんぞ」
雨妹の視線になにかを感じたのか、沈は軽く眉を上げる。
言質を取った雨妹は、早速指示を飛ばす。
「殿下、ちょっとかがんでいただけますか?
そう、そのあたりで止まってください」
雨妹に言われるがままの姿勢になる沈は、ちょうど雨妹の肩あたりに頭がきている。
「明様に立勇様、ちょっとそこで視線を遮って隠しておいてくださいませんか?
林様も、おそらくは外聞が悪いと思われるので」
雨妹に言われて、三人は「なにをするんだ?」と不思議そうになりながらも、雨妹と沈をぐるりと囲むようにしてくれた。
それに友仁や何姉弟たちという野次馬も加わって、雨妹と沈の姿は人の壁で周囲から遮断されてしまう。
その状況で、雨妹はおもむろに沈の頭をぎゅっと抱きしめたのだ。
「いい子、いい子だ。見な、みぃんながこの私を羨んでいる、自慢の子よ」
そして、沈の頭をゆっくりと撫でた。
「おまえ様は、とても頑張り屋さんだねぇ」
雨妹はささやくようにしているのに、沈は固まって微動だにしない。
雨妹は前世で、学校であったり会社であったり地域の集まりであったりで、上手くやれずに落ち込んでいる家族たちを、こう言って励ましたものだ。
沈はおそらく家族に――母に、こう言って褒めてほしかったのだ。
そして雨妹や側近たちに褒められている友仁が、羨ましかったのだ。
明家の老女に懐いたのも、きっとあの人が皇子であっても普通の子どもと同じように扱い、叱ったり褒めたりしてくれたからだろう。
沈が困っていた友仁に救いの手を差し伸べたのも、人助けではない。
彼は友仁ではなく、「誰かに助けてもらいたかった過去の己」に手を伸ばし、「もしもあの時、寄り添ってくれる誰かがいたら」という仮定の人生を眺めているに過ぎなかったのだ。
沈もリフィと同じように、己の中の迷子の「沈」を、自分で慰めることができずにここまで生きてきたのだろう。
――皆、なんて不器用なんだろうね?
「誰が褒めなくとも、お天道様はちゃぁんと見ていてくださる。
妙に意地を張らずに、堂々と己を誇りなさいな」
雨妹が頭を撫で続けるのに、沈が固まったままに涙をはらはらと零す。
「頑張ったな、偉かったな」
「……はい、はい!」
それからしばし沈のすすり泣きが漏れ、それがおさまった頃合いを見図らい、雨妹は身体を離した。
「ご無礼いたしました。
これにて旅立ちの挨拶とさせていただきたく思います」
「……これほどに見透かされたのは、あの家人殿だけであったな。
我も、そなたの健勝を祈ろう」
沈は目を赤くして、雨妹にようやく別れの挨拶を返してきた。
これで、雨妹も心置きなく旅立てる。
「まったくお前は」
立勇が呆れるやら感心するやらのため息を吐いているが、どうやら皇子相手にしての無謀へのお説教は飲み込んでくれるようだ。
「雨妹、ねぇ私は!?」
「友仁殿下、これで旅立ちの準備は全て整ったでしょうか?」
それから雨妹は主の方をくるりと向けば、満面の笑みの友仁がそこにいた。
「うん、さすが雨妹だったね!」
「イヨッ! さすが張雨妹、みんなのお母さん!」
その隣で宇が茶々を入れてくるが、雨妹はお年頃の女の子なのにそれは誉め言葉なのか? と問いたい。
そんな皆の顔をぐるりと見渡し、友仁が宣言した。
「さぁ、みんなで百花宮へ帰ろう!」
百花宮のお掃除係~転生した新米宮女、後宮のお悩み解決します。 黒辺あゆみ @kurobe_ayumi
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