後編
私と薫の関係は、肉の交わりを持ちながらも結局は私の一方的な崇拝のままだった。薫が私に与えてくれるものは、あの潤んだ肉の裂け目だけだった。それで幸せ。それが幸せ。
大学まで、たった一人の美しい女の後を追いかけている人間なんてそういない。私はその誇りに酔っていた。
そして、あの審判の日がやって来た。薫は朝から寝込んでいたのか、昼頃電話をかけて来た。どこか甘えた声色で、風邪を引いたからご飯を作りに来てくれないかと珍しく頼んで来た。
私は駄犬のように尻尾を振って薫の下宿先に飛んで行った。神に愛された、選ばれし民族たちが何千年もそれを誇るように、私も絶頂の只中にいた。
何度チャイムを鳴らしても薫は出てこなかった。ノブを回すと、鍵が開いていた。不吉な予感がして、そっと足を踏み入れると、あの艶美な声が聞こえて来た。大きな男物の靴が、肥えたゴキブリの背のように足元にあった。
私はそれを踏みつけて、部屋に入った。見なくても分かる。薫は、愛だけを説く神ではなかった。露骨に誰かに肩入れをし、露骨に他の誰かを嫌うあのオリンポスの神々とよく似ていた。
二人は気づかない。柱の陰から、私は覗いた。ひっくり返された蛙のように、薫は突かれていた。
これは冒瀆だ。私は薫が処女を捨てた時に感じたあの絶望を思い出していた。嘆きはあの時の比ではない。薫はあの時よりも更に美しく凄絶になっている。鍾美、玉貌という言葉は薫のためにあるようなものなのに、こんな風に穢されている。
私は声もたてずにただ泣いた。時折、虚ろな水音が聞こえる。ふと、薫が男を押しやってこちらを見た。文字通り、馬に乗るように男に乗っている。
彼女は笑っていた。
「そこで見ていて」
小さく薫は呟いた。私を見ながら、薫は動いた。違う、薫は抱かれてるんじゃない。抱いているのだ。奇妙な高揚感を覚えながら、私は思った。
雌の息遣い。女の香り。肉の重なりと、熱の重み。全てを抱え込んで薫は私を見ていた。
薄っすらと笑いながら、薫は目を逸らしすことなく私を見つめていた。鼻が神聖な峯のようにこちらを向く。泣く前のような瞳の潤い。淡い眉毛の曲線、まつ毛の陰。
薫は玉を刻んだように美しい。
それを目の当たりにした時、私は絶望した。
あぁ、カルメンを殺したドン・ホセの気持ちがよく分かる。こんな美しい女を生かしておくわけにはいかない。神を求めていた唇が、そのままの勢いで邪神を呼び寄せるものに変わっていく。玉を刻んだように美しい。
こんな美しい女を、美を、生かしておくわけにはいかない。
私はその時、邪神に誓ったのだ。
こんな美しい女を、他の誰にも私自身ですら、手に入れてはならない。ガラス玉の中に美しさを閉じ込めるように、薫の美しさを壊してやらなければならない。
神は夫にあらず、妻にあらず、ただ永遠のものとされなければ、神とはなり得ない。その時、私は誓った。
男が出て行くのを待ってから、私は何も言わず薫にご飯を作った。薫も何も言わなかった。
そして、背を向けて眠り込んだ。
「私は薫のことを恨まないわ。でも決めたの。あなたの美しさを誰にも渡すことができないようにしないと…。私は何があったって、薫の側を離れないわ」
薫は応えなかった。ただ規則的な息遣いが聞こえてくるだけだった。
そっと寝顔を覗き込む。これ以上ないほど、静謐で凪いだ海のように穏やかな寝顔だった。
それは玉を刻んだように美しい。
私は薫を起こさないようにして部屋を出ると、薬局に向かった。
意外なほど簡単に、それは手に入った。もう誰のものにもならない。私のものにすら、なることはない。
この美しさが、記憶の中に結晶化して永遠のものになる。
息が乱れる。奥深くがかき乱される。
女が溢れ堕ちた。
私は瓶を握ったまま、屈みこんで薫を静かに仰向けにさせる。
桃色の唇は何も知らない処女の秘所みたいだった。潤い、歓びに溢れて何も知らない。
「薫」
呼びかけても、応えられることはない。神は残酷だ。子どもが磔にされても何も応えることはなかった。
私の女神も、同じように残酷で無関心だった。
「でもいいの。私はあなたを愛してる。何があってもそれだけは絶対に変わらないわ」
運命は意外なほど瑣末なものが、握っている。起きない薫の唇を割って、まだ眠る舌を吸った。
これからこの美しさは記憶の中だけのものになる。本当に、薫は神になる。
私は身を起こして、瓶の蓋を開けた。
そっとそれを傾けて、畏れを知らない美しさに硫酸をぶちまけた。
薫はその瞬間、バネのように跳ね起きて私に抱きついた。私は初めて薫を押しのけて、押さえつけた。残りの硫酸も全てかけ切ると、あとにはただ無惨な肉のひきつれだけが残された。
薫はもう一人では何もできない。
「ねぇ薫。私、あなたのこと愛してるの。これで誰にもあなたの美しさが盗られることはないわ」
薫は芋虫のように身体をよじらせるだけで、何も応えなかった。もう話すこともできないのかもしれない。
私はゆっくり立ち上がって、唸る薫を見下ろした。
運命を変えた瓶を玄関に向かって投げ捨てた。それは粉々に散って、全てが終わりを迎えたことを叫んだ。
薫は玉を刻んだように美しい。こんな美しい女を、美を、生かしておくわけにはいかないのだ。
左手が焼け爛れていた。薫の顔と同じ証が刻まれた。私はゆっくり薫を抱きしめる。
あとはただ、記憶の中で結晶化したあの美しさだけが残された。
オルギア(ὄργια):古代ギリシャにおいて一部の秘儀宗教カルト見られた陶酔的な礼拝の形態。
…じつに清純な愛こそが、最も暴力的な錯乱を、すなわち生の盲目的な過剰を死の限界へと導く錯乱を、表に見えない仕方で私たちに教えているのである。
バタイユ「エロティシズム」より
オルギア 三津凛 @mitsurin12
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