オルギア

三津凛

前編

人は美を穢すために美を望んでいるのだ。美そのもののためにではなく、美を穢しているという確信の中で味わえる喜びのために、美を望んでいるのである。

バタイユ「エロティシズム」より



玉を刻んだように美しい。私はその時、邪神に誓ったのだ。

こんな美しい女を、他の誰にも私自身ですら、手に入れてはならない。ガラス玉の中に美しさを閉じ込めるように、薫の美しさを壊してやらなければならない。

神は夫にあらず、妻にあらず、ただ永遠のものとされなければ、神とはなり得ない。その時、私は誓った。


お前の美しさは不吉だ。

薫は以前父親からそう面罵されたそうだ。

「異性の親なら、むしろ薫のことは鼻にかけそうなのにね。嫉妬?」

「まさか…ただ、気持ち悪いだけじゃない?」

薫の横顔を眺めながら、何となく娘の美しさを詰る父親の気持ちが分かるような気がする。一度だけ薫の父親と会ったことがあるけれも、どうということもない普通の人だった。母親は確かに綺麗な人だったけれど、不思議なことに薫はあの平凡な父親の貌と似ていると思った。

「自分の妻が、肌の色の違う子どもを産んだみたいな心境かね」

ぽそりと薫は呟いてから、前から来る女の子たちと目を合わせた。一瞬だけ、その子たちはお喋りをやめる。白昼に幽霊にでも出くわしたような顔をみんなしている。

薫の容姿はキャンパスの中でも目立っていた。その子たちとすれ違った後で、薫は鼻を鳴らした。

「鍾美って言葉があるけど…」

薫が私を見る。

「薫のためにある言葉みたいね」

軽蔑したように嗤われて、薫は私の脇腹を肘で突いた。

「別に、好き好んで美人に産まれたわけでもないんだけど」

「それ、他の人の前でも言える?」

「言える言える」

傲慢に言い放って、薫は目もくれずに講義室を目指していく。

美しさを一身に鍾めた姿態は、嘘のように翻る。


薫は玉を刻んだように美しい。私は彼女の全てを見たことがあるけれど、こうやって何かで隠されている時の方がより色気がむせ返るようだった。

美しさが無理に遮蔽されて、発酵している。

薫はつまらなそうに板書を眺めている。鼻が美しく切り立った峯のようだ。

「薫はどうして、そんなに美しいのかしら」

ゆっくりこちらを振り返って、薫は小声で呟いた。

「あなたの心酔振りって、宗教みたい」

「…いや?」

薫は青白い三日月のように笑う。

「ううん。男に崇拝されてる時よりも、女に崇拝されてる時の方が嬉しいよ」

「どうして?」

伸びて来る指を口に含みたい欲求を堪えて、私は聞いた。彼女の全ては、玉を刻んだように美しい。

「男が女を見て綺麗だって思うのは当たり前でしょう?…でも、女が女を惑わせてるってなると」

一度言葉を区切ってから、薫は私の内面を舐めあげるように視線を走らせる。薄い刃を当てられてそのまま皮を剥がれてしまった心地がする。目を凝らせば一番奥の蠢きまで、晒されるようだった。

慄然とするほど、美しかった。

「私はそこまで綺麗なのかって、嬉しくて堪らないわ」

薫は見透かしたように、人目も憚らず私の唇を割って自分の指を挿し入れた。


それは熱狂的な宗教だった。薫と初めて会ったのは中学に入った年のことだ。化粧ひとつしていない、朧な輪郭の群れの中でそれこそ色気を煮詰めたような姿態を薫は晒していた。

薫の父親が言ったように、凄絶な美しさは不吉さと隣り合わせだった。薫は常に壁一枚を隔てた存在として、教室の中に押し込まれていた。

誰の手垢もつかない、あの美しさに私はすぐに搦め捕られた。

「私、あなたのこと好きみたい」

みんなが帰った後で、薫を呼び出して私はそれだけ伝えた。その先のことは何も考えなかった。神と交わることなど、キリスト教徒は考えない。ただ、愛の申告をその面前で跪いてするだけだ。私も同じように、薫に告げた。

「私のこと、何も知らないじゃない」

薫は冷たい声色で言った。その響きが耳朶に届くたびに、まるで愛撫されたように背筋が震える。薫は下から上まで、私を品定めした。それは絶対的な選別だった。

もし、その選別に漏れてしまったのなら、私はすぐにでも死んでしまおう。

私は薫の瞳を見ながら悲愴に誓った。

「でも、薫の美しさは知ってるわ」

これは恋よりも深い呪いだと思った。

薫は何かを溶かした。

「ねぇ、名前まだ知らなかったわ。教えて」

薫は滑らかな歯並びを見せて笑った。

あぁ、私は選んでもらったのだ。泣きそうになりながら、私は唇を開いた。


講義が終わると、薫は当たり前の顔をして私に荷物を持たせる。あの時告白してから、薫は私に遠慮をしたことなんて多分ない。椅子やテーブルのような扱いでも構わなかった。

「ねぇ、もう今日はサボっちゃわない?」

先を歩く薫が振り返る。私の答えは決まっている。

「うん。そうしよっか」

応えながら、舌先に薫の丸い指先が蘇る。思う存分、あれを私のものにしてしまいたい。これを恋というにはあまりにもおぞましすぎる。

私は薫が死ねと言えば、すぐにでも死ぬことができる。他でもない、神がそう告げたのなら喜んで首を差し出すだろう。

潤いのある瞳で見つめられる。

「家に帰りたくないから、あなたの家に泊まるわ」

「…え、うん。一緒に夜寝られるなんて夢見たい」

ふん、と薫は鼻を鳴らして目を逸らす。白い頰が皮肉な笑みに、少しだけよじれる。陰すらも計算されたように、美しさを邪魔しない。

過剰な美しさはどこかで反発を招く。通りすがりの女の子が、驚いたように薫の顔を眺めた後で暗い顔をした。


ゆっくりと、薫の腹を撫でる。薄っすらと浮かぶ肋の窪みが綺麗で、慈しむように掌を置く。

「どうして、こんなに綺麗なのかしら」

「妬ける?」

「まさか」

薫がくすぐったそうに身をよじる。

「あなたは服を脱がないの?」

「恥ずかしいから」

「へぇ、変わってる」

乱雑な手つきで、髪を乱される。薫は興味がなくなったように欠伸を一つした。

「疲れたから、ちょっと寝る」

アングルの「オダリスク」みたいに背中を向けられて、私は胸が抉られる。

「せめて、こっち向いて寝てよ」

「いやだ。また襲われそうだもの。激しいのよ」

薫はわざと艶のある声をだす。

「何もしない、約束するから」

「いやなものはいやなの。おやすみ」

それは絶対だった。私は向けられた背中の曲線を壊さないように、深く布団の中に潜り込む。薫の匂いが満ちる。

女の熱が溢れてくる。裸の背中に自分のでこをそっとつけて、私は薫の寝息に聞き入る。

偶然裸を見られたアクタイオンに容赦のない復讐をしたアルテミスのように、薫もまた容赦がない。

どこまでも私を傷つけて、痛ぶっても飽きることがない。高校生の時に、薫は呆れるほど詰まらない同級生と初体験を済ませた。問い詰めると、あっさり認めた。私のものにならないのなら、他の誰のものにもならないでいて欲しかったと泣く私を見ても薫は顔色一つ変えなかった。

今でも薫が私以外とこういうことをしているのかは分からない。男の痕はなかった。それでも、あの時の嫉妬が思い出すたびとぐろを巻く。この美しい背中に二度と消えないほどの醜い生傷をつけてやりたくなる。

あの時、どうしようもなく絶望して泣く私を見て薫は嗤った。

「こんなに泣き顔が似合う人って、初めて見たわ」

歪な恋情が堕ちた。殊更わざとらしく、私は泣いてみた。もう女になってしまった薫がそれを見下ろす。乱暴に頭を掴まれて、鼻先をくっつけられた。急に優しい顔になって、薫は唇を間近に寄せた。

「そんなに、私のことが好きなの?」

「好きなんて言葉じゃ足りないくらい…薫しかいないの」

このままキスをしてくれると思ったのに、薫はあの滑らかな歯で私の唇を噛んだだけだった。それでも私は、念願叶って処女膜を破られた少女のように、歓んだ。

それ以来、薫は気紛れに私を誘う。一方的に私に与えさせる。男も知らないのに、女の歓ばせ方だけは唇にも舌にも指にも染み付いている。私は横たわる薫をそっと抱きしめる。

これで私は満足だった。神の側から、一段降りて人間に何かを乞うことなんてあり得ない。私はこうやって、望まれた時に跪いて全てを与えられればいい。

薫は玉を刻んだように美しいのだから。

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