痒み

桜井一樹

第1話

                 痒み

                                  桜井一樹


 夏は目覚ましの宝庫である。風鈴の音、セミの鳴き声、外で遊ぶ子供の声、そしてモスキート音。

 パン。僕は顔の前で手を合わせた。別に某錬金術師を真似したわけではなく、蚊を叩こうとしたのだ。外したのかそれとも二匹目が近づいて来たのか、また蚊の鳴き声が耳元で聞こえる。彼らのしぶとさに呆れと感服が同時に浮かんでは消えた。

 暑い夏の台所で飲む麦茶ほど至高の飲み物は無い。しかしそのうち自分もそれが居酒屋で飲むビールに変わっていくのだろうと思う。世の大人達や親父がするように、ぷはぁ! と息を吐き口を拭う。

 冷蔵庫横の日めくりカレンダーに目をやる。日課であるカレンダーめくりをすると、カレンダーは今日が7月7日であることを知らせた。カレンダーの右下には「七夕」と赤文字で書かれている。

「そうか、もうそんな日か」

僕は一年と言う歳月の短さにほんの一瞬、呆然とした。そして去年の七夕の日に出会ったとある少女の事を、思い出していた。

「また、あの場所にあの子はいるのかな」

 ぽつりと言葉が零れる。けれど「あの場所」も「あの子」の顔もはっきりとは思い出せなかった。それだけ朧げな記憶だった。



「カレンダーと見つめあっちゃってどうしたの?」

「うわあ!……ってなんだ姉ちゃんか。なんでもないよ」

「ふぅん。まあいいや、いつものアイス買ってきてよ」

「え~? 外、暑いよ?」

「だからでしょ。お釣りあげるから、ほれ」

宙を舞った五百円玉を掴む。姉の言ういつもアイスとは、五百円では少し足りない箱型アイスである。何がお釣りはあげるから、だ。

モスキート音も聞こえない歳のくせに。と、小さくぼやいた。



 猛暑の中のコンビニやスーパーをオアシスに例えるのは、使い古された陳腐な例えだ。だからと言って代替案があるわけでも無いのだが。とにかくありきたりな言葉を使いたくないほど、僕はフロア全面にクーラーが利きまくったスーパーに感謝をした。心の中で。火照った体を冷やすために意味もなく店内を回る。

 目的のアイスと、ついでに自分用の棒アイスも買った。そしてスーパーを出るやいなや袋を開けアイスにかじりつく。海の中で酸素ボンベを吸うように、この猛暑の中を耐えるためアイスを食べながら家路を進んだ。もうすぐ夏休みが始まるのだと、照りつける日差しが教えてくれた。


チリン――


 スーパーから家までの距離が半分ほどになった頃。僕はふと鈴の音を聞いた。風鈴とも猫の鈴とも似つかないそれは、早く帰ろうと早足になっていた僕の足を止めた。どこからだろうか。周りを見渡す。左回りに首を動かし135°。

そこには赤い鳥居が、竹林の中へと続く道の入口に起立していた。林の中を覗き込むと、石畳の階段が長く続いている。終わりは見えない。

「ここにこんな道、あったかな」

 汗と共にまた言葉が零れた。しかし不思議に思う一方で、頭の片隅に隠れていたある記憶が鮮明に、走馬灯のように呼び起されていた。それはカレンダーを見ていた時に思い出していた、いつかの七夕の記憶だった。右手に痒みが走る。


 

 七夕という日は、祝日でもなければクリスマスのように人々が盛り上がるような日でもない。子供たちが短冊に願い事を書き笹に吊るして眺める。というだけの、なんともあっけない日である。そして子供達の願いも、大抵はあっけなく砕けてしまうのだ。

 そんな日が僕にとって特別な一日になったのは、主に七宮夕莉のせいである。



 足が重い。暑いからと休日は家でゴロゴロしていたツケが全身に回っている。竹林の中が思いのほか涼しいのがせめてもの救いであった。

ちなみにお遣いのアイスは姉に渡してからここに来ている。姉は僕のボヤキが聞こえていたようで「まだ聞こえるわよ」とだけ言って仕事部屋へ戻っていった。

 石畳の階段が長く続く。この竹林の先に、本当に七宮夕莉が居る保証なんてないし、本当にこの場所で合っているのかもわからない。けれどこの足を止める気はなかった。この衝動が彼女への好意なのか好奇心なのか、そんなことは分からないし、重要では無かった。

 階段を登りきると、円状に開けた広い空地に出た。周りは竹で覆われていて、空地にはエノコログサやメヒシバなんかの雑草が一面に生い茂っている。辺りを見回しても物らしい物はなく、ここだけ時代が違うような感覚さえ覚えた。たった1つ、空地の真ん中にでんと転がる石の上に腰を下ろす。空を見上げると、未だに太陽が我が物顔で浮かんでいた。けれど不思議と日差しの熱さを感じない。

 心が何度も、頷いた。この空気、この景色。間違いない。

 僕はここに、来たことがある

 記憶が確かになって行く中、ただ1つ不確かなことがあった。それは七宮夕莉が今年もこの場所に現れるという確証である。ほんの一瞬、七宮は来ないかもしれないという不安が僕の心を襲った。周りを見渡しても、雑草が生い茂っているだけであった。人が居るような気配はない。

いや、気配なんてなくて当然か。と心の中で自分にツッコミを入れる



「だってあの人、幽霊だし」



「なんか言った?」

 声が聞こえたのは、僕の頭の少し上。見上げると、一人の少女が手を後ろに組んで宙に浮きこちらを睨んでいた。色素が薄い肌に、か細い腕と脚、長い黒髪と白いワンピース。すぐにでも消えてなくなってしまいそうな儚さと弱々しさで、七宮夕莉は存在していた。

「お久しぶりです。七宮さん」

「あら、驚かないのね。去年は腰抜かしてたくせに」

 人の黒歴史を思い出して大笑いをする七宮は、去年と服装も体格も同じままで、やっぱり幽霊は歳を取らないんだな。なんて当たり前のことをぼんやりと思った。

「今年も成仏できなかったんですか?」

「そうね。今年で3周年よ」

「めでたいことではないですけどね」

 僕が軽くツッコむとまた七宮は大笑いした。去年も思ったけれどよく笑う人だ。こんなに元気そうにしていると、この人本当に幽霊なのか?と疑いたくなるが、浮いているし膝から下は消えているし彼女の肩の近くには漫画みたいな青白い人魂が浮かんでいるし、やはり紛れもなく幽霊なのだ。

「でもそうか。私生きていたら今頃18歳なのよね~」

 僕のことはお構いなしに、七宮は本来自分が送るはずだった人生を想像して楽しんでいた。去年訊いた事だが、彼女の死因は何者かにこの場所で強姦されそのまま絞殺されたのだそうだ。中々に辛い最期であるが本人は「生前の記憶はもう忘れたわ」と気にも留めなかった。

 しかし今もこうして成仏できていないのだから多少の恨みはあるのではないだろうか。それとも本当に恨んではいなくて、何か他の理由で成仏できないのだろうか。そもそも成仏だとかいう概念は生きている人達が作った紛い物で、人は皆成仏する事なくこの世に留まっているのかもしれない。僕は彼女以外の幽霊なんて見た事ないけれど。



「なに難しい顔してんのよ。折角会えたんだし楽しい話でもしましょう?夕弥くんはこの一年、何かあった?」

「特に何もないですね。寝て食って学校行ってました」

「もう!味気ないわね!私みたいに死んじゃった人達のためにも、楽しんで生きなきゃ。もうすぐ夏休みも始まるでしょ?どこかに旅行でもしてみたら?せめて友達とプール行くだけでも――」

 くどくどと年上に向かって(まあ死んでからの年月も含めると同い年だけれど)説教とお節介をする少女は、やはり幽霊のようには見えなかった。

 一通り七宮が話し終わると、僕は一言だけ呟いた。

「僕、今年受験生なんですけど」

「…………学生は勉強しなさい」

さっきと言ってることが真逆なのでは? とは言わなかった。



 その後も長々と僕と七宮夕莉は他愛もない会話を続けた。夏は落ちるのが遅い太陽も、もうすぐ沈もうとする時まで。

「だいぶ長く話しちゃったわね」

「そうですね」

「また来年も会いましょう」

「来年は成仏してくださいよ」

「……」「……」

「帰りますね」

  僕は七宮に背を向けた。背中の方向から声は聞こえなかった。僕は振り返らなかった。

 石階段を降り鳥居の前に着くと、既に日は沈みきっていた。少し肌寒い。暑いのは嫌いだが、寒いのもやはり嫌いだなと思う。僕は早足で家路を進んだ。






家路を進む途中。僕はふと思い出していた。

生前の彼女の肌触りを。胸の感触を。

右手に蚊が刺したような痒みが走った。



                ~完~

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痒み 桜井一樹 @Kusamari0420

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