第35話
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千々に千切れた心を引きずって、何とか喫茶ホリに帰りついた。血塗れのジャージ姿の俺に起こされた先生は、すぐに状況を理解してくれた。そしてまずは問答無用で俺とニイナを風呂に放り込み、先生自身はその間に火葬場に連絡。俺たちが風呂から出る頃にはニイナの姉は綺麗な白装束に身を包まれていた。そこから迎えに来てくれた車で火葬場に向かい、一時間後、ニイナの姉は灰となった。炎に弱い吸血鬼だったらしく、火葬はすぐに終わってしまい、骨はかけらも残らなかった。吸血鬼には吸血鬼の弔い方があると聞いたことがあるけれど、先生はニイナの姉を普通の人間として弔った。
ニイナは終始無言で、お別れの言葉も言わなかった。涙を流すこともなく、じっと姉だった灰を眺めていた。これまで以上に心ここに在らずと言った感じで、俺は直視することができなかった。
「心臓を半分握り潰したぁ!? あのねぇ、無茶は若者の専売特許だが、限度というものがあるよ。助かったから良いなんてことは一切無いからね! 君は勝てる賭けのつもりだったかもしれないが、私から言わせれば勝算の方がずっと低い! 今後は二度としないこと! 良いね!?」
火葬場から帰ってきて、今晩起こった全てを先生に話した。難しい顔をしながらも黙って聞いてくれていた先生だったけれど、俺の蛮勇については珍しく激怒してみせた。
先生が仰ることは百%正しいので、俺は甘んじてその後のお説教を受け続けた。先生は正論でがつがつ殴ってくるので、一分の反論の余地もない。そも、全て俺が悪いので、反論するつもりはないのだけれど。ただ、吸血鬼でも二時間正座していれば脚が痺れるんだなと頭の隅っこで考えていた。
「……私だって、融通を利かすことはできる。君一人が何もかも背負いこむ必要はないんだ。……私はそんなに頼りないかい?」
最後に言われたこの言葉が、一番キツかった。俺と先生は、いつ妹に異変があっても良いように、常にどちらかが喫茶ホリにいることにしている。だから今回ニイナに連れ出された時も、先生には何も言わなかった。それどころか、先生に気づかれないようこっそりと抜け出した。それはどう考えても失敗だったし、何より不誠実な行為だった。子供が深夜に外出するのに、保護者に何も言わなくて良いわけがない。それも戦闘になるかもしれない場所へと赴くのだ。一声かけるのは当たり前のことで、助けを求めるのが適切なことだった。
先生が居てくれたら、ニイナの姉は死なずに、俺が殺さずに済んだかもしれないのに。
「……疲れただろう。ゆっくり眠るといい。何なら薬を用意しよう」
「いえ、大丈夫です」
頭は痺れたようにじんじんするけれど、眠気はあった。衰弱した肉体は悲鳴を上げている。そして何より、俺の心が睡眠と言う名の時間稼ぎを、現実逃避を欲していた。
妹が眠る部屋に、俺の布団が敷かれている部屋に戻ってきた。時刻は明け方の五時。東の空が白み始め、気温が上がってきている。それでも、エアコンが良く仕事をしてくれていて、室内は涼しかった。
「おかえり」
静かにドアを閉めると、こちらに背を向けて眠っていた妹が、短く言った。その声が聞けただけで、俺は泣きそうになる。返す声が裏返ってしまった。
「……ただいま」
外であれだけ話をしていたのだ。目を覚ましていてもおかしくない。いや、もしかしたら妹はずっと起きていたのかもしれなかった。俺がこそこそ隠れてニイナと外に出て行くのも、実はお見通しだったのかもしれない。
「(て にぎっててあげよか)」
ごろりと寝返りをうった妹がスケッチブックを見せてくる。何度か書き直した跡のある文章は、不自然なカクつきがあった。
妹の目は眠たげにとろんとしている。やはりずっと起きていたらしい。今にも寝落ちしてしまいそうなのを一生懸命堪えている様子だ。
俺は右手を摩る。ニイナの姉を突き殺し、拳銃を撃った右手だ。風呂で必死になってタワシで磨いたけれど、まだ血に汚れた悍ましい何かが残っている気がした。二十六度の室内で、指先がかじかむ。手を伸ばそうとして、止め、また伸ばそうとし、とどまった。この右手は果たして温もりを求めて良いのか。罪のない吸血鬼を、哀れな人間を殺してからまだ数時間しか経っていないのに。
「(えんりょせんでいいよ)」
ゆっくり文字を書くと、妹は辛そうに笑った。ベットから降りて俺の正面に立つ。小さな手は肩を抑えてきて、半ば無理やり布団に寝かせられた。そこそこ値の張る敷布団は柔らかく、それを感じるだけて更に眠くなる。枕が頭の重みで沈み込んだ。
「(だいじょうぶ)」
「ぁ……」
知らないうちに流していた涙は、妹の指先がすくってくれた。
「おやすみ」
穏やかな声は、俺のどこかを癒し蕩かせて眠りにつかせた。優しく重ねられた手は、安心する温かさを伝えてくれた。感覚を無くすように意識が沈んでいった。
目を覚ますと、俺は一人、暗い世界に立っていた。周囲には何もなく、深い闇だけがあった。寒気とともに不安が押し寄せてくる。辺りを必死に見回し走り回って、やっと背後に光を見つけた。希望を見つけた気持ちで駆け寄る。けれど。
光の元では、たくさんの人や吸血鬼が並んでいた。タカハシさん、リョウコさん、リョウタくん、山田、篠原、ニイナの姉、頼仁。全員が全員、不吉な喪服を着て無表情に俺を見つめている。恐怖で鳥肌が立ち、俺はじりじりと後退った。彼らは何も喋ることなく、ただこちらを見ている。
堪えられなくなって、回れ右して逃げた。あそこにいたくなかった。その光景を見たくなかった。けれど、どんなに走っても彼らは追いかけてくる。彼らは歩いてもいないのに、距離は少しも広がらない。
「あ、あ、あぁ……!」
走り疲れて倒れ伏すと、音もなく四方を囲まれた。
「ち、違う! い、いや、やめて……くれ! 俺を、俺を……」
そんな目で、俺を。
頭を抱えて丸くなった。その時、
「え」
彼らは消えた。跡形もなければ、気配もない。空間にいるのは俺だけだった。安堵した俺は、震えながら深く深く息を吐いた。
瞬間、何かに足を掴まれ、崖下に引き摺り込まれた。
「ひっ!」
下から誰かが、笑いながら俺を凝視していた。それは、他の誰でもない、俺自身だった。
「来いよ」
俺は言う。
「こっちに来いよ。楽しいぜ」
楽しい、わけがない。楽しいなんて思えない。楽しんでは、いけないんだ。
それなのに、俺は俺に堕ちていく。重力に負けて下へ下へと。
「……ダメだよ」
落下の最中、そんな声が、聞こえてきた気がした。
「帰ってきて。お兄ちゃん」
見上げると、真っ白な誰かが、俺に手を伸ばしてくれていた。それが誰なのかはわからない。わからないけれど、俺はその手を掴みたかった。手を伸ばしたかった。いや、もう掴んでいた。
「……ん」
体温を感じる。
「……じん」
目が覚める時の独特な温もりが、そばにあった。
「ご主人」
「あ……」
「もう夕食です。皆さま待っておられます」
無機質な声の主は、無表情で俺を見下ろしていた。細い手が俺の肩を揺すっている。
「ニイナ……?」
「肯定します。私は……ニイナです」
「え、あ、は!?」
堪らず飛び起きた。さっきまでどんな夢を見ていたかなんて忘れ去り、状況を理解しようとしたけれど、低血圧で頭がくらくらする。視界が遠くなりかけながらも、口は疑問を叫ぶ。
「な、なんで!?」
「店長さまが、私を引き取ってくださいました。しばらくお店で働きます」
「あ……そ、そうなんだ」
胸にストンと来るものがあった。そうだった。先生が、困っている誰かを放っておくわけがない。どんな事情があろうとも、必ず手を差し伸べるのが、俺と妹の先生だ。
「夕食、ってことは、もう夜か……」
「肯定します。時刻は午後七時半です」
「かなり寝ちゃったな」
「店長さまが、食事をしないと身体が保たないと仰られておりました。ですので、私が起こしにきました」
そうなのか。まぁ、その通りだ。それに空腹感はある。大量に出血したせいもあってか、上手く力が入らない。立ち上がろうにも、足首が体重を支えてくれるか不安だった。
「ニイナは、大丈夫なのか?」
だから時間を置くために何か喋ろうとした。そして、気遣いのカケラもない一言になってしまった。口に出してしまってから失態に気がつく。俺は肩を跳ねさせると、恐る恐るニイナの顔をのぞきこんだ。彼女はやっと心を通わせられた姉を、喪った。想像すらできないような悲哀の渦中にいるはずだ。それをこんな無遠慮な言葉で問うてしまった。
けれど、ニイナは笑った。
「大丈夫です。姉さんは、笑って逝きました。それだけで、私は十分です」
真っ白な頬に、微かな赤みが浮かんだ。大きな瞳の目尻が垂れ、右頬に小さなえくぼが生まれる。ニイナが笑うなんて、俺にとっては衝撃的を通り越して爆発的な動揺なのだけれど。
不思議と、心に馴染んだ。
「……そうか。ニイナは、そうやって笑うのか」
「肯定します。私は笑います」
「……そうか」
笑ってくれるのか。そんな綺麗で澄んだ笑顔を見せてくれるのか。
それだけで、俺の心は破裂しそうなほどの喜びを覚えた。単純でわかりやすい感情だけれど、俺がやったことは、僅かでも誰かのためになったのかもしれない、そう思えた。
「なら、これからよろしくな」
「はい。不束者ですが、よろしくお願いします」
「それは何か違う気がするけ、ど……」
正座で三つ指をついたニイナに笑いがこみ上げてきた。やはり何か違和感がある。そう言う所も、これから調整していくのかな。ニイナがこの平和な世界に驚く度に、彼女は幸福を積み重ねていくのだろう。もし、許されるのであれば、俺もそんなニイナの隣にいられれば良いと思う。幸せを失った者同士、少しずつ新しい芽を育んでいきたい。
などと朗らかな気持ちで思っていた。けれど突然、隕石のようにボールペンが飛んできた。俺のでこにぶち当たったそれは布団の上に落ちる。
「あっ!!
軽いボールペンが、あんな水平に飛ぶのかよ。
患部をさすりながら顔を上げると、ニイナの背後で、真っ赤になった妹が仁王立ちしていた。口と拳をわなわなさせている。
「お兄ちゃん!」
何一つとしてわからない中、妹が激怒していることだけはわかった。妹はポケットから素早く別のボールペンを取り出すと、光の速度でスケッチブックに気持ちを書き殴る。
「(いつまでたってもこんから なにやっとるんかおもってよびにきてみたら ほんとになにやっとんの!!!!)」
全部ひらがななので非常にわかりにくい。しかも文字がかなり荒れ狂っているので、五割り増しで読みにくかった。ただ、怒っていることは痛いほど伝わってきた。
「ま、まて! ちょっと話をしてただけだ! なんで怒ってんだよ!」
「(みつゆびついて よろしくって)」
ニイナが音もなくそっと退室していった。彼女なりに危険を察知したらしい。
「っ! ……あほ!」
「あ、あほって……」
何故こんなにも怒っているのだろう。まるでわからない。内心首を傾げていると、ふとある事を思い付いた。俺は膝に手をつきながら立ち上がる。妹が目を吊り上げながら、ぐっとファイティングポーズを取った。けれど、気にせず無視して部屋の隅で目当ての物を探した。
「ナノカ。ちーず」
そして、手にした一眼レフで写真を撮った。口を半開きにした情け無い表情でファイティングポーズを取っている妹と言う、何とも意味不明な写真になった。
「ちょっ!」
怒ってる怒ってる。慌ててる慌ててる。面白いので、もう一度シャッターを切る。上目遣いで睨みつけてくる絵面は可愛いけれど、やはり面白さの方が強かった。妹は両手を振り回してジタバタしている。一眼レフを取り上げたいのだろうけれど、なにぶん高価な物なので、強引な行動に出れない。それを良いことに、俺は何枚も何枚も写真を撮った。俺の気がすむ頃には、妹は頬を膨らませてそっぽを向いてしまっていた。薄い胸の前で腕組みをしている。
「(なんやの)」
ふん! と言った感じでスケッチブックを見せてきた。
「いや、嬉しくてさ」
この気持ちを言葉にすることはできない。一番近いのが、「嬉しい」だと思う。俺は、俺の目の前に妹がいてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。
「わぷ」
言葉では伝えられないから、妹を抱き締めることで誤魔化した。俺の鎖骨に妹の鼻が当たる。鼻が高いのも困りものだな。
「……ずっと、一緒にいてくれ」
これからも。
「おーい。ハツカくん宛に荷物が届いてる、んだ、けど……」
先生が面倒くさそうに部屋をのぞいてきた。俺たちを見て目が点になっている。それはそうだ。こんな脈絡もなく兄妹で抱き合っていたら、誰でもそうなる。
「あ、えっと……お邪魔だったかい?」
妹は腕の中でゆでダコになって暴れていたけれど、俺は離さなかった。
「いえ、全然邪魔なんかじゃないです。むしろ、先生が来てくれて嬉しいんです」
「えぇ?」
「ナノカも、先生も、ニイナも。みんな一緒が、良いんです」
みんなで一緒に。さぁ、夕食を食べよう。俺はやっと妹を離した。妹は首筋に汗をかいている。それが吸血衝動を刺激するけれど、今は特に気にならなかった。
「あ。それで、届け物ってなんですか?」
「それが差出人不明なんだ。開けてみてくれ」
先生が抱える箱は一メートルくらい。かなり大きい割にはとても軽い。けれど、揺すっても音がしない。何やら厳重に保護されているらしい。
「なんだろ」
テープを剥がして中をのぞく。けれど、箱の中は暑苦しいくらい気泡緩衝材が詰め込まれていて、何が入っているのかまだわからない。それらを苦労して取り外すと、
「……っ!」
出てきたのは、真っ黒な籠手だった。左手の肘から胸の辺りまでをカバーするタイプで、昔の戦国武将とかが使っていそうな物。
俺の手は、吸い寄せられるように籠手へと伸びた。さらりとした材質は初めて触れる手触りだ。滑らかなのに丈夫そうで、硬い。それでいて重さが少しもないのだ。
俺はこの籠手に取り憑かれそうなほど見入ってしまった。完璧なまでに機能美を追求した美しさがあった。そしてそれは、どこか言い知れぬ禍々しさも放っている。
「な、んでしょうね」
「さぁ? 手紙は……入ってるね」
「「君が血を流しやすいように」」
どこかの誰かから、籠手が送られてきた。まるで意味がわからない。身に覚えもない。
「(ごはん)」
先生と疑問符を浮かべながら見つめ合っていると、妹がぬっと割り込んできた。どうやら妹にはこの籠手などどうでも良く、食事の方が優先度が高いらしい。
「まぁ、後で考えようか」
「そうですね」
一度目を離すと、籠手はすぅっと存在感を無くした。前を歩く妹に続いて、ダイニングにやってくる。そこでは、ニイナが姿勢を正して待っていた。今になって気づいたけれど、ニイナは制服姿だった。
「それじゃあ、食べようか」
「いただきます」
「(いただきます)」
「いただきます」
ニイナも自然に手を合わせた。食卓には魚や肉が美味しそうに盛り付けられている。今日は妹が作ってくれたらしい。ほとんど俺の好物ばかりだった。
四人とも、無理に会話をしようとはしなかった。言葉はないけれど、そこには言い知れぬ安心感があった。落ち着く食卓だった。楽しい食卓だった。
思い付くよりも自然に、俺は考えていた。俺もいつか、この魚や肉のように誰かに殺され、食べられるのだろう。それが十年後なのか、一年後なのか、それとも明日なのかはわからない。けれど、それがいつか必ず訪れると知っている。俺はきっと、俺じゃない誰かと闘い、敗れ、殺される。それは運命よりも強く定められていることだった。
けれど、だからこそ。
だからこそ、このひと時がこんなにも幸せだった。吸血鬼の世界と人間の世界の狭間を行ったり来たりする俺だ。けれど、こうして先生やニイナや、妹と食事ができるなら、俺はいつだって幸せのはずだ。
死に追われ、恐怖に蹲り、目を瞑り、耳を抑えたくもなるだろう。悪夢に苛まれ眠れない日もあるだろう。誰かを殺す瞬間もあるだろう。
それでも、今がこうして平和で穏やかであるなら、俺は何とか生きていけそうだ。
俺は、先生を、ニイナを、守る。
たった一人の妹、ナノカと共に生きていく。
俺の命が尽きるその時まで、俺はこの気持ちを忘れない。そして、みんなを守ることができなくなる現実を恨み、後悔し、嘆き。
最期には、みんなの幸せを願って死ぬんだ。
ナノカが幸せでありますように。
そう呟いて、殺されよう。
それだけが、俺がナノカにしてやれる唯一の愛だと思うから。
銀と妹と殺戮の吸血鬼 夏目りほ @natsumeriho
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