第34話




 ♢




「さて、何から話しましょうか」


 口では惚けたようなことを言いつつも、男に躊躇いはないようだった。不協和音のような声は楽しげで、喉奥の笑いを噛み殺していた。


「時系列に沿って話しますよ、男爵バロン。コレは、鬼狩りではありません」


 「コレ」の示すものが何かは苦労せずともわかった。ただ、画面の向こうの「兄」から出た言葉としては信じ難いものがあった。


「生まれた時に〈十字銀〉適応力テストをしましたが、適応率0.6%でした。鬼狩りになる才能が欠如していたのです」


「あ、兄上……?」


「これには困らされました。私の家は鬼狩りの家系。とは言え、祖父の代から始まった若い家系です。その三代目の次男が鬼狩り適正無しなんて、周囲に説明できません。だから、私と父は、その事実を隠しました」


 語られているのは、胸が疼くような話だった。もうオチが読めてしまった俺は、端で聞いているのも嫌になってくる。ならば、「これ」と呼ばれた男は脂汗が滲むのを抑えられないだろう。そう思って視線をやったけれど、男はまだ何が話されているのか理解していないようだった。それは、無理やり理解を拒んでいるようにも見えた。


「苦肉の策で、コレや周囲には秘匿して育て、何とか誤魔化してきました。まぁ、私が随分と面倒をかけられていたのですが。しかし更に困ったことに、コレは鬼狩りになるために〈鬼狩養成校アカデミー〉に通いたいと言い出したのです」


 「コレ」は兄を尊敬し、兄に憧れ、鬼狩りを志した。けれど、成れるはずもない。〈十字銀〉適正は先天的な才能であり、どんなに努力しようとも、後から適応率が上がることはない。世界は広いけれど、この法則に例外はない。


「無理だと打ち明けれれば良かったのでしょう。ですが私の優しさは、無邪気に笑うコレを無下にはできなかったのです。そうして、コレに私の〈十字銀〉を貸し出し、偽装し、代わりに制御するようになったのです。おかげで私は〈十字銀〉の扱いが随分と上手くなりました。また、コレとの距離が離れてしまった時用に、〈十字銀〉制御のプログラムを作りもしましたね。感謝などしてはいませんが、そちらは良い勉強になりました」


 俺は兄の披歴する話に衝撃を受けていた。〈十字銀〉をプログラムなんかで操れるなんて、前代未聞だ。けれど、そんな巫山戯た技術のせいで、本来無かったはずの歪みと不幸を呼び寄せ、ニイナたちを巻き込んだ。


「ま、待っへください兄上! 僕は、僕は兄上のたえに!」


「……」


 男が叫んだ。けれど、兄は無言だった。聞いていない。取り合っていない。兄は一度として男の名前を呼んでいないし、そもそも、この語りもテン・シナリスに向けられたものだ。男の顔から精気がみるみる無くなっていく。俺に殴られて腫れた顔が青白くなっていた。空中のテン・シナリスが持つノートパソコンに擦り寄っていくが、一メートルも進めていない。


「とうとう、コレは〈鬼狩養成校アカデミー〉を卒業してしまうところまで行きました。これはもう、誤魔化しきれません。下級や中級の吸血鬼ならば、仕えていた少女たちの優秀さで何とかなるでしょう。しかし、それ以上の吸血鬼との戦闘になると、まず無理です。必ず、コレに鬼狩り適正がないことが明るみになってしまいます」


 兄は男の話なんて聞かない。自由にどんどん先へと進める。饒舌な語り口は、久し振りに喋る楽しさを満喫しているかのようだった。俺の立っている場所からはノートパソコンの画面は見えない。おそらくテン・シナリスが意図的にそうしている。理由はわからないけれど、それは兄にも俺にも都合の良いことだった。


「もう、コレの暴走は見過ごせません。ですから、死んでもらいましょう」


 死んでもらいましょう。酸素のように軽やかで爽やかな死刑宣告だった。使い捨ての道具を無感情に捨てる時と酷似している。そしてその計画に、俺は良いように組み込まれていた。俺はこの瞬間、男が喫茶ホリに来た時のことを思い出した。確か、兄に紹介されて尋ねてきたと言っていた。テン・シナリスと兄は始めから、俺と男を闘わせるつもりだったのだ。全ては男を秘密裏に殺すためだけに仕組まれたことだった。

 寒気がするほど陰湿、そして、綿密な計画だった。まだ自分の置かれた状況が信じられない男は、鼻水と涎を垂らしながら身を捩る。男の人生は、一つとして生産性がなかった。成してきた全ての行いは、ただ疎まれ迷惑がられていただけだった。最も尊敬する兄から、素粒子ほども求められていなかった。


 それでも、男はまだ叫ぶ。狂ってしまいそうな現実世界で、男は僅かに残った矜持を振り絞る。


「あ、兄上っ! ぼ、僕あ必ず、兄上のお役に立っえ見せます! だからどうか、機会をっ! あと一度だけ機会をっ!!」


「……」


 けれど最後まで、兄は何も言わなかった。きっと、目を向けることすらしていないのだろう。世界に存在していることすら気づいていないのだろう。意識的にそうしているのではなく、無意識的に、取り扱いを止めている。

 俺は男の家庭が持つ本当の歪みを知った。ニイナたちの関係も異常だった。けれど、男と兄の関係はもっと醜悪だ。いや、不気味だと言うべきか。家族という誰よりも深い関係性なのに、関係していなかった。男と兄、両者の心は生糸一本分も繋がっていなかった。


「それでは男爵バロン。ご要望の品は明日にもお届けしますよ」


「うん、ありがとう。あとはこっちでやっとくよ」


「はい。あ、そうそう」


 口の端が無くなったような声が、初めて俺に向けられた。


「そこのどなたかわからない、あなた。コレの〈十字銀〉の硬度は下げてありますから、簡単に壊れますよ。ま、壊してどうするかはお好きに」


 そして、別れの挨拶もなく通信が切れた。聞こえないはずのブツリという音が夜の公園に響いた気がした。


「そ……そ、んな……僕は、僕は……僕は、兄上のために……ずっと兄上の……」


 呆けてしまったかのように独り言を呟き続ける男。生温かい夜風が土埃を上げ、男の制服を汚していく。これ以上ないほど惨めだった。


「おい」


 そして俺は、その光景が愉快なものに思えて仕方なかった。普段なら、そんなことはあり得ないはずだ。例え相手が誰であろうと、ここまで哀れな姿を見せられれば、安っぽい同情を覚えてしまうはずだ。けれど、今は違う。嗤いが腹の底から膨らんできて、堪えるのが大変だった。それでも、頭の隅の誰かが、必死で喉元で押し留めてくれていた。


「兄上のために、って言うなら、ここで死ぬべきだぞ」


 口は動く。こんなにも嬉しそうに。


「お前は生きているだけで迷惑になる。邪魔になる。足を引っ張る。だったらもう、できることは一つしかないじゃないか」


 俺の唇の端が吊り上がった。瞳は残酷な光に煌めいていた。


「死ぬことだ。ここで誰にも知られず死ぬことだ。マイナスにしかならない己を廃棄して、プラスマイナス零にするしかない。いや、これまでの人生のマイナス分があるから、零にもならないか!」



 ははははは!!



 爆発してしまった。誰かを嗤ったのは、初めてだった。


 俺は一体どうして、何故こんなことを……



「ねぇ」


 その時、テン・シナリスが軽い口調で話しかけてきた。それは、俺にとって最後の、救いだった。


「君も『こっち』に来るの?」


「は?」


「だから、吸血鬼の世界に呑まれるのかってことだよ」


「……何だよそれ」


 軽く肩をすくめるテン・シナリス。


「わからない? じゃあ丁寧に言ってあげるね。もう抵抗できない弱者を嬲るその行為、その男が女の子たちにしてきたことと、何が違うの?」


 突然、瞳に写る景色が色を無くした。白黒の景色が、割れたガラスのように崩れ落ちていく。


「弱い者を犯す、侵す、嬲る、甚振る、殺す。それは強者の権利で義務だ。けどそれって、僕ら吸血鬼の理屈だよ。君はそれを、憎んでいたんじゃないの? そう言う世界から妹ちゃんを守りたくて闘ってたんじゃ、ないの?」


「え、あ、あ……」


「君は途中から闘いを楽しんでいたよね。吸血鬼の破壊衝動に負けてさ。だから、姉を殺すことを選択した。妹の方を助けたくて姉を殺したけれど、どちらも助ける方法は本当に無かったのかな? いつもの君なら、もう少し頑張れなかったのかな? だって君は、姉妹よりずっと強かったんだから」


 俺の心は自分の中に生まれた、正体不明の異物を拒絶した。その反動で嘔吐したけれど、俺の精神をギリギリ保つにはどうしても必要なことだった。瞬間的な胃液の逆流が喉を灼き、呼吸器へと入り込む。息ができなくなって、口を抑えてうずくまった。吐瀉物が喉に詰まって取れない。けれど、一度大きく咳き込んだことで全てを吐き切れた。酸っぱい匂いが鼻孔から口内に戻ってくる。

 それでも、荒れ果てた呼吸は戻らない。ぜー、ぜー、と言いながら、ひたすらに酸素を肺に取り込む。取り込んでも取り込んでも足りない。真っ白になった視界は馬鹿みたいだった。


「『こっち』に来るなら来て良いよ。もてなしはできないけど、お茶くらいは出してあげる。でもそれは、血を煮出した赤いお茶だよ。僕らはよく飲むんだ」


 今のテン・シナリスには、これまでのような胡散臭さはなかった。妙に淡々としていて、それがより強く、俺の醜さを意識させる。わざとそうしているなら流石としか言いようがない。テン・シナリスの言葉は俺の毛細血管に染み込み、頭頂から指の先まで蝕んでいく。

 胸をかきむしった右手を、初めて見つめた。それは、赤黒く変色しかけた血で濡れていた。姉を殺し、男を殴った血だ。つい先程まで、俺はこの血を素晴らしいものだと勘違いしていた。悪の流した血だと勘違いしていた。


 けれど、向こうのニイナたちを見る。そこにいたのは、健気に生きていた女の子たちだった。もしかしたら、これから幸せを享受できたかもしれない女の子たちだった。

 身動きすらしない男を見る。こんなにも失意し絶望した男を、これ以上攻撃する必要などなかった。ひと思いに楽にしてやればそれで良かった。


「う、うあ"あ"!」


「ほら」


 頭から頬までを爪で引っ掻く俺に、テン・シナリスがある物を放ってきた。鈍く輝く回転式拳銃だった。シングルアクションの撃鉄はあげられ、引き金さえ引けばいつでも弾を撃てる状態。


「使いなよ。弾は一発だ」


「……」


 拳銃を拾った俺は、雑巾のようになっている男の前に立つ。口を拭って、ガラガラ声で喋った。


「……俺も、すぐ追いつく。待ってる必要はないけど……いや、それだけだ」


 それは直ぐ明日のことかもしれない。男が聞いているかどうかはわからなかったけれど、口をついて出た言葉だった。

 男の目は死んでいる。俺が拳銃を使わなくとも、とっくに死んでいた。けれどそれは建前で、目を背けられない現実がある。俺が、これからこの男を殺すのだ。


 その時、男が小さく言った。


「妹は、四十代の女の血が飲めない」


「っ!」


 グラウンドに右頬を預ける男は、怠そうに目を閉じ、そしてまた開けた。

 俺は返す言葉すら持たないまま、至近距離で引き金を引いた。発砲音のない、特別な仕掛けがされている拳銃だった。弾丸は男の頭を無音で撃ち抜いた。男は一度びくりと跳ねた後、二度と動かなくなった。人生初めて拳銃を手にし、撃ち、人を殺した。


 凪いだ空気は、この瞬間が何の意味もないことを知っている。男から流れる血が、俺のスニーカーにまで届いた。


「はい、お疲れさま。ソレの処理はこっちでやっとくよ。君はまたいつも通りシスコンしてれば良いさ」


 パン、と呑気に手を叩いたテン・シナリスは、羽根を折り畳んで降りてきた。すれ違いざまに俺の手から拳銃を取る。そして、


「ようこそ」


 耳元で血塗られた言葉を囁いた。


 俺はそこから逃げ出し、ふらつきながらニイナたちの方へ歩く。彼女たちを遠く感じた理由がわかった。だから、またその世界に戻るため、俺は必死で歩いた。彼女たちまでの距離は、現実的には短くなっていくけれど、存在的には遠くなっていく気がした。そして、ニイナの静かな吐息が聞こえるまで、自分が彼女たちの側まで来ていることに気づかなかった。


「ニ……」


 声をかけようとした。


 けれど、なんて? 俺は何を言えば良い? どんな言葉なら喋ることが許される?


 猥雑になっていく頭で必死に言葉を探していた。すると、ニイナがそっと顔を上げた。その瞳には確かな意思があった。ニイナから俺に話しかけてきた。


「あなたのおかげで、姉さんは救われました。お礼を言います」


「……やめてくれ」


「拒否します。姉さんは、あなたが救ってくれました。救ってくれたのです」


 俺の心が「救う」という言葉に反応した。俺はまだ、姉妹が暮らす世界に帰れていない。【色彩のない断絶空間ビビット・トイルーム】が、まだそこにあった。


「……お願いがあります。どうか、姉さんを、弔わせてください。それが終われば、私は消えますから」


 無機質さが少し薄れたニイナの言葉遣いと懇願が、俺の胸に溜まっていった。俺は深呼吸をして、目を瞑った。


「とりあえず、帰ろう」


 帰ろう。まだ俺の居場所があるのなら。





 ♢


 ♢





 パソコンの電源を落とした男は、首を横に振って疲れをほぐした。何日も徹夜し、ずっと同じ姿勢でパソコンに噛り付いていたから、全身が石のようになっていた。


「さて、最後のチェックをしておきましょうか」


 男が一から設計し、素材を集め組み上げた黒い籠手を眺める。飾りっ気のない無機質な色合いは、完全であることの美しさを有していた。男が作った武具の中で、まず間違いなく最高級の傑作だった。


「ふぅ、我ながら良い仕事をしました。あ」


 これはもう要りませんね。男はそう言って車椅子から立ち上がる。二年間付き合ってきた乗り物には愛着があった。それを、長い右脚で蹴り飛ばした。ガシャン、というありきたりな音を鳴らして車椅子が横に倒れる。


「やっと下らないシガラミから解放される」


 男は携帯電話を取り出した。たった一人にしか繋がらない特別使用の携帯電話だ。

 無感情な呼び出し音が鳴る。一回目、二回目、三回目。そして。




 ♢

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