第33話
♢
こうなるのではと、どこか頭の隅で思っていた。いや、知っていた。必ず、必ずニイナの姉は、身を呈してニイナを庇うことを、俺は知っていた。
けれど、俺はそこまでわかった上で、この戦法を止めなかった。他にあるいくつかの中から選択して、決行した。
何故かと問われても、上手く言葉にできない。一番確実だったからか、それとも一番早期決着を望めたからか。俺は俺の思考を説明できない。ただ確かなのは、姉が死ぬすら俺は計算に入れていたのだ。
俺はニイナの姉の心臓を、背中から貫いていた。握り締めた拳は肋骨など容易く突き破り、筋肉を引き裂き、心臓を破壊して、豊かな胸から突き出させている。俺の右頬に体温を残した鮮血が飛び散る。そして俺の指先は、ニイナの首枷に届き、微塵に砕いていた。
「あ……」
ニイナの銀の制服が、姉の血で染まる。ニイナの銀の髪が、赤の斑をいくつも作る。それは、翼を持つ天使が地獄の血の池に舞い降りるような、聖と邪、相反するものがごった混ぜにされているような光景だった。この光景を表現する言葉を、俺は一つしか知らない。美しい。ニイナの描く色彩はそう、途方もなく美しかった。
「あ……あぁ……! あぁあ……!!」
戦場で初めてニイナが喋った。意味を持たないうわ言だったけれど、直ぐに叫びへと変わっていく。その瞳には、大量に吐血しながら倒れる姉の姿が映り込んでいる。
崩れゆく姉を、ニイナが抱き止めた。尻餅をついた彼女は、そのままへたり込む。姉の胸から溢れ出る血が妹を濡らし、グラウンドに広がっていく。
「……姉さん」
姉を、姉として呼んだ。無機質な番号ではない。血の通った家族として。姉妹として。ニイナを縛る鎖は、すでに断ち切られている。
俺は無言で二人を見下ろしていた。ずるりと引き抜いた右腕は真紅。俺の手によって心臓を貫かれた姉は、もうほとんど呼吸ができていないようだった。
俺が、殺した。
「……やっ、と。姉さん、てよん、でくれ、た……ね」
けれど、ニイナの姉はまだ息があった。ニイナに抱き抱えられながら、弱くか細い声を紡いでいた。囁き声は喜びを孕んでいたけれど、それ以上に虚しさがあった。
「もう……しん、じゃうけど……」
姉の命はあと幾ばくもない。彼女は、ついに望むものを手に入れられなかった。ニイナを愛し、その身を捧げて守ってきたけれど、報われることはなかった。いや、命が途切れるまでのこの数秒間は、報われているのかもしれない。けれど、それで、それだけで何になるのか。ニイナの姉の苦しみは、こんな一瞬で帳消しになるものではない。こんな形が、救いになるわけがない。
体温を零度へと近づけていく二人を見ながら、俺は迷っていた。真実を伝えるべきかどうかを。ニイナの姉を殺した俺が、果たしてそんなセリフを口に出して良いのか。それは酷く見苦しくて残酷なことだった。気休めにすらならない。
けれど、今伝えなければ、俺は死ぬまで後悔する。伝えることの怖ろしさよりも、伝えないことの怖ろしさの方が強かった。
俺はいつだって、俺のことしか考えていない。
「……あなたの妹があなたと会話できなかったのは、あの男に命令されてたからです」
「……」
「あなたの妹は、あなたのことを……」
言いかけて、止めた。ここから先を、俺が言ってはいけない。それでは何の意味もない。だからニイナに目を向けた。放心しかけている彼女が、きちんと話ができるように。
「……思い、つかない」
けれど、ニイナの声は消え入りそうに震えていた。彼女は自らの内に「何も無い」ことに絶望していた。鍵盤を左からなぞるように少しずつ感情を暴発させていく。
「何も、思いつかない……! 伝えたいこと、聞いて欲しいこと、あんなに……あんなに沢山あったのに……!!」
声を閉ざされていた二年間で、ニイナの言葉は磨り減り、風化してしまっていた。彼女の心は空虚に隙間穴を空け、乾いた風を通している。夏の夜風はこんなにも湿っているのに、ニイナの唇はどんどん乾いていく。
ニイナは動揺し、焦り、怯える。この最期の最期の瞬間に、何も出てこない。彼女に残されていたのは、膨大な涙だけで、想いが無かった。失っていた。喪っていた。首を振って震えを誤魔化すようにしていても、ニイナの言葉は出てこない。
「……姉さん、姉さん、姉さん!」
名前すら、無くしてしまっていた。
けれど。
「だいじょうぶ」
姉が静かに言った。
「おちつ、いて? ゆっくり、ゆっくり」
もう、命は尽きかけている。ニイナの姉に時間など無かった。けれど、彼女は海のようにニイナを抱き締め、見上げていた。
小指の先から雫を落とすような、弱々しい励ましだった。けれど、それは。それはきっと、ニイナの心に届いた。枯れていた心が一つだけ、最も強い想いを一つだけ、奇跡的に芽吹かせた。
「姉さん……!」
「ん……?」
「姉さん……大好き……」
言いたくて言いたくて、ずっと言えなかったこと。その一言が、涙と共に溢れた。沢山の言葉の中で、最も伝えたかったこと。何よりも聞いて欲しかったこと。
死の間際、妹の想いに触れた姉は、少しだけ瞳を大きくして、
「えへ……えへへ……」
照れくさそうに、はにかんだ。まるで小さな子供が褒められて喜ぶかのように。目元に溜まった水晶の涙は、音もなく流れ落ちる。
「私、生きてて……よかったぁ……」
満足感を噛み締めるように呟いて、ニイナの姉は、瞳を閉じた。遺された笑みはどこまでも穏やかで、もう虚しさは無かった。
力を無くし落ち行く姉の手を、ニイナが支えた。もう握り返されることのない手を繋ぎとめていた。それは、二年越しの触れ合いで、もう二度と叶わない。姉妹のひと時が今、終わった。
この結末を作った張本人である俺は、ニイナたちを黙って見ていた。傍観していた。それ以外できることが無かった。せめて目を逸らさないこと、目に焼き付けることからだけは逃げないよう、必死で目を凝らしていた。
二年前から姉妹の運命は狂ってしまった。それは今、最悪に近い形で終了した。終わらせたのは、他でもない俺だ。
またしても俺は、己の命を優先し、他者の命を奪った。脳が痺れるような罪悪感があったけれど、今はそれを押し殺す。考えないように頭を振る。血に塗れた手で、髪を掻き毟る。
「……」
俺は、無言でこちらを見ている男に振り向いた。とっくに逃げているかと思ったけれど、男はそこにいた。何故か一言も発することなく、妙に静かな表情で、ニイナたちを見ていた。
「死んだか」
そして、平坦な口調でそう言った。悲しみも怒りもない。けれど、侮蔑も嘲笑もなかった。事実だけを確認するような口調だった。
「とうとう、何の役にも立たない雑魚だったな。まぁ良い。別の吸血鬼を用意するさ。そこの人形ももう要らないか」
「……次があると思ってるのか?」
けれど、男は喋るごとにらしさを取り戻していき、直ぐに元の高慢でカンに触る存在になった。
「馬鹿め。あるに決まってるだろう。僕はエリートだぞ。そんな雑魚の力なんか使わなくても、お前なんかすぐに殺せる」
どこからその自信が湧いてくるのか甚だ疑問だった。ハッタリではなく本気で思っているらしいところが特に。俺はニイナたちを隠すように男に近づく。
「そう言えば、僕がこの言葉を使うのは初めてだな。光栄に思えよ」
男が右手を掲げる。
「〈
それは、鬼狩りの合図。これから命の奪い合いをするのだと言う覚悟の言葉。この星で何千億回以上も唱えられてきたであろう無情の調べ。一度叫べば、鬼狩りは〈十字銀〉の加護を存分に受けて闘うことができる。彼らの切り札で、誇りだ。
男には、何も起きなかった。
「……は?」
「……」
俺は進む。着実に両者の距離が縮まっていく。
「〈
何も起きない。
「く、〈
何度叫ぼうと、男に加護は下らない。この世界の何一つとして変わらない。ただ、俺との距離が無くなっていくだけだ。そしてとうとう、俺の右手は男の胸ぐらを締め上げていた。
「な、な……何でっ!? どう言う!? どうして何も起こらないっ!?」
「知るか」
「ぐぇ!!」
暴れる男の顔面を殴った。本気ではない。失神することなく痛みを感じれる程度に殴った。俺にとってはすでに難しいことではなかった。
グラウンドに転がる男を再び持ち上げ、殴った。男の歯が数本飛ぶ。
「な! や、え、待へっ! 待てぇ!!」
「なぜ?」
「ま、待ってくれ、おかしい! 少しだけマあ"っ!?」
気にせず殴る。たったの三発だったけれど、男の顔は面白いように腫れ上がった。ビクビクと痙攣する男を拾い上げ、殴る。これを数回繰り返した。その頃には男はまるで違ったことを言い始めた。
「み、みの、見逃してくえ! たのむっ! 何でぉする! 何うぇもすふから!」
男は跪きながら手を振る。両手を上げる。銀のベストに鼻血が飛び散り、ズボンは土で茶色くなる。這いずる力も無くした男が、呂律の回らくなった声で許しを乞うてきた。
「お前のこぉはだぁっておく! 誰にも言ぁない! そ、それとも金か!? ち、ち、血か!? 奴隷かっ!?」
「もう、黙れ……」
怒りなのか哀しさなのかわからない感情を吐き出すように、男の顔面を蹴り上げた。俺の心は萎えたはずなのに、蹴りの威力は弱まっていなかった。断末魔に近い悲鳴を漏らしながら男は転がる。受け身すら取れないらしく、左脚が折れていた。もう、逃げることはできない。
苦鳴を上げるだけの肉塊となった男を、無抵抗で無力な男を、俺は踏みつける。妹と買いに行ったスニーカーの踵で、踏み続ける。先生から借りたジャージに、男の血がこびり付く。
鳩尾を蹴ったら、男は吐いた。血と胃液まじりの嘔吐物。ジャージの裾にかかることは避けた。汚い。悍ましい。見苦しい。
けれど、俺の心は高揚していた。男を見下ろすことがこの上もなく愉しかった。もしかしたら、人生で一番愉しい瞬間かもしれない。次はどこの骨を蹴り折ってやろうかと思ったその時、背後から声がした。
「はーい、ストップストップ」
振り返らなくても誰だかわかる。この人を小馬鹿にしたような、胡散臭い声。二度と会いたくないのに、それは不可能な男。仕方なく振り返ると、そいつは、星を背に夜空に浮かんでいた。羽毛のない、黒い膜の貼った翼を生やし、楽しげに飛んでいる。降りてくることはない。大きなカバンを肩にかけていた。
〈飛行〉を持つ吸血鬼だったのか。
「……なんだよ、テン・シナリス。邪魔するな」
「まぁそう言わずに、さ。五分だけ時間ちょうだい?」
俺は不満を隠さなかったけれど、文句は言わなかった。舌打ちをして道を開けた。靴底をグラウンドに擦り付けながら、何をするのかを見守る。
ふと目をやると、ニイナは姉を抱き締めながら、姉の胸に顔を埋めていた。そこだけ時間が止まったかのようで、俺たちとは別世界の光景のようだった。距離にすれば五十メートル程度しかないのに、何故こんなにも遠く感じるのか。
まぁ、良いか。
「弟くん、弟くん。君に大切なメッセージがあるんだよ」
「は……?」
男は、グラウンドを舐めながらも、最後の希望に縋る目をする。そんなものは無いと言うのに。テン・シナリスが、誰かを助けるなんてことはあり得ない。何故だが確信を持ってそう思える。今の俺は、〈
俺の自問など関係なしに、テン・シナリスはカバンを開け、ノートパソコンを取り出した。そんなものを何に使うつもりなのか。俺からは画面が見えない拡大だった。
「君が誰よりも尊敬している兄上からの、ありがたーい、お言葉さ」
胡散臭い
「流石ですね。滞りなく進んでいるようで安心しましたよ」
どこか違和感のある低い声がパソコンから聞こえてきた。落ち着いた声音をしていて、それだけで深い知性を感じさせる。
「さて、何から話しましょうか」
その声は、まるで唇の半分がないかのように突っかかり、引き攣っていた。
♢
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