第32話



 ♢




 痛みに踠き苦しむ姉を、俺は付かず離れずの距離から観察していた。気分の良いものではなかったが、まだ戦闘を続行できるかどうかを確かめなくてはならない。

 彼女の制服は至るところが破れ、白すぎる不健康な肌を晒していた。回復力は高くないらしく、いくつもの傷痕が生々しく残る。全て俺がつけたものだった。


 それでも姉は膝に手を突きながら立ち上がった。瞳の光は弱々しかったが、諦めの色はない。と言うより、逃げたくても逃げられない、闘うしか残されていないのだろう。彼女は操られているから。戦闘のどこまでをあの男に握られているかはわからないが、敗北も逃走も始めから存在しない。

 だが、俺はそんな相手に勝たなくてはならなかった。俺のために。俺の護りたいもののために。


 事情は違えど、お互い譲れない。それこそが戦場だった。正義でも悪でもない。勝った負けた、殺し殺されただけが真実で、現実だ。


「う……ぐ、うぅ……!」


 苦鳴を漏らしながら姉が突進してくる。紛れもない捨て身だった。その中で、ある異変に俺は気づいた。

 姉の禍々しい首枷が、彼女を苦しめている首枷が、小さな亀裂を作っているのだ。


 そんなのあり得ない。あの首枷は〈十字銀〉だ。地球上で最高の物体であるはずの〈十字銀〉には、どんな小さな傷もつくはずがない。おそらく、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉である妹だけが〈十字銀〉を上回れるだろう。だが言うまでもなく、俺は妹の眷族でしかない。いかに身体能力を向上させようと、俺の攻撃で〈十字銀〉に傷をつけることなど不可能だ。

 そこまで思考して、俺は先生の言葉を思い出す。「あの〈十字銀〉はおかしい」。


「えっ!?」


 突進してくる姉を無視して、俺はグラウンドに駆け戻った。


 右手に男、左手にニイナ。二人の距離は五十メートルほど。何故俺がいなくなった状態でもその陣形を維持しているのかは謎だ。だが、そんなことはどうでも良い。俺は男を標的に定める。と言うより、始めからずっとそのつもりだった。ニイナや姉には何の罪も恨みもない。男を仕留めてしまえば、万事解決する。最初は姉に殺されないようにするのに手一杯だっただけだ。

 だが、今はその心配もない。気をつけるのはニイナだけ。俺の拳が男の顔面を襲う。その時、


「僕」


 男が呟いた。


「っ! は!?」


 拳が男の直前で弾かれた。そこには何もないはずなのに、怖ろしく硬い何かがあった。衝撃で身体が後方へと飛ぶ。男に叩き込まんとした力が反射し、拳が手首までめりこむ。痛みよりも驚きの方が大きい。

 瞬時に態勢を立て直し、もう一度、今度は全く別の角度から蹴りを放つ。だが、それも見えない壁に阻まれた。男のニヤニヤ笑いがすぐそこにあるのに、届かない。再度拳を振り上げた時には、背後から姉の攻撃に遭った。同時に視覚と聴覚を奪われるが、俺の肌は姉が動くことで生まれる空気の微振動を感じ取っている。


 俺は一旦引いた。あの防御は、絶対にニイナの【ブラッド】だ。どんな絡繰かはわからない。だから今は姉の攻撃を躱すことに思考を割く。

 姉がフェイントを交えつつ襲いかかってくる。右から左から。全て紙一重で躱し、前蹴りで膝が伸びきった瞬間を狙い一歩踏み込む。もう一度腹に拳をかます。骨で守られていない鳩尾に、拳が文字通り深々と突き刺さった。生温かい内臓と血の感触が……気持ち良い。中で拳を捻ると小腸だか大腸だかが巻き付いてくる。


 ここで【孤独の誘いブラック・ドア】が解除された。おそらく、敵の一つの感覚を奪える時間は五秒、二つは三秒だ。今回はまだ一秒程度しか経過していない。姉が致命的な傷を負えば時間に関係なく解除されるのだろう。

 俺は、姉が血を吐き倒れていくのを横目で確認する。少しばかり不完全燃焼感があった。もう、姉は相手にならない。面白くない。


 もう姉の【孤独の誘いブラック・ドア】は完全に攻略した。ここから隠しダネが出てくる期待もできない。なら、ニイナしかいない。ニイナの【ブラッド】はまだわからない。だから興奮した。沸き立った。これからどんな闘いができるのか。

 俺は再び男を狙う。男は不満顔だった。流石にこいつでも、姉では俺に勝てないことがわかったのだろう。だが、やはり逃げようとはしなかった。腕を組んで立ったままだ。


 俺の全力の攻撃は、またも弾かれた。衝撃で右上腕の骨が肩から突き出した。痛いと叫ぶのも馬鹿らしくなってくる。これだけの威力を持ってしても、男の半径一メートル以内に侵入できない。男の余裕ぶった笑みが癪に触る。即座に回復した右手で攻撃。これも俺が傷つくだけに終わった。

 そんな俺を見下しながら、男は俺に背を向けた。ガニ股でゆっくりと歩き、ベンチにどかりと腰を下ろした。その間俺はずっと攻撃を繰り返しているが、不可視の盾の前に意味をなさない。


「ちっ……」


 俺は諦めた。このままだと時間だけを浪費するし、そろそろ全身の痛みで心が折れそうだ。ニイナの【ブラッド】を解き明かさないことには話が進まない。なら、まずはニイナを攻撃すべきだ。

 そう判断した俺が反転し、ニイナに向けて疾走を始めた時。


「お前」


 男が小さく小さく呟いた。普通なら絶対に聞こえない音量だったが、俺の耳には届く。


「らあっ!」


 姉が重傷を負って倒れようとも、ニイナの表情は動かない。助けようとしない。心配する様子すらない。この戦場で、ニイナだけが別空間にいるかのようだった。だが彼女はとても、小さく小さく見える。この戦闘の間も、どんどん心を閉ざしているのか。

 俺は考えも無く特攻した。男と同じように、直前で弾かれる。今度は横から、背後から、上から。ありとあらゆる角度と速度から攻撃を仕掛け続ける。その全てが俺の自滅に終わった。もう痛すぎてどこが痛いのかもわからない。だが、それが不思議と楽しかった。


 それに、わかってきたこともある。どうやら、ニイナは球体状の盾に周囲を守られている。その強度は凄まじく、俺では突破できそうにない。例え身体強化の倍率を上げたとしても無理だろう。このままでは、一生不可視の盾を殴り続けることになる。だが、当然そんなことは不可能だ。朝になれば島民に見つかるし、他の鬼狩りを呼ばれる。そうなれば勝ち目は極微になるし、何より面が割れる。その場を何とか切り抜けたとしても、〈銀華〉にはいられなくなってしまう。吸血鬼はいつだって、人目のない夜に行動しなくてはならないのだ。

 男もそれがわかっている。だから、奴自身(ニイナたち)の力で俺を捕らえれなくても、長引かせさえすれば勝てるのだ。奴の不満顔はそれだ。勝てるのはわかっているが、男の望んだ圧倒的勝利は得られない。


 だがそれでも、俺は無意味な特攻を執拗に続けた。身体は破壊と再生を繰り返す。治癒能力が高すぎて破壊された途端に再生するので、出血量が増えることもない。心置きなく道化になれた。俺が馬鹿みたいに闘い続ければ、必ずあの迂闊な男が味方してくれると信じて。いや、確信して。

 そしてその時は、意外と早く訪れた。


「はは、ははは! 無駄だ無駄だ! お前の攻撃なんて効かないんだよ! 一生やってろ!」


 俺の滑稽な姿を見て、機嫌を取り戻してきているようだ。もう一押ししてみるか。

 俺はニイナに攻撃しようとして躓いた、ふりをした。


「馬鹿だ馬鹿だ! やっぱりお前は馬鹿だな! 二一七号の【色彩の無い断絶空間ビビット・トイルーム】はありとあらゆる攻撃を跳ね返す最強の盾なんだよ! 二一七号の血液を持っていれば絶対に負けないんだよ!!」


 男は愉悦に哄笑しながら、制服のポケットから小瓶を取り出す。その中には赤々とした血が入っていた。指の中で回転させ、トプンと揺らす。


「なるほどね」


 俺はそれを聞くとすぐに攻撃をやめた。ニイナから離れ、男と彼女の中間地点にまで戻る。姉は向こうでまだ倒れているが、意識を取り戻したようだ。その目が不安に揺れている。俺が何かに気づいたことを、察したのだ。だが、治癒力がかなり低いため、まだ身体を動かせない。

 俺は余裕を持って思考を巡らせる。ニイナは襲ってこないし、男は論外だ。結果として、少しばかり面倒な手間がかかるだけで、姉さえ行動不能にすれば、全く怖くない三人組だった。誰に邪魔されることなくニイナの【色彩の無い断絶空間ビビット・トイルーム】の分析ができる。


 ニイナの血を持っている者を守る。その盾の強度は俺が一番よくわかっている。なかなか優秀な防御型の【ブラッド】だ。だが、それだと腑に落ちない点がある。どうして前衛で闘う姉の周囲に【色彩の無い断絶空間ビビット・トイルーム】を発動しなかったのか。

 移動している者には対応できない、ニイナが見えないところでは発動できない、近接戦闘時における瞬間的な発動と解除が行えない。最大二人までしか発動できない。理由は色々と考えられる。だが、その中でも俺はニイナと男の陣形が気になった。この異常に離れた立ち位置。必ず俺を挟むようにしている。【色彩の無い断絶空間ビビット・トイルーム】が二箇所同時に発動できるなら、こんな立ち位置を取る必要はない。まるで同時に攻撃されることを怖れているかのようだ。


 また、男が小声で呟いていた「僕」と「お前」。俺が攻撃を仕掛けようとする者の名前を呼んでいた。これはつまり、能力発動の切り替えを命令していたとしか思えない。

 ここまで考えて、試す価値のある攻撃を思いついた。何一つ難しいことはない。ただ単に、ニイナと男を同時攻撃すれば良いだけだ。


 俺はジャージの前を触る。心臓を貫かれた時に流した血が滑りを残しつつも固まっていた。重さとベタつきのあるそれを〈境界〉を用いて操り、片手に収まる大きさの球体を作った。

 男はこの期に及んで俺が何を考えているのかわからないらしい。本当にやり易くて助かる。俺は左手に血のボールを掴むと、今度はポケットの果物ナイフを手に取った。ナイフを人差し指と中指の間に挟み、余った指と手の平でボールを握る。これなら同時に投げられる。一つは保険だ。どちらかが当たればそれで良い。


 ニイナの位置を確認する。相変わらず動きも表情もない。今になっては心すら失っているように見えた。この数分間の中で、ますます人形化が進んでいる。その理由はわからないが、取り返しのつかないことになる前に、決着をつけなければならない。

 俺は右腕を振り被った。中学の時のソフトボールの授業を思い出す。【零からの逆襲ロストエンカウンター】のおかげで、速度と威力は勝手に出るから、コントロールだけを重視する。

 その時やっと、男の顔に焦燥が生まれた。今更遅い。鞭のようにしなる右腕と、グラウンドをえぐるほどの強力な踏み込み。血のボールと果物ナイフを男に向けて全力投擲したのだ。


「っ!?」


 投擲の直後、俺は身を翻しニイナに向けて駆け出す。ニイナは糸が切れたように停止している。逃げない。何も考えていない。戦場のニイナは、命令されたことしかできない。

 男の顔は見なくてもわかる。極限の懊悩に歪んでいるはずだ。だが、奴は絶対に、こう言う。奴のこれまでの行動の端々を見て確信していた。


「ぼ、僕を守れぇっ!!」


 ただの投擲だ。目に見えない速さではないし、何か仕掛けがある訳でもない。ひょいと躱せばそれで済む。だが、男はそれができない。絶対、にだ。戦闘の全てを姉に頼り、任せ、防御の全てをニイナに委ねていた男は、闘う術を持たない。慢心せず身体を鍛えているわけもない。戦闘中に椅子に座るような奴だ。自分が不利になる発言に気づくことすらできないような奴だ。

 予想通りと言うか、当然の結果だった。俺は投げたナイフたちが男に触れると同じタイミングを計算して、ニイナを攻撃する。やはり、見えない盾はどこにもなかった。


 そして、ニイナの感情もなかった。


 俺に攻撃されようとしているのに、ニイナは呆けた顔で眺めているだけだ。攻撃を受けることを、受け入れている。いや、むしろ攻撃されることを望んでいるのかもしれなかった。

 少女は静かに瞼を閉じた。


 飛び散る血液が、空間を赤く染める。俺のものではない血は、より鉄臭かった。凶器となった右腕は、五指は、爪は、狂うことなく貫いている。柔らかな弾力がある小さな塊を。生命には無くてはならない機関を。俺はこの感触をよく知っている。


 心臓だ。ニイナの姉の、心臓だった。


 血を浴びたニイナが目を見開いた。瞳孔に光が戻り、宿り……揺れる。




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