第31話




 ♢




 胸からの出血はもう止まっている。ただ、ジャージは無残かつ鋭利に裂かれ、俺の紫色の胸板を晒していた。重傷の一歩手前だ。まだ肺や肋骨が再生していないため、呼吸は荒く、喉から血が溢れてくる。口に溜まった血が呼吸を乱す。鼻から呼吸しようとしたら、格好悪く鼻血が垂れてきた。ぐいと袖で拭う。お互いが間合いを図りあっている今がチャンスだ。戦況を仔細に分析する。

 人間は情報の九割近くを視覚から得ていると言う。その科学的事実は十分頷けるし、反論の余地はない。だが、人間とは異なる進化形態から生まれた吸血鬼だと、少々違いがある。


 全ての吸血鬼は、五感の中で味覚が最も優れているのだ。唯一の食糧である単調な血の味を、少しでも感じ分けられるように進化したのだ。しかし、だ。戦場においては、味覚というのはほぼ必要ではない。やはり重要なのは視覚、聴覚、触覚だろう。嗅覚は、まぁ無いよりはマシと言ったところか。

 つまりは、重要な感覚である三つを、この戦闘においては制限されるということだった。


「っ!!」


 俺の突進は真正面から。と見せかけて左に行く、と見せかけて右から。お返しとばかりに左のローキックを放つ。それは膝で受け止められた。だが脚力もすでに俺の方が上だ。そのまま振り抜き、後方へ弾き飛ばす。姉は空中でバク転し難なく着地。したところを狙う。もう一度蹴り。躱されるが、懲りずに蹴り。

 別に姉の見事な蹴り技に触発されたわけではない。接近戦をしなければならない中でも、可能な限り近づきたくないが故の選択だった。まだ姉の【ブラッド】の攻略法を得られていない。発動条件を把握できていない。様子うかがいのジャブみたいなものだ。


 戦闘の最中、姉の首枷に繋がっている鎖が跳ねた。それが一瞬彼女の視界を塞ぐ。男の迂闊さに感謝しながら、一気に左足を踏み込んだ。勢いをつけた右ストレート。それは姉の左耳をかすっただけだった。


「っ!?」


 ヤバイと思う間すら無かった。姉は超接近した状態で俺の頭を両手で掴み固定。そこに渾身の膝蹴り。一発では良しとせず、二発、三発。

 脳がぐわんぐわん揺れ、顎と鼻の骨が粉になった。姉は手を離すと、左手を掲げて距離を測る。膝蹴りで地から足が浮いている俺の脇腹を、右脚で蹴り飛ばす。肋骨を粉砕され、俺はグラウンドを削るように転がっていく。


 だが、どれも普通の打撃だ。超回復力を持って即座に治癒。あの鎖はフェイクだと思い知らされた。戦闘経験に差があり過ぎる。顔を上げたら、何も見えなくなっていた。


「しまっ……」


 姉から目を離した一瞬の間で【孤独の誘いブラック・ドア】を発動された。これでは発動条件が何一つ分からないままだし、また視覚を奪われた。即座に感覚を聴覚に切り替えるが、


「」


 背後からの蹴りを風圧だけで感じとった。駄目だ。耳もやられている。視覚と聴覚の両方を奪われた。これでは回避もままならない。さっきと同じ、躊躇なく後退を選ぶ。

 すると、右方向からも風が迫ってきた。そっちか! タイミングを合わせて左に跳んだ。


「」


 あ? と言ったはずだが、聴き取れない。俺の胸は灼けるような高熱を帯びていた。何かが背中から突き刺さり、胸を抜けている。このひりつくような感覚と、得物の長さ。間違いなく、姉の〈十字銀〉だ。

 激痛に声を振り乱して叫ぶ。だが聴こえてこない。俺が感じられるのはひたすら痛みだけ。


「」


「い」


「……い」


「……たい!」


「……たい!!」


「たいたいたいたいたいたい!!」


「痛い!!!!」


 気がつけば俺の絶叫が鼓膜を揺らしていた。そして、目の前にはニイナがいた。その瞳は影のように暗く、頬は死人のように白かった。


「これで終わりです」


 背後から姉の声が聞こえる。やっとわかった。姉妹で挟撃された。ニイナをフェイクに俺を誘導し、そこに姉が待ち構えていた。

 ニイナはちゃんと警戒していたはずなのに。ここぞと言うところで注意を外してしまった。それが俺の敗因で、死因となる。


 胸の中央を刺し貫く〈十字銀〉が抜かれた。滝のように血が流れ出る。〈十字銀〉による傷とかは関係ない。心臓を貫かれているのだから。


「ふはは! 少し時間はかかったが、僕の勝ちだ。おい、三四号。それを運べ。殺さない程度にな」


「かしこまりました」


 男は愉快そうに膝を叩く。俺を値踏みするように遠くから見下ろしていた。これから俺をどうやって甚振るかを下卑た目で考えている。

 ぺたりと尻を落とした。流れる血が、俺の腹筋を伝ってグラウンドに広がっていく。熱くなっていた体温が急激に低下しているのを感じる。吸血鬼を弱点以外で殺すには、脳か心臓を破壊するか、首を斬り落とすか。


 俺は心臓をやられた。



「あぁ! 今日は最高の夜だ! 兄上に良い報告ができる!」


 まるで自らの手柄のように、男は天を見る。


「三四号、今日は血を飲ませてやる。いつものように下水に混ぜたものではなく、パックの血だ!」


「ありがとうございます」


「二一七号も、良かったな! 姉の食事の準備をしなくて良い! あ、だがそれだと唯一のコミュニケーションが無くなってしまうかな? ははは!」


 薄れていく景色の中で、男の下らない哄笑が響く。大部分を失った心臓が完全停止を迎えようとしていた。激痛のせいか、意識だけははっきりしていて、走馬灯を見ることはない。これからこの男に玩具にされるのか、そう思っていた。


 その時。



「そうだ。明日あの店を調べなくてはな! こいつが吸血鬼だったんだ。あの店長も吸血鬼の可能性がある! 他にも仲間がいるかもしれん。全員捕まえて拷問してやる!」



 思考が一瞬にして燃え上がった。俺は自分の右手を、胸骨の間に突き入れた。



「っ!? な、何をして!?」


 男はまだ気づいていない。隣にいた姉が焦った。裏返った声はシャープで綺麗だった。

 俺が自殺しようとしていると思ったのだろう。俺の手を引っこ抜こうとしてくる。だが、俺はそれに負けることはない。自分の胸の中を弄りながら、ある機関を探し回る。


「ん? あ、おい! 死なせるなよ!」


 男が振り返って慌てる。すでに俺は目当ての物を見つけていた。


 とくとくと、弱々しく動く心臓。そこに裂けたような跡を発見した。


 頭の中は真っ赤だった。痛いなんてどころではない。雷鳴のように響く痛みに何度も気絶し、何度も覚醒した。そんな状態でも、俺はあるただ一つのことを見ていられた。それだけのために、血を吐き散らしながら、胸の中を抉り続ける。


「ナ……カ……!」


 五指が……俺の心臓の半分を、握り潰した。ぷつん、という糸が切れたような感覚があって、次の瞬間には。


「きゃあっ!?!?」


「……っ!!」


 俺を囲むようにしていた二人の少女を、公園の端にまで蹴り飛ばしてしていた。


「は、は、はぁ!?」


 男が情け無い声をあげながら尻餅をつく。俺は即座にそちらに目を向け、疾走。飛燕よりも速く男に迫り、拳を叩きつける、直前で横からの攻撃にあった。右腕で防御したが、〈十字銀〉が骨に到達するくらい斬り裂かれている。姉の更なる追撃にあい、歯軋りしながら後退した。


「な、な……なんで心臓貫かれて生きてんだよぉ!!」


 恐怖に怯える叫びだった。姉の背中に隠れるようにする男。信じられないと言う風に目を見開く姉。そして、無言で立ち上がったニイナ。

 俺は爆ぜ狂う雷電を纏いながら、その全員を見回していた。


「……」


 姉に心臓を貫かれた時点で、千ミリリットル近い量を出血していた。息も絶え絶えの中で、唯一光明があったとすれば、【零からの逆襲ロストエンカウンター】の倍率が上がったことだ。過去最高の倍率を得た俺の思考は、一つの仮説を立てた。


 〈十字銀〉で傷つけられた部分を上から破壊すれば、治癒能力が働くのではないか?


 〈十字銀〉によって負わされた負傷の回復は遅れる。その問題を解決するための、俺が取り得る最後の手段だった。賭けだとは思わなかった。他に手が無かったとも言えるが、それでも、成功する確率は七割を超えると意味もなく勝手に予想した。

 俺は最後の意識を総動員して心臓にまで指を到達させ、〈十字銀〉の負傷箇所を破壊。それが成功したのだ。


 だが、やはりこんなのは荒療治ですらないようだ。全身から変な汗が流れるし、眠気に似た意識低下もある。足元がふらついて、立っているのも困難だった。だがそれでも、何とか繋ぎ止めた命を必死に分析する。

 俺が現在流した血は千百ミリリットル。強化倍率は九十倍。初めて出血量千ミリリットルを越えて発見したことだが、ここからの倍率は百ミリリットルごとに倍率が六十ずつ足し算されるらしい。だがら、千ミリリットルで三十倍だったのが、百ミリリットル増えただけで九十倍にまで跳ね上がっている。


 身体から放たれる雷電も以前より大きく太い。千ミリリットルは【零からの逆襲ロストエンカウンター】の中でかなり重要な転換点らしい。実際、九十倍なんて言う常識はずれの身体能力強化に、まだ実感が追いついていない。いくら思考力も同時強化されているとは言え、馴染むには少しばかり時間が必要だった。この感じだと、下手にこれ以上倍率を上げてはいけない。


「くそ! くそ! くそ!」


 男は文字通り地団駄を踏んでいる。現実にこんなことをする人間がいるのかと、少し驚きがあった。


「なんだよ! 急に再生しやがって! 三四号! さっさと片付けろ!」


「……はい」


 姉の顔つきが険しい。当然だ。俺の今の強さは、単純倍率だけで先程までの六倍だ。姉がそれだけはっきりと差を感じ取っているかはわからないが、それでも俺が圧倒的に強化されたことは悟ったようだ。

 ニイナがジリジリと動き、男と彼女で俺を挟む形になった。どうやらこれが彼女たちの陣形らしい。そこを先に崩すか。


 このタイミングで、俺は男や姉やニイナとはまるで違う方向、公園樹が何本も植えられている林の方へ駆けた。男もニイナも動かず、姉だけが追ってくる。

 一秒もかからず林に入った。周囲を見回す。木の数、幹の太さ、枝振り、高さ、位置、それぞれの距離感。その全てを即座に記憶。そのまま比較的広い場所で姉を待つ。


 姉は右の木に隠れて襲いかかってきた。血の雫が舞う。かなり広範囲に撒き散らされたので、避けることはでき……た。避けること自体は可能だった。それだけ俺が強化されている。だが、敢えて姉の【孤独の誘いブラック・ドア】を受けた。油断でも傲慢でもない。その方が向こうに混乱を与えれると思ったからだ。


 視界が断たれた。これはほぼ毎回やられるだろう。そして次に断たれたのは触覚だった。これが思いの外強力で、一瞬の動揺が生まれる。触覚が無いということは、その場に立っていることすらわからなくなるということだ。どこに重心をかけていいか見失い、身体の動きを大きく制限される。

 だがそれでも、聴覚は残っていた。本来なら触覚を断たれた時点で鼓膜が揺れてもわからなくなるはずだが、どうやらそれは無い。やはりいくつかの五感を奪うというのは、いくつかの感覚は奪えないという結果にも行き着くらしい。


 姉の筋肉が軋む。これまでは大まかな位置が掴めるだけだったが、今は動き全てが把握できた。姉は右足、左足を踏み込み、一回転。遠心力を乗せた右足の蹴りを俺の顳顬こめかみに放つ。今度は完全に脳を破壊するつもりだ。

 俺は跳んだ。右斜めの木の幹へ。側面に靴裏をつける形で着地。俺の脳内には、自分の移動速度と距離感、角度を計算して生み出した精巧なマップがあった。幹に着地した感覚は無くとも、十二分に把握できる。今度は正面、対角に跳び着地、そこから九時の方向へ。


 俺は姉を三角形で囲むように移動し、再び同じ場所に戻ってきた。姉は俺を捉え切れていない。最後に幹を蹴って懐に潜り込む。反動、反動、反動を使って加速した俺は、速度をそのまま拳に乗せる。右のショートアッパーが姉の鳩尾に入った。まだ感覚は戻ってこない。が、今の攻撃なら数メートルは軽々と吹っ飛んでいるはずだ。しばらく俺は動かない。そして、視覚と触覚が回復した。

 目前には、林の雑草や木々を薙ぎ倒した跡があった。姉は十メートルほど向こうで公園樹を背に悶えていた。血を大量に吐き出しながら、痙攣している。


 力の差は、歴然だった。


 俺はふと、退屈を覚えた。




 ♢

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