第30話




 ♢





 西地区海浜公園のグラウンドは、丁度大人用のサッカー場程度で、学校の運動場と同じようなものだ。男が歩いてきた方角と右手に出入り口がある。


「ははは! のこのこやって来たのは久しぶりだな! どうした? 何か期待してたのか? それとも、吸血鬼だから僕を斃しに来たのか?」


 俺はグラウンドの土を触って確認する。砂はほとんどないけれど、端の方は元気よく雑草が茂っている。公園の周囲は公園樹でぐるりと囲まれ、外から見られることはない。だからここを選んだのだろう。まぁ、真夏の深夜にランニングをしている人がいたら話は別だけれど。


「前者なら間抜け、後者なら大馬鹿だな! 二一七号は僕の命令しか聞かないし、僕は〈銀正〉候補の鬼狩りだ! 万に一つもお前に勝ち目なんてないんだよ!」


 公園の様子を念入りに観察して、やっと背後へ振り返った。そこに立つのは二人の女の子。ニイナは相変わらずの無表情だけれど、どこか怯えるようにしている。そしてニイナの姉は、険しい表情で俺を見ていた。あの一瞬の攻防で、俺が下級ではないとわかったのだろう。警戒の色がその目にはあった。そしてそれは、もう俺たちに闘いしか残されていないことを暗示している。


「いつもは生意気な奴をちょっと痛めつけるだけだが、今日は運が良い! 吸血鬼なら殺しても文句は言われないからな!」


 ニイナの姉は昼間と変わらず制服姿だ。けれど、ひりつくような雰囲気を発している。それは山田や篠原とは別種のものだったけれど、闘いに身を置く吸血鬼とはこういうものか。


「……おいっ!」


 正直、闘いたくはない。闘わなくて済む方法はないかと、必死に考えを巡らせている。


「おいっ!! お前!!」


「……なんだよ五月蝿いな」


 さっきからごちゃごちゃ独り言喚きやがって。倦怠感にも似た煩わしさを隠すことなく首だけ向けた。自分がどんな表情をしているかよくわかる。そんな顔つきで男に目をやると、男は顔を真っ赤にしていた。


「僕を無視するな! 舐めやがって! それともこの状況がわからないほど頭が悪いのかっ!?」


「……」


 滑稽だなと思いつつの無言だった。

 屋根裏部屋を掃除している時は畏怖を感じていたけれど、いざ目の前にしてみると、そんな気持ちはゴミのように消え去った。こいつはどうにも小物臭い。洗練された要素は皆無で、折り目正しい制服を着ていると言うのに、だらし無く見えた。こいつが〈銀正〉候補で、二人の吸血鬼を操っているとはとてもじゃないけれど思えない。猿山の大将という言葉がよく似合う。ただ、こいつが従えているのは間抜けな猿ではなく、可憐な美少女なわけだけれど。まぁ、別に羨ましいとも思わない。ニイナもニイナの姉も確かに可愛い。けれど、やはりどう考えても俺の妹の方が可愛かった。家族愛とかを抜きにしても、である。あまり女性の外見を比べるのはよろしくないので、これ以上は考えないようにする。


「……っ!! もういいっ! 三四号、やれ! こいつは生け捕りにして拷問する。まずはその小賢しい目玉をスプーンでくり抜いてやる!」


 それは吸血鬼拷問の本に書いてあったな。確か中級レベルの拷問だったはずだ。つくづくオリジナリティがない。

 などと呑気に考えている暇はなかった。ニイナの姉が前傾姿勢で突進してきた。疾さだけなら篠原よりも上だ。だが、俺は片目でちらと見るだけでその速度を捉えていた。


 飛び上がりながらの右回し蹴り。鞭のようにしなる脚線美は電柱程度なら軽く切断しそうだ。俺はそれを必要以上に余裕を持って躱す。靴底から青白く光る剣のようなものがのぞいていたからだ。


 姉は右脚が躱されると同時に空中で回転。左の後ろ回し蹴りを飛ばしてくる。一瞬スカートの中が露わになるが、準備よくスパッツを履いていた。俺には緊張感もなく内心がっかりするだけの思考時間がある。左の蹴りも問題ない。靴裏から伸びる剣に斬り裂かれる前に、踵を掴んだ。衝撃が左手にあったが、無視して後方に向けて投げ飛ばす。


「っ!?」


 俺の身体からは、青い蒸気が噴き上がっていた。盾のようにそれを纏う。

 俺は、男が喚いている隙に、ポケットの中のナイフを太ももにぶっ刺していた。長ズボンのジャージだったから、気づかれる心配もなく細工できた。靴や靴下は血で滑っていたが、それは仕方ない。


 【零からの逆襲ロストエンカウンター】の発動。現在は五百ミリリットルの十五倍。

 篠原の時のようにはならない。相手の攻撃で傷を受けるのはリスキー過ぎる。さらには、鬼狩りに使役されている姉妹の攻撃だ。絶対に〈十字銀〉を用いてくると思っていた。そしてその予想は当然の如く的中。抜かりなく準備してきたおかげで、余裕を持って序盤戦を闘えた。


 どうやら姉は接近戦、それも足技主体らしい。よく見れば履いている靴がニイナと違う。膝近くまである黒いブーツだ。さっき踵を掴んだ感触から、ただの革ではないと判断する。さらに、靴裏から伸びる剣。刃渡り三十センチほどで、剣というよりは細長い円柱形だ。それが地面に突き刺さっており、ただでさえ俺より高い身長が更に高くなっている。

 あの剣は間違いなく〈十字銀〉だろう。だが、きっと男のものではない。どこからか払い下げられたものだ。篠原が海に没して死んだ時のように、〈十字銀〉は鬼狩りに収容されてない場合は固体として残り続ける。それを特注のブーツに仕込んでいるのだ。


 姉が俺の周囲を円を描くように走る。俺は片脚を軸に回転しながら常に正面で姉を捉える。むざむざと死角から攻撃されてやるつもりはない。姉の円運動が停止。再び真っ直ぐ接近してくる。このまま速度をつけて蹴り技を仕掛けてくるかと思った。が、姉は俺の直前で再停止。ワンステップで俺の右側に回り込んだ。左のローキック。剣ではなく足の甲で蹴りつけてきた。俺は右膝を上げてガードする。足と脚がぶつかり合う。すると衝撃を利用して姉が飛翔。空中で回転。斜め上から右脚を振り下ろしてくる。

 よく回転する人だ、と思いつつ後退し回避。姉の剣が地面を斬りつけ、今度は左を跳ね上げてくる。その時、


「っ!」


 姉が左手を振るった。俺には到底届かない距離にも関わらず、である。それは腕による攻撃ではなかった。とあるものを飛ばしてきたのだ。

 血だった。俺と同じようにいつのまにか腕から出血させて、それを俺の顔めがけて飛ばしてきた。広範囲に飛び散る血の全てを躱すことは不可能。俺の脳が危険信号を放つ。


 今闘っているのは鬼狩りではない、吸血鬼だ。最も警戒すべきは、まだ見ぬ【ブラッド】。姉が持つ能力がどんなものかはわからないし、それを見破るために俺は様子を窺っていた。そして姉は仕掛けてきた。こんな風に血を飛ばしてくるのだ。彼女の【ブラッド】に関わる何かだと思うのは当然。目潰しにしては顔面を狙っていない。

 血が俺の服に付着した。その瞬間、世界が闇に閉ざされた。え、と一言零れた。


 何も……見えない!?


 その時。


「ガ、はっ!?」


 タイミングをはかっていたのだろう、左脚の蹴りが俺の脇腹を抉り、胸の中央付近まで到達する。〈十字銀〉による攻撃だとかは関係なく激痛が走る。肋骨数本切断、片肺損傷、心臓にまで辿り着かなかったのはただ運が良かっただけだ。それでも膝から崩れ落ちる。痛みで脳が真っ赤になる。

 それでも【零からの逆襲ロストエンカウンター】は発動し続け、俺の思考を加速させる。


 なんだ!? 何をされて何が起こった!? どうして真っ暗なんだ。夜だからではない。本当に何も見えない。瞼を閉じているなんてレベルではない。経験したことのないような闇黒に覆われた。俺はかつてないパニックに陥る。両手を振り回して何か触れるものを探す。それが何であろうと構わない。とにかく感じられるモノ。自分を客観的に発見できるモノ!

 だが、何もなかった。縋れるものは何処にもなく、俺は深海で溺れていた。


 頭上から凄まじい風圧が襲ってきた。それでやっと、自分が今闘っていることと、暗闇にいること、そして、殺されようとしていることを悟った。


 みーんみーん


 馬鹿みたいな音がした。そう、音だった。


「シィッ!!」


「うおっ!?」


 俺は大した考えもなく、音の聞こえた方に向かって転がった。それが右なのか左なのかもわからない。右肩が斬り裂かれたから、左方向に飛んだのだと思う。

 転がった場所には地面がある。迷うことなくもう一度転がる。もう一度、もう一度、もう一度!


 とにかく、ひたすらに逃亡を繰り返した。回避ではない。逃亡だ。どれだけの距離を転がったのかわからない。だがそれでも、自分が海の中にいるのではないことだけは思い出せた。そこまで思考が回復して、やっと少し冷静になれた。

 俺は暗闇にいるのではない。おそらく、視覚を奪われているのだ。瞼を開けたままだと言うのに、何も見えない。そのことが余計に俺を混乱させた。


 嗅覚、ある。触覚、ある。味覚、ある。そして、聴覚。五感のうち四つは健全に働いている。そこまで確認する。

 これは明らかに姉の【ブラッド】だ。あの、撒き散らされた血が発動のトリガーだったのだ。


 サクサクという聴き慣れない音が接近している。姉が靴底の剣で地面を裂きながら近づいてきているのだとわかった。音が消えた。飛翔したか。ギチギリという骨が軋み筋肉が伸びる音。何かしらの攻撃態勢に入っている。だが、ある程度の位置が掴めているだけで、どんな技を繰り出してくるのかがわからない。

 左からの風圧。頭を下げると、その微か上を殺意が通り過ぎていく。一瞬の間を置き、再び左から。脇腹を目指した攻撃。と、同時に下から顎を狙った攻撃。どんな態勢をすればこんな同時攻撃ができるのか気になる。


 俺は踵を返し、全力ダッシュすることでその場を離れた。こんな不完全な状態でむざむざ闘う必要はない。もっと状況がわかる、せめて慣れるまでは逃げに徹しよう。追いかけてくるのはわかったが、追いつかれない。グラウンドの情報は事前に確認していたから、変な方向に走ることもない。

 すると、突然視界が回復した。これはこれで動揺する事態だったが、失った時ほどではない。


「チッ! 何をしているんだ三四号! 相変わらずおまえの【ブラッド】はしょうもないな!」


 男はグラウンドの端にあるベンチに脚を組んで座っていた。舌打ちとともに悪態を吐く。


「申し訳ございません」


 俺はグラウンドの中央に、姉は俺と男の間に、そしてニイナは俺を挟んで男と反対の場所にいた。男、俺、ニイナがそれぞれ等間隔に並ぶ。


「全く。自分の血を付着させた相手の五感を一つから三つ奪う、【孤独の誘いブラック・ドア】。中級に相応しい雑魚【ブラッド】だな」


 説明ありがとう。おかげでかなりの情報を得られた。姉も無念そうな顔をしている。当然だ。自分の【ブラッド】を相手に知られたのだから。対して、俺はまだ【零からの逆襲ロストエンカウンター】を最大解放していない。姉にとってはまだまだ未知の能力だ。ただの身体能力強化なのだが、これはこれで良い偽装になる。

 改めて状況把握に努める。男に関しては無視していい。あれは前に出てくるタイプではないし、〈十字銀〉の力もわかっている。そして、姉の【ブラッド】はひとまず把握できた。接近戦主体の彼女には非常に適した能力だ。男は雑魚だと言ったが、それは明らかに誤認識で、戦場で五感を奪われる恐怖や、奪うメリットをまるで理解していない。やはり、あの男がまるでお話にならない。


 そして、俺はニイナに目を向ける。彼女は戦闘開始前の位置から動いていない。二対一で挟撃されることが一番怖かったが、あの様子だとしばらくは心配なさそうだ。頭の隅に置いておくに留める。

 またグラウンド、公園一帯を観察し、脳に叩き込む。距離、段差、障害物、その他諸々。いつ何時視界が奪われても良いように。


 はっきり言って、俺も接近戦しか手がない。血の散布を全て躱すのはどうあがいても無理だ。なら、始めからそのつもりで闘うしかない。

 今度は俺から仕掛けた。男は五感のうち三つまでを奪うとほざいていた。その条件を早い段階で知っておきたい。考えられるのは、付着した血の量、俺の身体のどこに付着したか、姉のどの部位の血か、またはそれら全て任意なのか。まぁ、四つ目は省いて良いだろう。それならさっき俺から視覚だけでなく聴覚を奪っておけば良かったのだから。


 今は鳴きやんだ、狂い鳴きした蝉に心から感謝する。虫に命を救われることになるとは思わなかった。




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