第29話
♢
うどんを作るのに時間をかけるほど、俺と妹の料理スキルは低くない。いや、本職の料理人が作る場合はしっかり時間と手間をかけるのかもしれない。けれど、家庭料理レベルのうどんならば、速度というものも実力の範疇に収まるだろう。出汁を作り薬味を作り、うどんを湯がく。二人で分担すれば二十分もかからない。また、俺たちは何年も一緒にキッチンに立っている。抜群の連携だと胸を張って言える。
「はい。できました」
「っ! っ!」
妹が元気良く首を振る。食欲もあるみたいだし、少し安心した。三人がテーブルに座る。
「……」
けれど、ニイナは座らなかった。姉以外と一緒に食事をするという概念がないのだ。まぁ、これは俺も先生も予想していたので、驚くことはない。先生が無言でニイナを席に座らせただけだ。
「ニイナくんはお客さんだ。一緒に食べるんだよ」
「かしこまりました」
「その返事は少し違う気もするが……」
ニイナにとっては、これも命令に過ぎないのだろう。命令と指示と質問の他に会話を知らないようだった。
「では、二人ともありがとう。いただきます」
「はい。いただきます」
妹は目を瞑って手を合わせた。ただ、案の定ニイナは停止している。無表情なのでわかりにくいけれど、きっと困惑しているのだ。「いただきます」がわからない。
「ニイナ、ご飯を食べる前には、いただきますって言うんだよ。命に感謝するって意味だ」
「かしこまりました。いただきます」
かなり棒読みではあったけれど、理解はしてくれた。今日ここで覚えたことが、いつか役に立ってくれれば良いと思う。
俺が「ニイナ」と呼んだ時、妹の肩が跳ね、俺とニイナを交互に見やっていたけれど、特には気にしない。俺がとった出汁の出来栄えに驚いているのだろう。
俺たちはうどんをすする。薬味を変えて、またすする。ニイナはそれを無言で観察していた。そして、うどんの盛られた碗を手にし、
「……」
少し不器用にうどんをすすって、また停止した。俺はその様子をドギマギしながら見守る。ニイナの唇が、ほぅっと息を吐いた。
「どうかな?」
自分でもなかなか上手く作れたと思っている。うどんなんて質素な料理かもしれないけれど、それを初めて食べたニイナは、どんなことを思ったのか。
「……味があります。不思議と、胸の温度が上昇する味です。初めて、ではなく。ずっと昔に感じたことのある感覚です」
「……そっか」
ニイナは、「美味しい」を忘れてしまっている。知らないのではなく、忘れている。だから、胸が熱くなるという表現を使ったのだろう。そして、
「あ……」
ニイナの頬から涙が溢れた。
それは、澄み切った水のような美しさだった。
表情は一つも動いていない。感情をまるで感じさせない、ただ涙腺が綻んだだけの涙。
「理解、不能です……。これは……わかりません。私は、何故……目から水を流しているのでしょうか」
「……それは、私たちにもわからないさ。きっと、君にしかわからないことだよ」
先生は、愛しむような、けれど、もがくような声で言った。ニイナの人生を知らない俺たちには、彼女の心境の全てをはかることはできない。その事実は俺の無力を自覚するのに十分だった。そして、まだニイナに涙するだけの感情が残っていたことが、微かな救いだと思う。まだ、ニイナは人だった。化け物でも人形でも、機械でもなかった。
「……三四号。三四号も、ここに……!」
ここに。この、何のこともない場所で。二人一緒に食事ができたなら。
ニイナが姉にそんな感情を持つことが、正直意外だった。先程までは、まるで興味も関心もなさそうだったのに。
涙はゆるやかに流れ落ち、やがて止まった。
そこからの食事は、静かに進んだ。俺も先生も特に会話をしなかったし、妹に至っては何が何だかわからなかっただろう。ただ、物言わぬニイナがうどんをすすっているのを、俺たち見つめていた。
俺の心に焔が灯る。間違っている。あの男は、絶対に間違っている。ニイナたちの人生は、もっと幸福であるべきだ。たかだかうどん如きを食べた程度で感情が抑えられなくなるような、そんな悲惨な現実であって良いわけがない。
何ができるとか、どんな方法とか、そんなものは関係ない。知らなくて良い。今この瞬間に灯った温かみだけを道標に、俺は動く。それがきっと、それだけが。
平凡な幸せを失った者達が生きる術だった。
♢
♢
「少し気になっていることがある」
「と言うと?」
「ニイナくんの首枷のことだ」
食事も終わり、もう部屋の灯りを消してしまう時刻。先生が小声で俺に耳打ちしてきた。甘いシャンプーの香りがふわりと弾けたけれど、今はそんなことに気を取られている場合じゃない。
「あの首枷、まず間違いなくあれでニイナくんを操っている。と言っても、意思や思考は彼女に許しているから、おそらくはそこまで強力なものじゃない。命令を聞かせるだけだ」
「じゃあ、やっぱりあれがあの男の〈十字銀〉ってことですよね。首枷が武器ってのもしっくりこないですけど……」
〈十字銀〉にも種類がある。山田や篠原のような誰の目にも明らかな武器もあれば、無機物ではなく生き物の形をとっているものもある。また、吸血鬼の【
「うん。その感覚は概ね間違ってないと思う。だが、色がおかしい」
「色、ですか?」
「当たり前だけど、〈十字銀〉は銀だ。その外面は均一な青白い燐光を放っている。君が闘ってきた二人の鬼狩りもそうだっただろう。でも、あの首枷は全然違う。銀どころか白でもない。真っ黒だ。石炭よりも黒いよ」
「でも、篠原の〈十字銀〉は途中から形態を変えました。色も毒々しい赫でしたし……」
「それは、戦闘時の興奮と激情によるものだ。刹那的で特殊なものなのだよ。少なくとも、平時でも変わらず変色しているなんて、あり得ない。何かある」
「先生のカンですか?」
「カンだね」
先生のカンは、当たる。さながら予言者の如く的中する。それは、妹が時折嘯く「女のカン」などと言う無根拠の意味不明なものではない。先生の「カン」とは、圧倒的な経験と知性に基づく「予測」からなるものだ。はっきり言って、天気予報の降水確率より信頼度が高い。
「何か……」
その「何か」がわからないけれど、「何かがある」とわかったのは大きい。後出しをされても混乱を最低限に抑えられる。そのことのありがたさは、これまで何度も先生のカンに助けられてきた俺が一番よくわかっている。
「ま、そう言うことだから。おやすみ。明日はニイナくんを送ってあげるんだろう?」
「はい。そのつもりです。それじゃあ、おやすみなさい」
ただ、一つ大きな問題があるのは、「何か」がわかったとしても、それは俺には関係がないのではないか、と言うことだ。他人の秘密全てが自分に関わっていることなどあり得ない。いくら俺が踏み込もうと、どうしたって手の届かないものの可能性だってある。いや、むしろその方が多い。俺ができることは、頭の片隅に先生の忠告を保管しておくことだけだ。
先生は自室に向かった。ニイナは先生と一緒に寝ることになっている。それは同衾するということではなく、客用の簡易ベットを使うのだ。妹が借りているベッドといい、俺が使っている布団といい、一人暮らしの先生宅にこんなにも寝具があるのかは謎だ。
「失礼します」
「……何かあったのか?」
部屋に入ろうとしたら、横から声がした。多分ニイナだろうなとわかってはいたし、そのつもりで声の方へ向いた。けれど、そこで待っていたのが髪色も顔色も生っ白い女の子なのだから、内心肝が冷えた。ニイナが夜道を歩けば、翌日には街に幽霊譚が広まるだろう。
「私はこれにて頼仁さまの元に帰ります」
「帰りますってことは、もう決定事項なんだな」
「肯定します」
ニイナから話しかけてきたのは、これが初めてだった。今日半日を一緒に過ごしてきたけれど、ニイナは一度として、自ら声を発しなかった。それが、何故今。こんな夜も深まったタイミングで。
「それで、もしよろしければ」
「……」
そして、頼みごとすらしてくる。
「お礼がしたいので、少し同行していただきたいです」
なんて、わかりやすい。これなら下手な建前なんて捨てて普通に言えば良いのに。いや、言ってるか。
お礼がしたい。
少しだけ、考える。本当に少しだけ。棒読みにすら聞こえる頼み方をするニイナを、無遠慮だと知りつつ観察した。俺を連れ出せなかった場合は、この子はどうなるのだろうか。おそらくはこれまでも似たようなことを繰り返してきたのだろうけれど、こんなおざなりさで成功していたとは思えない。まぁ、これもあの男の憂さ晴らしに過ぎないのだ。ニイナが連れて来れれば良し。ダメならニイナの姉に当たれば良い。
「よし。行こうか」
「……こちらです」
この時のニイナは、何故か少し逡巡した。これもまた初めてのことだった。俺を先導する歩みも、遅々としていて、仕事を成功させた喜びや達成感がまるでない。心の機微が一切表に出ないニイナだけれど、不思議と今は伝わってきた。俺は何かを言おうとして、やめた。足音を立てないよう、付いて行く。
ただ、
「ごめん。ちょっと待って」
一階の厨房で果物ナイフを探し、ジャージのポケットに入れた。女の子と夜道を歩くには物騒すぎる持ち物だ。けれど、俺も篠原の時のような状況に陥りたくはない。
お店の玄関ではなく、裏口から出た。これもニイナの先導によるもので、一応は色々と考えているのだと実感した。玄関からだと、どうしても来客を知らせる鈴が揺れてしまう。
裏口から出ると、じめっとした夜風が頬を撫でてきた。夜空には薄い雲がかかり、星の光を閉ざしている。けれど、気を利かせているのか、雲も月の周りには浮かんでいなかった。工場地帯である西地区は、夜になればポツポツと点在する街灯だけが灯りとなる。そのせいで曇りの日は不気味なほど暗黒色だけれど、今夜は月明かりが美しかった。
早くも汗がこめかみをつたう。熱帯夜のせいだけでなく、これから起こるであろうことを意識する緊張の汗だ。
ニイナはやはり無言で先を行く。銀色の髪と制服が輝いていて、星の妖精のようだと思った。俺はその後ろ姿を見惚れるように眺めるだけで、どこに行くのかとか、どこまで行くのかとかは聞かなかった。ポケットの中で果物ナイフの持ち手を掴む。
緊張が弾けそうだ。どうにも息苦しい。そんなジリジリした時間は、三十分ほどで終わりを迎えた。あぁ、どう考えてもここだな、という場所に到着したからだ。
そこは、西地区海浜公園。海浜公園と銘打っている割には海から離れている公園だ。そのショボさから察せられるように、遊具もなければフェンスもない。ランニング用の遊歩道が台形に公園を縁取り、中は枯れた花壇や街路樹、公園樹がある。管理の関係か、落葉樹は植えられていないから、外から隠れるには打って付けの場所ではある。広さは走って十五分程度か。
ニイナは、公園に入ると更に歩く速度を落とした。それはまるで、これ以上先に進みたくないかのように。俺たちは左手に公園樹が並ぶ、狭い道を進んだ。ここを抜けるとちょっとしたグラウンドがある。すると、ニイナが停止した。その肩が僅かに震えていて、
「逃げーー
「ごめんなさい」
声の方を振り返りはしなかった。八時の方角から苦しげな謝罪とともに放たれた右回し蹴りを、左肘を掲げることで防いだ。ジィンという痺れるような痛みが肘を駆け抜ける。だがそれは、対人間用の暴力だった。人間を気絶させるレベルの蹴り。手加減ではない。調整だ。
「っ!?」
防がれるとは思っていなかったのだろう、相手が大いに動揺する。その隙に俺はニイナを追い越す全力疾走。狭い道上ではなくグラウンドに出た。そしてやっと振り返る、ことはせず、前だけを睨みつける。向こうから悠然と歩いてくる人影を、もう誰だかわかりきっている者を待ち構える。
「あれを防ぐだと? まさかとは思うが……」
茶髪に銀の制服。そして、何の特徴もないしょうゆ顔。
「お前、吸血鬼か?」
苗字は知らない、「頼仁さま」が、姿を現した。背後から二人の女の子が近づいてくるのを、俺は気配で感じていた。
♢
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