第28話



 ♢



 ニイナたちの凄絶な関係性を知った俺が取った行動は、沈黙だった。ただそれは、黙るという行為を選択したのではなく、何を喋れば良いかわからなくなったから、結果的に口を噤んだに過ぎない。俺は、ニイナたちを傷つけるあの男を、悪だと思う。神罰を受けるべき人間だと確信する。あの男がやっているのは逆恨みであり、八つ当たりだ。ニイナたちが吸血鬼であるとか、女性であるとかを抜きにしても、絶対に許されざる行いをしている。それだけは間違いないし、揺るがない。けれど、何故かあの男を憎み切れない。あんなに傲慢で自分勝手な奴を、嫌いだと括り付けることができなかった。それはきっと、あの男の怖ろしいまでの計算高い復讐に、畏怖を感じてしまったからだ。絶対的な悪ではあるけれど、それを発想したことや、遂行していること。それがあの男の意志の強さを顕現させている。

 ニイナたちのために、何かできることはないかと思う。けれど、俺如きがあの男の意志に介入できるイメージが湧かない。そして、「ニイナたちのために」とは何なのか。救いか、逃亡か、過去の清算か、それとも忘却か。一体どれを、何を与えてあげられれば、「ニイナたちのために」になるのか。また、どうすれば与えてあげられるのか。わからなくなる。五十以上あった段ボールを全て整理し終わっても、俺は答えを出せないでいた。


「……じゃあ、これを下に運ぼう」


「かしこまりました」


 ふと、ここでいつのまにか見失なっていた主旨を思い出した。俺たちは、この屋根裏部屋を掃除することが目的だった。けれど、大きな問題が発生している。

 これだけの段ボールを、下に運んでどうするのだ。この屋根裏部屋、かなり広い。二階の間取りをそのまま一室にしているのだ。広くて当たり前だ。部屋の端に行くごとに天井は低くなってはいるけれど、それでも二十畳近くはある。そして、それを埋め尽くすほどの段ボールを、二階に運び、どこに置くのか。ゴミの収集日まで保管するのは無理がある。


「待った。やっぱり下に運ぶのはやめよう。運んでもどうしようもない」


 ならどうするのかと言えば、ゴミの収集日に何度かに分けてコツコツ捨てていくしかないだろう。このまま屋根裏部屋に放置しておくしかない。せいぜい重い物と軽い物に分けておくとか、もう少し纏まりを作っておくことくらいしかやることがない。

 となると、最初に天井の掃除をしなかったことが響いてくる。せっかく綺麗にしたのに、天井から落ちてくる埃で段ボールを汚してしまう。俺の先読みの甘さと頭の悪さが見事に発揮され露呈してしまった。仕方ないから、できる限り段ボールを汚すことなく天井を掃除するという、面倒な手法を取らざるを得ない。


 その辺を恥ずかしながらニイナに説明した。ニイナは表情を一ミリも変えなかったけれど、内心アホだと思ったに違いない。その後の掃除は予想通りかなり無駄な時間がかかってしまった。結局、屋根裏部屋が部屋としての体裁を整えるまでに数時間を必要とし、昼過ぎから始めた掃除は空が茜に染まるまで続いた。文句を言うことなく掃除をしてくれていたニイナに、俺は仕事以外の話を振ることはできなかった。


「お疲れ様でした。ありがとう」


「お疲れ様でした」


 茹だるような暑さの中で掃除を続けたから、俺もニイナも早い段階で汗だくになっていた。脱水と熱中症にならなかったのは、吸血鬼だからに他ならない。普通の人間がこんな環境で働かされれば、まず間違いなく倒れる。そう言う意味でも、俺は非常に気が利かない男だった。後からそう思っても、どうしようない。せめてもの気遣いをしようと、俺はニイナに風呂に入ることを勧めた。先生は初対面の女の子に過酷な仕事を押し付けて、最後まで帰ってこなかった。風呂を貸すくらい快諾してくれるだろう。


「入浴ですか」


「そう。疲れてるだろうし、さっぱりしてきなよ」


 けれど、どことなく反応が芳しくない。これまでのニイナは、表情こそ動かないものの、回答は常に迅速明確だった。はい、もしくはいいえを、ここまで断言できる人間はそういないと思えるほどだ。それがニイナの機械じみた印象を更に強調する要因だけれど、見方を変えれば長所である。


「遠慮しなくて良いよ。夕飯も食べていくだろ」


 あの男はニイナを一日貸すと言っていた。もう十分にあの男の飲食分は働いてもらっている。ならそこからはただのお客さんだ。おもてなしするのは当然だ。


「入浴に、夕餉」


「そう」


 嫌な予感がする。もしかしてニイナは、風呂に入ったことがないのではないだろうか。あの男の元で暮らしているのだから、考えられなくはない。それに、ニイナの肌がこれほどまで白いのも、絶対に食事をきちんとさせてもらえていないからだ。


「もしかして、お風呂入ったことな……」


「否定します。毎日入浴しています」


 ちょっと食い気味に言われた。心なしか怒気のようなものも混じっていた気がする。


「じゃ、じゃあ何で? 重ねて言うけど、遠慮なんかしなくて良いんだよ」


「私は入浴と夕餉の時間を決められております。夕餉は夜十時から五分。入浴は夜二十六時から五分。この時間外にこれらの行いをすることは、禁じられておりますので」


「……なるほど」


 女の子の入浴時間が五分というのは辛いだろうな。それに、二十六時というのもあまりに遅い。一日の睡眠時間もかなり制限されているのだろう。ニイナたちの生活の全てが過酷だった。おそらく、俺がまだ思いつかないだけで、もっと厳密な制限がいくつもあるのだ。同情や憐れみを通り越して、ニイナたちに尊敬すら覚える。


「大丈夫だ。あの男に告げ口したりしない。安心して、ゆっくり入ってくると良い。それこそ、一時間くらい入っても良いんじゃないかな」


 かの英雄ナポレオンは一日に六時間近く風呂に入ることもあったそうだ。一時間くらい何のこともない。先生だって健康のために週に一回は三時間の半身浴を行なっている。まぁ、先生の場合は吸血鬼の弱点として金曜日は屋外に出られず、その暇つぶしに風呂に入っているだけなのだけれど。


「わかりました。それでは入浴させていただきます」


「させていただくってのも変な感じだな」


 着替えは元の制服で構わないとして、バスタオルやシャンプー類の説明を軽く行った。実は先生が使用しているものと、俺と妹が使用しているものは別物だ。あまりに先生にお世話になり過ぎているので、生活消耗品の一部くらいは負担するためだ。今はまだ無理だけれど、妹の容体が落ち着いて、俺が再び働けるようになったら食費などもまとめて返そうと思っている。


「それじゃあ、ごゆっくり」


 汚れた服は洗濯籠に放り込んでもらったので、後は風呂場に寄り付かないことにする。やっと今日一日のタスクが終了した。時刻は午後六時半。先生はまだ帰ってきていないから、今のうちに夕飯の下ごしらえを済ませてしまおう。そう思った時、


「お兄ちゃん!」


 妹の金切り声が聞こえた。助けを求めているのではなく、驚いているのでもない。俺を非難するような声音だった。まぁ、ある程度は予想がつく。また、テン・シナリスが言っていた通り、多少叫んだくらいでは世界に影響はないらしい。


「はいはい。お兄ちゃんはここにいるぞ……ほいっ!」


 脱衣所近くである。死角から襲いくるスケッチブックを屈んで回避した。二度の戦闘を潜り抜けたことが、こんな情けない場面で活きてしまった。


「よ……お兄ちゃん!!」


 妹は多分、「避けるな」と言おうとした。けれど、それはかなり指向性を伴う言葉なので、すんでのところで言い止まった。「お兄ちゃん」という単語に、先程同様の非難の含みを存分に混ぜ込んでいる。


「待て待て。まずお兄ちゃんの話を聞いてくれ」


「……」


 顔を見せた妹は、自分の感情を制御できていない表情をしていた。理由は明瞭だ。


「あの女の子は、まぁ、先生のお客さんだ。さっきまで掃除を手伝ってくれていて、汚れてしまったから風呂に入ってもらってるんだ」


 非常にわかりやすい説明だったと自負する。さらに、俺のジャージも汚れていることをアピールし、説明に説得力を付随させる。


「だから別におかしなことは何もな………て、何で俺が言い訳じみた説明をしてるんだよ」


 よく考えると、妙な話だった。やましいことは一つもない。けれどそれを、「やましいこと」をするのに、何故妹の了解を取らなくてはならないのか。先生ならまだしも。


「(しんじる ゆるす)」


 武器ではなく意思疎通道具としてスケッチブックを活用してくれた。日に日に文字を書く速度が増している。そしてやはり、許すという単語に違和感を感じるのだった。


「まぁ、その。どうだ? 体調は、大丈夫か? 辛い気持ちになったりしてないか?」


 今になって思い出したけれど、掃除に取り掛かる前に、妹の様子を見るつもりだった。それがいつのまにか忘れていて、テン・シナリスが去ってから何時間も経ってしまっている。これは大失態だ。兄である俺が妹の心身を想いやらなくてどうする。


「(へーき つらいしきにしてるけど なんとか)」


「そうだよ、な。夕飯は食べれそうか?」


 妹は真面目に頷く。辛いだろうし、苦しいだろう。それは俺が思っているよりも遥かに。けれど、表に出したりすることはしない。痩せ我慢だとは思うし、発散できるようなことを用意してあげたい。けれど、今はもう少しばかり耐えてもらうしかなかった。

 俺は妹の頭を撫でる。そんな風にしか、今の気持ちを伝えられなかった。


「今から夕飯作るよ。手伝ってくれるか?」


 こうして起きてきているのだ。料理で気を紛らわせれば良いと思って聞いてみた。そうすると、妹はにこりと微笑んで、キッチンに向かう。俺の右手を引っ張っていく。


「ただいまー。掃除は終わったかい?」


 すると、実にいいタイミングで先生も帰ってきた。どこかで監視していたのではと思えるほどだ。


「終わりましたよ。ただ、あの段ボールはどうしますか?」


 先生はハンカチを額に当てながら、片手で首元を扇いでいる。


「今度古本屋に取りに来てもらうよ。あれをゴミにするのはやっぱり気がひけるからね。それに手間も減るだろう」


「確かに」


 古本喫茶が古本屋に本を売るのは何だか変な感じもするけれど、きっとそれが一番効率が良い。近頃は物を捨てるだけで、手間だけでなくお金もかかってしまう。


「今から夕飯を作ろうと思ってます。先生は何か食べたいものはありますか?」


 先生のお宅の冷蔵庫は、常に何でも揃っている。家庭料理ならば買い物に行かなくても、その場の思いつきで作れるのだ。ただ、俺は午後からずっと働いていたから、かなり気だるい。暑さのせいで食欲もあまりなかった。ここで味の濃いものとかをリクエストされると辛い。聞いてしまったので今更制限もできないけれど。

 けれど、外を歩いてきた先生も俺と同じ気持ちらしく、冷たい麺類を所望してきた。


「麺類ですか。なら、そうめんかな」


「……っ!」


 妹が素早くスケッチブックに文字を書く。


「(そうめんいや)」


「じゃあ、うどん?」


 つい数日前のそうめん責めが効いているようだ。この様子だと今年の夏はもう、そうめんを食べれないかもしれない。俺は安くて簡単なそうめんはかなり好ましく思っているけれど、妹は苦手意識を持ってしまったようだ。ただ、同じ麺類であるうどんは構わないらしく、難色を示すことはなかった。


「じゃあ、うどんだな」


 冷やしうどんでも作ろう。けれど、あることに思い至った。せっかくニイナが来てくれているのに、夕飯がうどんと言うのは如何なものか。偏見に由来する妄想かもしれないけれど、ニイナはまともな食事を知らない気がする。あの男から離れられたこの一食を、もう少し豪華にしてあげたい。

 

「ニイナくん! 夕飯はうどんで良いかい?」


 けれど、ニイナが風呂に入っていることを察知した先生が、俺に先んじて聞いた。風呂場は怪しいくらいに無音だったはずだけれど、先生にはわかってしまうらしい。そして、数秒間待つと、


「……質問を質問で返します。うどんとは、何でしょうか?」


 銀のショートカットの髪先を雫でいっぱいにしたニイナが出てきた。制服はしっかりと着ているけれど、急いで切り上げてきたのだろう。これには先生もすまなそうな顔をした。

 だから俺は、うどんを知らないという驚くべき事実の方へ話を進める。


「小麦粉を練って少し太めの糸状にして、茹でたものだよ。出汁をかけて食べるんだ」


「理解しました。そうめんと同種ですか」


「……そうめんは知ってるのか」


 知識にかなり偏りがある。けれど、なら今日ここでうどんを食べてみてもらうの良いかと思えた。


「なら、作ろうか」


「うん」


 妹はニイナの聞き慣れない会話方法や、異様な外見、そして表情の無さに戸惑っている。不自然なところが満載のニイナを、クエスチョンマークで持って受け止めていた。けれど、対人スキルが高い妹は、すぐに受け入れてくれたようだ。それ以上は特に何も反応することなく、俺の独り言に頷いた。まるで、頷けることが幸せだと言わんばかりの「うん」だった。

 同じようにコミュニケーションを制限されている二人だけれど、何故か対象的に見えた。




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