カリン~夢のゆりかご短編~

山狸

カリン

 窓の外を景色が流れて行く。しょうは、何を気にするでもなく、来ては流れる景色を眺めていた。

 乾いた丘陵。白っぽい大地が続いている。日本とはまるで違う気候・風土。やがて現れたブドウ畑が、また後ろへと流れ去って行く。

 そろそろ帰ろうか。

 そんなことを思う。往復だけで時間も金もかかる。だから、ついつい長居になる。かれこれ2年余り。仕事にこれといった「終わり」はない。適当なところで自分で打ち切らないと、いつまでたっても戻れない。

 人は、このあっけらかんと抜けるような青い空と乾いた空気を心地よいと言うけれど。それでも今は、あの日本のしっとりとした空気が酷く懐かしかった。

 この2年程の間に仕入れた本の数々を思い返す。まずまずの収穫、か?自らに問いかける。

 あだおろそかにしたつもりはない。数々の図書館や公文書館を回り、市も極力回った。時に情報が入れば、個人宅も訪れた。

 璋の仕事は、紙本の情報及び現物の収集である。こればかりは、足で稼がなくてはならない。

 出版の新しいものの大半は、電子データで出されており、容易に閲覧・入手できる。出版年が古くても、古典になっているものや、有名なもの、世界書籍電子化プロジェクトの選書対象になっているもの等は、おおむね電子データ化されており、世界中からアクセスできる。だが、電子化されていない紙製本となれば、そうは行かない。

 気に入りの一冊を手に取り、璋はそっとその表紙をなでた。凝った装丁のこの本は、1962年にフランスで出版されたものである。

 電子データ本は、内容を広く廉価に伝える、という点では優れている。けれども、それらは、こうした手触りや匂いまで伝えてはくれない。

 璋は、本のこの独特の香りが好きで、幼い頃から良く図書館に潜り込んでいた。ずっと読書好きだと思っていたが、ある時気がついた。自分が好きなのは、本に書かれた内容より、紙製本、それ自体なのだと。

 電子データ本も、表現にさまざまな工夫を凝らしてある。それでも、紙によって変わる質感、字の並び具合、匂い、手触り----そういった面では、遠く紙製本には及ばない。

 璋は、再び外へと目を転じた。そうだ、やはり一度日本へ戻ろう。

円和えんな・・・」

自分の考えを伝えようと小さく声をかけたその時、不意に激しい物音と共に、視界がぐるりと巡った。


「・・・カリン・・・カリン」

遠く名を呼ぶ声がする。

「カリン、起きて。問題が起こった」

どこか切羽詰まった声。カリンは、はっと目を覚まし飛び起きた。

「ゴメン、寝てた」

寝るつもりはなかったのに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。

「起こして悪い。璋と連絡がつかないんだ」

どこか不安な表情で円和が言った----といっても、3D投射映像なのだけれども。

 「えんわ」と書いて「えんな」。円和は元来、行政をサポートする人工知能だった。今でも建前上は、そういうことになっている。

 実際には、円和の活動範囲は非常に広い。食糧や生活必需品の生産・配分調整や、人々の見守り、福祉・安全、環境保全等々、日本における生活全般を円和は支援している。

 カリンのように海外で活動する邦人の支援も、円和の仕事の一つである。かつて世界中に展開されていた日本の在外公館は、ほとんど全て閉鎖されている。費用的にも人材的にも維持が困難になったためである。その代わり、海外で活動する日本人は、必ず円和の端末を持ち歩く。

 円和は、その土地に関する情報を事細かに収集している。どこに何があるか、安全性はどうか、衛生状態はどうか、天気はどうか。必要に応じて通訳もしてくれる。もっとも、カリンのように3D投影機まで持ち歩く人間はあまり多くないけれども。

 在外公館がほとんどないので、問題が起こった時かけつけるのは、手近にいる邦人、ということになる。

「璋というと・・・ああ、ブックハンターの璋ちゃんか」

会ったことはないけど。カリンは、小さく口の中でつぶやいた。自分と同じように海外を飛び回る数少ない人間の一人である。

 日本が原則自給自足に軸足を移してこの方、海外で活動する日本人の数は、めっきりと減ってしまった。円和が庇護する穏やかで優しい安全な世界。カリンから見れば、ぬるま湯にどっぷり浸かってふやけ切った退屈極まりない生活だが、皆、それがなかなか手放せないものらしい。

 あらゆる場所、場面に円和の庇護が及んでいる日本とは異なり、海外では、円和による「助け」は、非常に限られている。病気でも事故でも事件でも、何かあれば、原則として、自力で対処しなくてはならない。

 円和から情報を聞きながら、手早く身支度を調える。

 どうやら、璋は、列車で移動中に何らかのトラブルに巻き込まれたらしい。ひどい衝撃音の後、一切のデータ送受信が途絶えたのだという。

 列車が事故にあったようだ、と円和は言った。円和はインターネットから情報を逐次集めている。

「情報が錯綜していてはっきりしない」

「テロ?」

とカリン。

「それもまだ不明。事故かもしれないし、テロかもしれない」

聞きながら、3D投影機のスイッチを切る。ふいっと円和の姿が消えた。カリンは、一瞬迷った後、投影機は置いて行くことにし、部屋の隅に押し込んだ。投影機はそれなりに重さがある上、結構かさばる。荷物は極力少ない方が動きやすい。円和とのやりとりは、カメラと音声通信機能さえあれば、とりあえずは事足りる。

「オッケー、行こう」

カリンはリュックを左肩にかけると、扉を押し開けた。


 何が起こったのか、さっぱり分からない。璋は呆然と座り込んでいた。周囲は騒然とし、人々が慌ただしく行き交っている。あちこちから上がるうめき声と泣き叫ぶ声、ぐったりとして運ばれる人々、身体中血だらけで呆然と立ち尽くす人たち----まるで映画のワンシーンじみて、ひどく現実味がなかった。

「ねえ、円和・・・」

つぶやくように声をかける。返答がない。

「円和?」

重ねて声をかける。やはり返る答えはない。

 これは夢なのかもしれない。

 ふっとそう思った。そうだとしか思えない。

「璋!相沢璋!」

遠く声がした。遠く遠く。久しぶりに聞くフルネーム。そして、ひどく懐かしいイントネーション。

 早口のやりとりが急速に近くなり----そして、不意に腕をつかまれた。そう強いつかみ方ではなかったが、わずかに身体がねじれ、鋭い痛みが身体を走り抜けた。急速に現実感が戻って来、はっとして目を向ける。

 見たことのない女性だった。日本人・・・のように見える。傍にしゃがみ込み、大丈夫?とそう声をかけてくる。やはり日本人のようである。

 海外で日本人に会うことは滅多にない----思いかけて、そうか、と気がついた。円和が救援を呼んだのだろう。璋も以前、盗みにあって立ち往生した邦人を助けに走ったことがある。あの時は別の国にいたので、駆けつけるのが結構大変だった。

「あなたは・・・?」

「御木本カリン。雑貨の買い付け係。何か問題が起こったみたいだって円和に言われて、様子を見に来たんだ」

ラッキーだったよ、私が近くの町にいたなんてさ。快活な調子でカリンは言い、そしてにっこりと笑った。

「ウン、とりあえず命に別状はなさそうだね」

良かった。ほっとしたらしいカリンが髪をかきあげる。

「大丈夫かい、璋」

円和の声がする。カリンの端末から話しかけて来ているらしい。

「何とか」

答えてから、璋は、自分の仕事を思い出した。

「そうだ・・・本・・・」

立ち上がろうとして、激痛に頽れる。

「本ってね、君・・・」

馬鹿じゃないの。あきれ果てたようにカリンが言う。

「でも、本が」

まだ円和に見せていない分があるのに。璋は呻くように言った。

 勉強熱心な円和は、電子データベースに乗らない書籍の情報もせっせと集めている。それを手助けするのが、璋の第一の仕事である。

「でも、じゃないでしょ。この状況で、まだ本がどうだ、なんて寝言を言うわけ?」

救出された乗客たちがそこここに座り込み、あるいは応急措置を受け、あるいは病院へ運ばれるのを待っている。言われて、璋は黙り込んだ。この分だと、列車は相当酷いことになっているだろう。とても自分の荷物について尋ねられるような状態ではない。

「キリエ アイザワ、」

呼びかけられて、璋が顔を向ける。救急隊員らしい人物に促され、二人は救急車に乗り込んだ。


「はーーっ、疲れた」

リュックをカリンが放り投げる。病院で診察と手当を受け、当局の聞き取り調査に答え、なんだかんだで夜中近くになってしまった。

「カリン、」

どこか咎めるように円和が言う。堅苦しいことを言いなさんな、と返しつつ、カリンは更に靴を脱いでそれも部屋の隅へ向かって投げた。3D投影機のスイッチを入れ、円和の人型を出す。そして、少しばかり驚いたらしい璋を見ると、にっと笑みを見せた。

「いいでしょ、3D投影機」

「ずっと持ち歩いているのかい?」

璋が尋ねる。

「ま、ね。私、力あるから」

そういう問題じゃなくて。璋は思ったが、言わなかった。物好きな、とは思うけれども、今は、円和の「人型」があることが、奇妙にうれしかった。もっとも、カリンが設定している姿なので、普段璋がイメージしている円和のとは感じが全く違っているけれども。

「さあてっと、まずは、腹ごしらえ。腹が減ってはなんとやらってね」

カリンは言い、近くの店で購入したスヴラキ・プラッターをテーブルに並べた。

「円和は可哀想だよねえ、御飯が食べられないんだもの」

「大丈夫、電気を食べてる」

「電気なんかおいしくないじゃない?」

たわいもない会話。璋は、ようやく緊張がほぐれてくるのを感じた。それと共に、後悔がわき上がってくる。

「円和、ごめん・・・先に君に本を見せておくべきだった」

新しい本が手に入って、円和はそれを「見る」のをとても楽しみにしていたのに。日本なら、円和は自分で本を「読む」ことができるが、機材のない状態では、人の手助けがいる。昨夜は璋が疲れすぎていて、途中までしか仕入れた本を見せてやることができなかった。今日、早めに移動して、移動先の宿でゆっくり見せるつもりだったのだけれど。

 璋が謝るのを見て、円和は、姿を変えた。璋がいつも「円和」として設定している人の形に。

「謝ることはないよ。君のせいじゃない。無事で良かった。あ・・・と、怪我をしたから、無事とは言えないか」

見慣れた円和の姿。奇妙にほっとする。

「璋もカリンも、くれぐれも言っておくけど、君たちの安全が第一なんだからね」

「へーへー、分かってます」

肉にかぶりつきながら、カリンが片手を上げ、少しふざけて答える。円和は盛大なため息をついた。

「カリン・・・本当に分かってる?」

「分かってるってば。って、怪我したのはあっち。私は元気」

偉そうに言う。ソースが口の端についてるぞ、璋は思ったが不躾に過ぎる気がして言わなかった。紙ナプキンを差し出す。カリンは、無意識にそれを受け取りながら、口元を拭った。

「今回はそうだ。でも、君はすぐ無茶をするからね」

「ちゃんと気をつけてるから大丈夫だってば」

「どこが!おかしな路地には入り込むわ、変な奴にはついて行くわ、駄目だって言っているのに」

「でも、問題なかった。私だってちゃんと見てる」

「どうだか。それに、いつでも大丈夫だとは限らない」

身体を持たない円和は、直接物理的に阻止したり救助したりはできない。なかなかの跳ねっ返りらしいカリンの守をするのは相当骨に違いない。

 などと悠長に考えながらコーヒーを飲みかけた璋は、続く円和の言葉に、危うく吹きそうになった。

「そうだ、璋、カリン、君たち、結婚しなよ」

「却下!」

「ゴメン、遠慮させて」

間髪を入れず、カリンと璋が同時に言う。カリンは璋を振り返った。

「ちょっと、そこで即拒否する?」

「君だって即拒否したじゃないか」

「まあ、そうだけど」

カリンは笑うと、円和に向き直った。

「・・・というわけで、残念賞。私に鈴をつけようったってそうは行かないんだから」

「でも、海外を回るなら、一人より二人の方が安心できる。いざという時、私は役に立てない」

「立ったじゃない?あなたが私に連絡をくれたから、璋ちゃんを助けに行けた。リスクの分散、という点では、悪くない。二人一緒にいたんじゃ、救援に行けないでしょ」

「大きな事故や災害ならそうかもしれない。でも、細々とした問題は、絶対二人の方がいい。それに、子供も欲しいし」

あからさまな言いように、璋がげ、となる。その気配にカリンはくすくすと笑った。

「円和、璋ちゃん純情っぽいから、からかっちゃ駄目だよ」

「からかってなんかいない。深刻な問題なんだ」

円和は、目下婚姻率の低下----というより、出生率の低下に悩んでいる。日本の人口は、先日、とうとう6千万人を切った。かつて1億を超えていたのが嘘のようである。

「君たち二人は、気が合うと思うけどなあ。タイプは違うけど、きっと面白いよ」

面白さで結婚してたまるか、璋は思ったが、言わなかった。カリンの方が、こういう話は上手くあしらえるようである。

「なあに、円和、私の面倒を見るのが嫌になったの?」

璋ちゃんに押しつけようっていう魂胆でしょ。からかうようにカリンが言う。

「どうしてそうなるんだ。私はただ・・・」

「人口問題が心配で心配でしようがない。もうさ、いいから円和がバンクにあるのを適当に組み合わせてちゃちゃっと作っちゃえば?人工子宮で赤ちゃん育てられるってどこかで読んだよ」

繰り出されたとんでもない発言に、璋は、口の中のものを吹き出してしまった。

「う・・・ゴメン・・・」

慌てて片付けようとして、テーブルに乗っていたコーヒーをひっくり返してしまう。

「あー、もう、怪我人はじっとしてて。かかったんじゃない?火傷は?」

カリンは、ハンカチで手早く璋を拭くと、手早く辺りを片付けた。

「服、替えた方がいいよ」

服に手をかけてくる。璋は思わず悲鳴を上げた。びっくりしたカリンが手を引っ込める。

「その、自分でやれるから」

「あー、ゴメン。つい、甥っ子の感覚で」

「甥っ子?」

「うん、今度4歳になるんだけど、か~わいいんだ」

甥っ子3歳と一緒にされてはたまらない。

 とはいえ。右肩から腕にかけてがっちり固定された状態で、服をどうこうするのは容易ではない。悪銭苦闘する璋に、カリンがやっぱり手伝うよ、とそう申し出た。

「大丈夫、甥っ子で慣れてるから」

何が大丈夫なのか、さっぱり分からない。それでも、結局手伝ってもらう他はなかった。


 追加の聞き取り調査やら何やらで、一週間ほど後、璋は日本へと旅立って行った。そして更に半月ほどたった頃----

「おー、璋ちゃん、無事日本についたんだ」

絵はがきを片手に読みつつ、もう片方で器用に靴を脱ぎ散らかしながらカリンが言う。

「わざわざ絵はがきって笑えるよね」

通信を使えば、一瞬で届く。絵はがきは、先に滞在していたギリシャへ一旦届けられた後、今いるトルコへと転送されていた。

 葉書からは目を離さないまま、どすん、とベッドに倒れ込む。

「璋ちゃんって天然だよね。買い付け係がずっと同じ場所にいるわけないのに」

やたらと可愛らしい動物の絵はがき。

「こういう可愛いのが好みなのかな」

どこかうれしそうに言うカリンは、絵柄の選択に当たってひそかに円和が璋にアドバイスを出したのを知らない。

 ふんふんふん。カリンが絵はがきの匂いを嗅ぐ。

「あは、紙となんだか不思議なものの匂いがする。手書きかあ・・・几帳面な字だなあ」

「貴女も返事を書いて送ってみたら?」

今日は女性姿の円和が言う。カリンがそう設定したのである。

「返事ー?」

うーん、気乗りするの半分、しないの半分でカリンは呻いた。「葉書がついた、ありがとう」とただ伝えるだけなら、円和に一言頼めばすむ。

「璋は、紙の類いが好きだから。こういうアナログがいいんだって」

外国からきれいな絵はがきが来たら喜ぶと思うな。円和はそんなことを言った。

「んー、そうだねえ、こういうのをもらうのって確かに悪くない。あー、そういえば、土産物屋にいろいろあったっけ。送ってやっか」

カリンの言葉に、うんうん、と大きく円和が頷く。

「そうと決まれば!」

善は急げだよね。カリンは言い、リュックを引き寄せた。ぱちり、襟元に端末をセットし直す。

「じゃ、行こう、円和。選ぶの手伝ってよね」

「もちろん」

予定通りの展開。いい調子だぞ。円和は、思考の内にこっそりとそうつぶやいた。


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カリン~夢のゆりかご短編~ 山狸 @yama_tanu

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