たった一つの困った質問

阿井上夫

たった一つの困った質問

 その時、男は窓の外を眺めていた。


 視線の先、緑の深い中庭を夏の陽光が照らしている。時刻は既に午後六時を過ぎているのだが、まだまだ夜のとばりが当地を訪れる気配はない。

 太古の昔から当地では変わらぬ風景である。そして、とても美しい。

 ――なるほど、この地をすべての拠り所とした先人には先見の明がある。

 男は感心したが、その一方で先週の出来事を思い返して、眉を潜める。

 ――先人達が後進の者に託したこの尊き教えを、私は次の世代に伝えなければならない。

 それは男がその道を志した時から、常に心の中にあった信念であったが、今はそれが揺らぎ始めている。彼の問いにより心の中に兆した疑念が晴れないからだ。

 太古の昔より尊き教えは数々の試練を潜り抜けてきた。

 針の上に何人乗れるのか。

 父と子は同質なのか相似なのか。

 人と猿は同じ祖先を共有するのか。

 世界が進歩するにつれて生じる数々の問いに対して、先人たちは答えを示してきた。時には愚かしい拒絶もありはしたが、それを除けば上手くやってきたほうだろう。

 ところが先週、彼が男に漏らした問いに、最高指導者である男は答えを示すことが出来なかった。

 男は窓に近づき、空を見上げる。

 真夏の空は、夕刻であるにもかかわらず澄んだ青であった。

 視線の遥か先、地球の重力圏から逸脱したところで、彼の魂はゆっくりと死に向かっている。その魂の安息を願いたいところなのに、男にはそれが出来なかった。

 誰から聞いても実に信仰心の厚い、そして世界で最初の偉業に望んだ彼を、男は心から尊敬していたにもかかわらず、である。


 *


 あの日の夜、宇宙空間へと旅立つ彼は、正式な会見の後で声を潜め、男に向かってだけ心の奥底にある声を漏らした。

「実はとても不安に思っていることがあるのです」

 男は彼の突然の苦しげな告白に驚きながら、こう訊ねた。

「どのようなことですか?」

「はい、その、それが……」

 不安を口にしてしまったことを後悔するかのように言いよどむ彼を、男は落ち着いた声で励ます。

「大丈夫ですよ。常に主は貴方と共にあります」

「……そう、ですよね」

 男の励ましに、彼は微妙な表情を浮かべながら微かに笑った。それが苦笑に近かったことを男は後になって思い出すことになる。

 彼は意を決したように男を見つめると、静かな声でこう言った。

「今回の虚数空間試験航行が仮に失敗したとします。私がそれで何万光年も彼方の星の世界に飛ばされたとして――」

 男は彼――世界初の光速を超える有人航行実験で、宇宙船を操ることになった操縦士を見つめて、驚きつつも軽く頭を縦に振る。

 彼は頷きながら、こう言い切った。


「――光速を超えられない私がそこから天国まで至るために、やはり何万年もかけなければいけないのでしょうか?」


 *


 彼の魂は今、実験の失敗によりゆっくりと火星軌道上の実数空間から虚数空間に取り込まれている。

 科学者達の話では、目的地であった木星の付近に再び姿を現すまでに数百年かかるのではないかということである。

 彼の懸念していた数万年以上に比べれば僅かな時間ではあったが、それでも、その間の彼の身の置き所がどうなるのか、男には分からなかった。

 男は空を見上げながら、溜息をつく。

 ――さすがにこれは、死後に復活することよりも難物だ。

 主は奇跡を行いえたが、これから先、無数の魂が宇宙に向かって羽ばたいていった時のことを考えると、彼ら全てに奇跡を期待することは無茶である。

 それに主が虚数空間航行をお与えになるとも思えない。

 ――数万年かけて天国に至って頂く他ないのか。


 ローマ法王は再び溜息をついた。


( 終わり )

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