わたしというセカイについて

水島南

わたしというセカイについて



 私は非日常に憧れている。なぜなら、私には好きな人がいて、肝心の私は意気地なしだからだ。

 とある私の大好きなヒロインは、死地へと自分を連れて行く戦闘機へ乗り込む直前に、初めて、好きな人に思いを伝えられた。思い人と心が通じ合った。私はあの告白を、何よりも美しいものだと思う。

 だから、なんでもいい。戦争でも、この世界の終末でもいい。そんな瞬間がやってきて、いつも身にまとっている全ての殻を脱ぎ捨てて、そんな心で、好きな人に思いを伝えたい。

 そんな心でないと、思いを伝えられない、そんな気がするのだ。

 だから、私は非日常を望んだ。


 なのに、なんで私の目の前には、好きな人の屍体が転がっているんだろう。

 こういう非日常は、あまり望んではいないのに。



「系ちゃん、好きな人いるんでしょ?」

 きっかけは素子ちゃんのその言葉だった。夕暮れの高校、十月の秋風吹く三階の教室、窓にもたれてグラウンドをぼんやり見下ろす私の隣で、素子ちゃんはそう言って微笑んだ。私の視線が、サッカー部のあの人を追いかけているのを、彼女は知っていたのだろう。

 完璧だ。

 恋の話をするには、完璧のシチュエーションだった。

「うん、実はね」

 照れたりどもったりすればよかったんだろうけど、こういう時はさっぱりと返事をできてしまうのが、自分でも不思議だった。

 私は窓枠に結んである紐を指で弄った。見下ろせば、数週間後に迫った文化祭のスローガンが「命短しせよ一高生」と大書された垂れ幕が下がっている。なんでこのクラスにぶら下がってるんだろう、って思ったけど、どうやら、文化祭実行委員のトップ二人がうちのクラスだからだという。一人は私の思いびとで、もう一人は大石くんっていう男の子。

「誰?」

「界人くん」

「あーあ、なるほどねー」

 素子ちゃんはそう言って深々と頷いた。なにがなるほどねーなのか少しよくわからないけど、私は受け流した。そこを突っ込んで聞いてしまうと、どこかで口にするのも恥ずかしいようなことを告白させられてしまう。私は十七年の経験からそれを知っている。

「縁結びの神様が近くにあるらしいんだけど、知ってる?」 

 素子ちゃんはそういうと、ぺろぺろっとスマホをいじって、検索結果を見せてくれた。なんかどこにでもありそうな名前と一緒に、どこにでもありそうな鳥居の画像が映っている。

「ここに行くと、神様が告白のために背中をおしてくれるんだって」

「え、でも、どこにも縁結びの神様って書いてないよ?」

「あ、ほんとだ」

 それでいいのだろうか。

「でもまあ、ここにお参りしたら願いが叶った、みたいな人たくさんいるらしいし、系ちゃんも行ってみれば?」

「念のために訊いておくけど、願いがかなったって人、知り合いにいる?」

「ん? 私は知らないなあ」

 言い伝えって、得てしてこういうものなのかもしれない。



 恋する人間の弱いところは、そういう言い伝えに、それでも「もしかしたら」って縋ってしまうことだ。

 素子ちゃんと別れてから、週番として、最後まで居残って教室に鍵をかけ、職員室に鍵を返して、暗くなった帰り道を家へと向かっていたのに、気づいたらさっきの神社の前に来ていた。

 別に、この神社にとても強い願いをかけているわけではない。

 もっとぼうっとしたもののために、私は祈りたかった。その点では、素子ちゃんは正しかった。祈ったんだから、神様が背中を推してくれるはずだ。背中を押されているから、私は一歩踏み出せる、ゆえに、祈ったら告白をすることができる。

 それに、お母さんから聞いたところによると、今の子はあんまり男女交際に積極的ではないようだ。だから、大抵の男の子は告白してしまえば、とりあえずは付き合ってみようかな、みたいな気持ちになるらしい。で、付き合ってしまえばこっちのものだ。相手の特別な顔を見ることができるし、相手も、私の特別な顔を見ることができる。相手の特別になれてしまうわけだ、とお母さんは言っていた。

 なにを呑気なことを、と思うけど、まあ、その一割の半分くらいは信じてあげてもいいかな、みたいな気持ちもある。

 そんなわけで、私はたどり着いてしまった神社をスルーすることもなく、鳥居をくぐった。

 神社を囲む林はカラスのねぐらになってるみたいで、がーがーと濁ったカラスの声が空気を満たしていて、そのざらざらした音色に体ががりがりと削られて行くような気がした。

 空気に溶け込んだ夕闇のせいで、全てのものの輪郭がぼんやりと滲んでいる。参道の石畳の両脇に立つ灯籠も、じわじわと輪郭から空気に溶け込んで行ってるように思えて、そんなぼやぼやしたものに両側から見つめられていると思うと、どうも気持ちは落ち着かなかった。

 ぽつぽつと灯っている灯りを頼りに本殿の目の前へと行く。きちんとお賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、柏手を打つ。

 どうか、この思いが叶いますように。

 そういうことを、心の中でつぶやく。

 心の中のつぶやきは、自分の声だ。だから、背後から自分のものではない声がすれば、当然びっくりする。

「へえ、あんた、好きな人がいるんだね」

 振り返る。少しだけ視線を下げると、まるでこの世のものではないような美しさの少女が立っていた。…………おお、着物を着ている。白地に薄桃色の柄が流してあって、ぼんやりと明かりが灯ったみたいに、明るく見えた。

 彼女は長く黒い髪を揺らしながら、私との間合いを詰めてきた。一歩一歩近づくにつれて、彼女の透き通るような白い肌とか、細く通った鼻梁とかが、この薄暗い空間の中で、着物の色に照らされてぼやっとうかびあがってくるようで、それが彼女の「この世ならざるもの」っぽさの源だと気づいた私はじりじりと後ずさった。

 とん、と賽銭箱にお尻がぶつかって、これ以上後ずされなくなる。なのに彼女はじりじりとにじり寄ってきて、鼻の頭が触れるんじゃないか、って距離まで顔を近づけてくると、その真っ黒な瞳の針で、私の瞳を標本箱の中の昆虫みたいに留めてしまった。

 私の目の前で、彼女はまくし立てた。

「あんたは好きな人がいる。そして、意気地なしだから告白できないし、親友に相談することもできないけど、何かの拍子でここの神社のことを聞いたから、とりあえず来てみた。そんなところ?」

「あ、あたり……」

 自分の声がいつもの半分くらいまで小さくなってるのを感じる。それを自覚した途端、なんだこの女、っていう怒りみたいな気持ちが湧いてきて、私もずい、と体を起こした。一瞬だけ鼻の頭が触れて、それから、目の前の彼女も私も、まっすぐに立った姿勢になる。

 同じ姿勢になって、私は威勢を取り戻した。できるだけ強気に聞こえるように、聞き返す。

「で、あんたはなんなの?」

「私? 私はここの神だけど」

 どこ中出身? 西中、くらいの軽さで、彼女はそう言った。へえ、神様。神様なんだ。神様がわざわざ、私なんかのために姿を表してくれたんだ。ご苦労様なことです。

 ロマンがないけど、それならそういうことでいいや。

「じゃあ、私の願い事も全部聞いたんだろうし、叶えてくれるってことでいいの?」

「いや」

 彼女はにやり、と笑って首を横に振った。長い髪がサラサラと揺れて、なんかいい匂いがふわりと立ち上った。これが、神様の使ってるシャンプーの匂いなんだろう。

「私は、いろんな言葉の概念を人に付与することしかできない。つまり、その人自身を、ある概念の擬人化にするってことね。

 例えば、あなたに時計って概念を与えたら、いろんな人はあなたを見て、時を知るようになる」

 なるほど。ずっと同じ動きをするようになるとか、体に針が三本生えてくるとか、そういうことでなく、つまりは時計という存在が突き詰めればどういう目的のもとに存在するのか、ってところに、擬人化の核があるわけか。

 ま、よくわからないし、この理解で合ってるかどうか知らないけど。

「で、あなたの願いはなんなの? もう一度言ってみて」

 さっき自分で完璧に言ってたじゃないか、と思いながら、しぶしぶ声に出す。

「好きな人がいて、その人に告白したい」

「そのためには?」

 そのためには? って聞きかた、雑すぎない? と思って戸惑う私に、神様は微笑んだ。

「告白を成功させるために、必要だと思うことは?」

「……勇気を出す」

「どうすれば勇気を出せる?」

「えーと…………」

 ふと悩んでしまった。勇気が出ない、勇気が出ないと言っている割に、どうすれば勇気が出るのか、全く考えてなかったことに気づいた。

 なんとなく思いついたことを口にする。

「相手の心が解ったら、勇気が出る…………かも」

 私の言葉を聞いた神様は、そんな私の言葉を聞いて、再び微笑んだ。

「じゃあ『探偵』なんてどう? 探偵は推理をする存在。だけど、それは、相手に対する細やかな観察と、鋭敏な直感に裏打ちされている。相手の心を読めすぎても困るだろうし、探偵の推理で相手の心がわかるくらいが、ちょうどいいんじゃない?」

 あ、それ、いいかも、と思ってしまった自分をしばき倒したい。しかし、やっぱり、じゃあそれでいいや、と思えるくらいには、その選択肢は魅力的だった。

 どうせ、何もなくてもともとだしね。

「じゃあ、それでお願いします」

「りょうかい」

 神様はそういうと、ぱちん、と指を鳴らして見せた。

「はい、おわり」

「え、これだけ?」

 もっとなんかこう、鈴の音がしゃなりしゃなりとなってるような空間で、あるいは蠟燭の炎だけがゆらゆらと揺れているような暗闇で、もっと面倒臭い手続きが必要なのだと思っていた。

 でも、神様はあっけらかんと笑って言うのだ。

「神様だからね。そんな面倒くさいことしなくても、大抵のことは一瞬でできちゃうんだよ。これくらい近くに来てくれればね」

 そういうもんなのかー、って、私は不思議と納得した。



 その夜は、風が強かった。



 そうやって、なんか変なことがあった、という思いだけを胸に家に帰り、いつもみたいにお風呂はいってご飯食べてうだうだして寝て起きて、学校へと向かう。一日は目まぐるしく回転していき、回転しながら、徐々に徐々に深いところへと落ちて行く。深いところは暗いから、私たちはみんな、自分がどこへ向かっているのかを、知ることがない。

 でも、そういうことは、別に常に自覚してるわけじゃなくて、なにか日常に断絶が起きた時だけ、ふと、そういうことを忘れていた自分に気づいて、初めてそれを知るのだ。


 自慢じゃないが、私は朝が早い方だ。運動部の朝練が始まるよりも早く教室に行く。別に朝の清廉な空気が好きだとかそういうことではなくて、なぜか親が早起きで、そのせいで、私も早くに支度を終えてしまって、そうやって物の弾みで早く学校へとたどり着いてしまうだけなのだ。

 今日もそうやって、誰の革靴も入っていない下駄箱に革靴をしまい、長いこと履き続けて柔らかくなった上履きに足を滑り込ませて、人の姿のない廊下を、少しだけ冷たい空気を切りながら歩く。教員が朝礼を行なっている最中の職員室へと寄って教室の鍵をもらい、階段で三階まであがる。

 夏に比べれば低くなった太陽が、廊下の窓を覗き込んで、朝の柔らかい光を投げかける。そんな光に包まれた、そんな光だけに満たされた教室が、今日も私を迎えるはずだった。

 車輪にガタの来た扉に鍵を差して回し、少しだけ力を入れて引き開ける。

 ごろごろ、と重そうな音を立てて、教室が口を開けていく。中には、整然と並んだ机たちが……。

 …………整然とは並んでなかった。

「なにこれ……」

 思わず言葉を口にしてしまう、ということを経験したことがなかった。だから、これが多分、私の初めてなのだ。

 初めてには、申し分ない景色だった。

 机はみんな、教室の端へと寄せられている。いつも机に満たされている教室の真ん中には、ぽっかりと何もない空間ができて、大きく丸く、床が見えている。

 いや、何もないわけじゃない。

 教室の真ん中には血が満ちていた。

 血の海の上には、屍体とナイフが転がっていた。足も手も体も、自然に寝っ転がってもそうはならないだろうな、というねじれ方をしている。血にまみれた顔だけは天井を見上げている。目だけはかっと見開かれていて、

 ……もうやめよう。

 そこまで観察して、私はこの体の持ち主が誰かを知ってしまった。知ってしまったのに、もうこれ以上見つめるのは、無理だ。

 これは界人くんだった。

 スカート越しに冷たい床を感じて、あっ、腰が抜けたんだ、と気づいた。どうしようとか、なんでこんなことにとか、焦りとか不安とか、なんで私がこんなもの見なきゃいけないんだっていう怒りとかそういうのが血管を通って心臓にたどり着いて、どこどこと内側から叩きまくっている。

 暴れまわる心臓を放置して、私は体を引きずって界人くんの前まで行った。なにか冷たいものを触った気がした。手のひらを見てみる。赤い液体だった。てらてらと気持ち悪い光を返すそれを見て、私はもう自分の手が汚れるのを気にしなくなった。

 この血の海は、まだ液体だった。つまり、固まっていなかった、ということだ。血はすぐに固まるから、界人くんは殺されて間もないということになる。もっと言えば、この学校が開いてから今までの間に。

 でも、下駄箱には、私以外の革靴が入っていなかった。ということは、犯人は教職員の誰かか、生徒が早く登校してきて、革靴を履き替えずに彼をここで殺したか、だ。

 しかし、教職員ではあり得ない。なぜなら、さっきの朝礼は全ての教員が出席すべきものだからだ。仮に誰か教員が彼を殺したとして、これだけの返り血を浴びた直後に、ああやって朝礼に出られるだろうか。着替えを用意してもいい。でも、この教室には鏡がない。返り血が何処かに飛んだかもしれないのを放って置いて、いずれ屍体が露見する状態に放置して、廊下を堂々と歩けるだろうか。

 じゃあ、生徒ならば誰だろう。犯人は、私より前に教室の鍵を借り、ここで界人くんを殺し、再び教室の鍵をしめ、それを職員室へ返したはずだ。

 しかも、昨日私が戸締りをした時は机はきちんと並んでいたから、犯人は、机を移動させてから真ん中で界人くんを殺し、それから鍵を締め、何処かへ行ったのだ、とわかる。

 なら、犯人は、これほどまでに机が異様な並び方をしている教室に界人くんと入っても界人くんに怪しませず、その真ん中で彼を殺してしまうことができるくらいには、彼と親しかった。もっというなら、この、真ん中にぽっかりとスペースが空いた異常な机の並びに、必然性を与えられる人間だった。

 全部推測だ。でも、私の推測は、なぜだろう、止まらなかった。

 この机の並び、私には一つだけ、必然性を思い浮かべることができた。

 これだけ大きなスペースが必要だったということは、ここで何か大きなモノを扱おうとしていたということだ。

 彼に関係する、大きなモノ。……垂れ幕だ。

 私は窓枠を見上げる。紐は結ばれていなかった。もう垂れ幕は、取り込まれてしまった後だった。

 多分、犯人は彼にこう持ちかけたに違いない。「垂れ幕のスローガン、誤字ってね?」こっそり二人して直そうと、この教室に入る。教室の真ん中にスペースを空け、垂れ幕を広げる用意をしようとして、ぐっさり。

 そして、再び教室に鍵を閉め、後にする。職員室から普通の教室の鍵を借りていく生徒なんて、先生はいちいち見てないから、これで第一発見者が私になる。

 犯人は大石くんだと私は思った。

 ……なにを冷静に、私はこんなことを考えているのだろう。なんで好きな人の屍体の前で、そんなことを考えているのだろう。

 その答えを私は知っている。

 推論が当たっていようが外れていようが、私は探偵だからだ。

「系ちゃん?」

 背後から声がした。私は振り返った。素子ちゃんが、朝の柔らかい光の中で立っていた。どこにも穢れのない景色に思えて、私の心臓は急に、騒ぐのをやめた。

 目の端に時計が見える。私がこの教室に足を踏み入れてから五分と少ししか経ってない。

 なんて、細かい景色ばかり観察してしまうのは、私の口が、舌が、うまく言葉を紡いでくれないからだ。

 でも、見ておくれよ、素子ちゃん。こんな状況だ。あなただって意味がわからないだろう。

 主観的な出来事の描写でいいなら聞いておくれよ。

 私は精一杯言葉を紡ごう。

「素子ちゃん、素子ちゃん……」なんだ私「界人くんが、界人くんが、さあ…………」きちんとこうやって「朝、来たら、教室に、来たらさ」言葉にしてみれば「ここで、こうやって、その、ここで、こうやって、ばーって血をさ……」そうだ、言葉にしたら「ぶちまけててさ……」感情がきちんと定義されて。

 ほおをなんらかの水滴が流れ落ちていった。

 私はそれを拭おうとも思わない。

「死んでて……さあ…………」

 ほら、きちんと泣けるじゃないか。



 私はわあわあと泣き続け、それを見た素子ちゃんは我に帰って職員室へと先生を呼びにいった。

 その間もわあわあ私は泣き続け、走って来た先生に、半ば引きずられるように教室の外へと連れ出された後もやはり私は泣き続けた。

 何が界人くんを連れ去っていったのか、私にはわかってしまっていたから、ただもうあとは悲しむだけだった。悪者の顔が見えるというのは、かくも悔しいものだった。悲しさも、それはちょっとあるけれど、でも、悪者の顔が見えるのに、そして私はそれを指差して罪を糾弾することができるのに、なのに、もう私には界人くんを再び動かすことができない。もちろん、心だって知ることができないし、告白したって返事はもらえない。

 それは、明らかに悔しいという感情に相違ないはずだ。

 素子ちゃんは私の肩を抱いてくれていた。申し訳ないと思う。彼女だってあのからだを見ていたはずなのだ。あの血の海を見ていたはずなのだ。それなのに私ばかり泣いてしまって、本当に申し訳ないと思う。でも、やはり、申し訳ないと思いながらも、涙は止まらない。

 好きだったから、仕方ない。

 先生はてきぱきと教室を封鎖して、そのおかげで、教室の前にはわらわらと登校してきたクラスメイトたちが溜まり始めた。わあわあと泣き続ける私を見て、ものものしく閉ざされた扉を見て、そして、事情を聞いたクラスメイトたちは、ざわざわと小さな声で会話を始めた。ささめく声が、大きな並みになって私たちを取り囲んだ。

 私は涙で滲んだ視界の中で、彼を探していた。ずっと探していた。

 そして、すこしずつ増えていくクラスメイトたちの山の中に、彼を見つけた。

 私の膝はすでに力を取り戻していた。ぐいっと、最近下ろした冬服の袖で涙を拭って、立ち上がる。

 立ち上がって、大股で二歩。目の前に、私の敵が立っている。

 さっきまで泣いていた女の子がいきなり立ち上がって男の子に詰め寄ったのだ。クラスメイトたちは、全く知らない人の奇行を見たみたいに、ざわめいた。

 私は容赦なく、彼のブレザーの襟をつかみ上げてやる。彼のほうが背が高いが、関係ない。ぐっと力を込めて引き寄せると、いともかんたんにバランスを崩して私と同じ目線になった。

 なんだこいつ。こんな弱々しい奴に、私の思いびとを連れ去られたのか。

 許せない。なんだよ、そんなのってあるかよ。許せるわけねーだろ。

「おい!」

 私は噛み付かんばかりの勢いで奴に吠えた。周りの世界がホワイトアウトしたように感じた。もう、私の照準は定まった。

 私はもう止まらない。言葉は疑問形の連続だ。でも、答えなんて求めてない。言葉を濁流にして、目の前の敵を飲み込んでやるために私は吠える。

 なぜなら、悔しいからだ。

 なんで、お前は界人くんを殺したんだ。なんでこんな非力ななりで、彼を殺せたんだ。私から彼を奪ったんだ。聞いてるのか。なんとかいってみろ。今そこの窓から飛び降りて死んで見せろ。もう界人くんはいないんだ。そんな世界にお前だけがいていいはずがないだろ。お前も今すぐこの世界から消え失せろ。

 先生が羽交い締めにして私を引き剥がすまで、私はずっと吠えていた。涙は止まらなかった。

 あたりまえだ。


 結局、後からやって来た警察に、私や先生や彼は連れて行かれた。

 聞いたところでは、彼はあっさりと罪を自白したという。



 そうやって、悔しいことがあった、という思いだけを胸に家に帰り、ただ死んだ心を抱えてお風呂はいってご飯食べてぼうっとして寝て起きて、重い体を引きずって学校へと向かう。一日は目まぐるしく回転していき、回転しながら、徐々に徐々に深いところへと落ちて行く。深いところは暗いから、私たちはみんな、自分がどこへ向かっているのかを、知ることがない。


 私は今日も一番乗りだった。

 誰も革靴をしまっていない下駄箱に、ちょっとくたびれて来たローファーをしまう。柔らかくなった上履きを履いて、ぺたぺたと廊下を歩く。

 歩きながら、昨日のことを考える。好きをみればフラッシュバックする彼の屍体を思い出さないようにしながら、つとめて、昨日から今日の心の動きを振り返り、なぞってみる。そうすることで、自分を外から眺めている気になれて、どうにか落ち着けるんじゃないかって気がしたのだ。

 日々めまぐるしく回っていく日常に身を任せながら、そんな自分を外から見つめる。外から見つめている自分は、限りなく無心になれるような気がした。

 昨日と同じ、柔らかい日差しだ。

 昨日と同じ、少し冷たい空気だ。

 昨日と同じ、ちょっと重い扉だ。

 そして。

 昨日と同じ、彼の屍体があった。


 恐怖よりも悲しみよりも、もちろん悔しさよりも、戸惑いが私を殴りつけた。

 なぜだ、なぜ、昨日死んだはずの彼が、今日もここで死んでいるのだ。

 慌ててスマホを取り出して、今日の日付を確認する。昨日は十月の二十五日だった。確信はある。あれだけ衝撃的だった日の日付を忘れるはずがない。忘れるはずがない……んだけど。

 スマホのカレンダーには「十月二十五日」と表示されていた。

 しばらくその表示を見つめていた私を、追加の戸惑いが殴りつけた。

 えっ、えっ、これ、どういうことなの?

 なんで、昨日と同じ一日がやって来ているの?

 もしかして、昨日の出来事は全て夢だったの?

 夢だったとしても、今こうして目の前で界人くんが死んでいる。そのことに変わりはないのだから、ただ辛い出来事が二回訪れただけだ。昨日の辛いことが夢だったからと言って、何も救われたりはしない。

 でも、私の心臓はもう、昨日ほどには暴れなかった。たぶん、神様が私にくれた『探偵』という概念が、私を操っているに違いなかった。慣れてしまったなんて、絶対に思いたくない。

 奥歯を噛み締めて、彼の屍体を見下ろした。

 見た感じ、昨日と何も変わらない。でも、一つ違うのは、血の海が糊のように固まっているということだ。つまり、殺されてからそれなりに時間が経っている。

 昨日(私にとってはおととい)、私はこの教室に最後まで居残って、教室の戸締りをして、教室を出た。だから、私より後に下校した人はいない。だからと言って、校門が相手から今までの間に彼を早業で殺しても、ここまで血は固まらないだろう。

 もっと言えば、夜中は学校のセキュリティーシステムが働くから、侵入は不可能だ。

 となれば犯人は、昨日私が帰ってから夜中までの間にここへ入ることができ、しかも、ここに彼を呼び出して不審に思われない人物だった。

 担任の先生が犯人だろう、と私は思った。

 大雑把な推論なのは仕方ない。私はもともとそこまで洞察力がないから。

 でもやっぱり、考えてしまうのだ。彼を殺したのは誰か。世界から彼を奪ったのは誰か。

 私は悔しくて悔しくて、だから、その悪者が誰か、すごく知りたくて。

「系ちゃん?」

 薄々、予期していた。私の推理が終わったタイミングで、誰かが声をかけてくるだろう、と。

 きちんとしたタイミングで、素子ちゃんが声をかけてくれた。私はこうなることを知っていたような気がした。誰かが界人くんを殺して、私がそいつを見つけ出す。そのセットを中心に、ループが回っているのだろう。このループに私と界人くんの屍体だけ閉じ込められて、延々と回転している。私はずっと、推理している間じゅう、そんなことを考えていた。

 だから、この、一人と死で二人の閉じられた教室の中から、素子ちゃんが救い出してくれることを、心のどこかで待っていたのだ。

 体がただひたすらに重くて、昨日よりも自分の心が色褪せているのを感じた。薄く靄がかかって、自分の感情の輪郭を知ることができない。こんなことに慣れたなんて思いたくなかった。ただ、心が疲れきって、そのせいで外界からの刺激に心も体も追いつけなくなってるのだと思った。

 素子ちゃんは先生を呼びに行った。私はじっとその場に待っていた。これから私がすることを思うと、心臓は一人でに騒ぎ出した。騒ぎ出した心臓はどこどこと眼球を押して、ぎゅっとなった目元から涙が零れ始めた。

 やっぱり泣いてしまった。

 大声を上げるわけではない。ただ、しくしくと小さく泣いている。ほおを涙が湿らすがままにしておくと、先をゆく涙の作った道を、後から来た涙が辿って行って、やがて、顎の下からぽつん、と落っこちた。私はそんな些細な感触を、いちいち覚えていた。

 やがて、遠くから足音が二つ分近づいて来て、教室の前で止まった。

 私はぐいっと袖で涙を拭う。

 戦おう。

 私の思いを邪魔する奴に、噛みついてやろう。

 ちらり、と、頭の中をよぎった考えを振り切る。私はそんな考えを認めない。自分の恋路の行方を神様に委ねようとしたからバチが当たったなんて、そんなことを、この私が、認めるはずないじゃないか。

「系ちゃん、先生つれて来たよ」

 心配そうな顔で素子ちゃんが言った。大丈夫だよ素子ちゃん、心配には及ばない。私はもう自分の足で立ち上がれるし、この拳を敵に一発くらいめり込ませることだってできるんだ。

「先生、系ちゃんが登校したら、こんな感じになってたらしくて……」

 素子ちゃんが教室の中を指差したと同時に、私は立ち上がった。

 昨日みたいに大股で敵ににじり寄る。先生は昨日の彼よりも、一回り背が高かった。襟首をつかんで引っ張り下げようかと思ったが、多分先生は昨日の彼よりも力が強いだろう。

 私は両足を踏ん張って、仁王立ちになった。

 身長差なんて構うものか。

 私は先生を睨み上げてやった。先生の瞳の奥に一瞬だけ、怯んだ色が浮かんだのを私は見逃さなかった。

 もう、負ける気はしない。

 私は心の蓋を開けた。

 パンドラが開けた甕から飛び出す災いたちのように、言葉は勢いよくほとばしる。言葉は先生の体を縛り、固定し、粉砕した。

 それでも私は満たされなかった。


 結局、後からやって来た警察に、私や先生は連れて行かれた。

 聞いたところでは、先生はしばらく自白を拒んでいたものの、科学的な調査の結果をほのめかすと、すぐに犯行を認めたらしい。



 そうやって、なんか心砕けることがあった、という思いだけを胸に家に帰り、お風呂はいってご飯食べてぐったりして寝て起きて、学校へと向かう。一日は目まぐるしく回転していき、回転しながら、徐々に徐々に深いところへと落ちて行く。深いところは暗いから、私たちはみんな、自分がどこへ向かっているのかを、知ることがない。

 でも時として、そういうことを自覚する時が、人生にはある。


 朝起きた私は、まずスマホのカレンダーを確認した。日付には「十月二十五日」と表示されていた。

 つまり、また同じ日が繰り返されているわけだ。

 私はベッドの上で、大きなため息をついた。


 学校へと向かう。今日も一番乗りだ。

 いや、一番のりだと思っているのは自分だけで、本当は二番めや三番めなのだ、昨日おとといの経験から、私は知っている。一番めと二番めは、界人くんと界人くんを殺した奴だ。

 私は靴を履き替え、廊下を歩き、教室へと向かう。

 自分のクラスの前について、扉へ手をかけた一瞬、一瞬だけ、私は、扉の向こうにあの景色がないことを祈った。たぶん、この祈りは打ち砕かれるだろうという確信を抱きながらも、やっぱり、私はそう祈っていた。

 無駄な祈りだと思う。でも、やっぱり祈らずにはいられないのだ。

 呼吸を整えて、私は扉を開けた。

 祈りは届かなかった。誰に届けるつもりもなかったが、それでも、どこか、届いて欲しい相手はいたのだと、私は思った。

 机は過去二回の「十月二十五日」と同じように、教室の端へと寄せられていた。教室の真ん中にぽっかりと空いたスペースに、彼の、界人くんの屍体が転がっていた。目を見開いて天井を睨みつける彼は、広い広い血の海に浮かんでいた。

 今だって、震えるほど悔しいのだ。今日はもしかしたら、って気持ちが、ないはずがないのだ。私はいつだって彼に告白したい気持ちを抱いていたし、それがこんな形で妨害されるのを、当たり前だと思っているはずないのだ。

 だけど、もう、私は、自分が次にとるだろう行動を知っていた。それが、ひどく残念だった。

 私は推論した。彼の屍体に残された傷跡。彼の服についた染み。花瓶の水が無くなっていたこと。血は水では洗い流すことが難しいこと。これらのことから、起こったはずのことを推理というツルハシで掘り出しながら、暗い暗い坑道を突き進んだ。

 そして、私は真実にたどり着いた。

 

 あとはもう、話さなくても十分だろう。

 私は犯人を問い詰めた。犯人は何も有効なことを言ってはくれなかった。ただ、やって来た警察に罪を認めるだけだった。

 そして私はやっぱり、満たされない。



 あの神様に会いにいこう、と私は思った、

 私がこんな毎日に取り残されているのは、どう考えてもあの願い事のせいだ。

 私がダメだった。

 非日常を望むから。

 私の問題を、神様に頼ろうとするから。

 これまでにたくさん、あの神様に祈った人はいたはずで、なんで私ばっかり、って理不尽も感じるけど、それでも、仕方ない。

 あの神様に、この呪いを解いてもらおう。

 ごたごたした一日の終わりに私はそう決意して、重い重い体を引きずるようにして、例の神社まで歩いて行った。

 実際には三日前なのだけれど、「あの日」と呼びたくなるくらいには昔の、あの日、私はこの神社で神頼みをした。異様な美しさの神様が出て来て、私にいたずらのような呪いをかけた。

 お願いします。この呪いを解いてください。

 私は暗くなった神社の本殿の前で柏手を叩いて、そう祈った。

 じっと、手を合わせて、目を瞑って、頭を下げていた。

 と、さっきまで耳を聾さんばかりに鳴いていたカラスたちが、急に泣き止んだ。冷たい空気がゆらゆらと体の周りで揺れて、そよ風が私の制服のスカートを揺らした。

 何かが変わったのを感じて、私は瞼を開く。

 地面を何か履物が擦るような音が聞こえて、私は振り返った。

「せっかくあんたの願いを叶えてあげようと思ってかけてあげた『おまじない』なのに、『呪い』だなんてひどいじゃん」

 あの神様がいた。今日も着物を来ているが、今日のものには藍色の地に濃い紅色の柄が散っている。そんな暗い色合いの着物を纏っていても、やっぱり白く透き通る彼女の肌は、暗闇に蛍の光のように浮かび上がって見えた。

「神様、私にはやっぱり『探偵』の擬人化でいるのは辛すぎたんだ。だからお願い、せっかくかけてもらったお呪いなのはわかってる。だけど、このおまじない、解いてもらうことはできないかな?」

 私はそう言って、じっと神様の切れ長の目を見つめた。涼しげな瞳が、ちらりと一瞬だけ私を見て、それから、ふっと視線が切れた。

 彼女は、つん、と顔をそっぽへ向けていた。私も慌てて彼女の視線の先を追う。彼女はどうやら、神社を囲む林の切れ間から覗く、少しだけ欠けた月を見ているみたいだった。

彼女はぽつりと、言葉を口にした。でも、私のことは見ていない。ここではないどこかを見つめる瞳で、ここではないどこかへ届けたい声で。

 天におわします誰かへ、届けたいのかもしれなかった。

「私はおまじないをかけることはできる。でも、解くことはできない」

「…………え?」

「言ったでしょ、私には解くことができない、って」

 そうくるとは思わなかった。

 神様ならば、私を呪うことも呪いを解くこともできるのだと思っていた。だって、あんな指パッチンで私を呪って見せたのだ。だったら、呪いを解くのだって指パッチンくらいで済むはずじゃないか。

 なのに。

「なんで解けないの?」

「さあ」

 あくまで、つん、としたまま、彼女はそう言う。

「私だってそれがわかるなら苦労しないんだって」

 彼女の声は冷たかった。

 あれだけ殺人犯に食ってかかっていた私も、なぜかこの人の声の調子には、どうしても、噛みつく気になれなかった。

 だって。

 この人の声は、すごく、孤独だった。

「時が来たら、たぶん、まじないは消える。私はそう信じてる」

 彼女の言葉はいまだぽつぽつとしか紡がれない。私は黙って立ち尽くして、塞ぐことのできない耳から流れ込んでくる彼女の声を聞いている。

「でも、その『時』がいつなのかは、私にはわからない」

「…………」

「だって私は、神様、だから」

 神というか、それは造物主じゃないか、と私は思った。

 とあるものに概念を与える。それは、とある概念をものとして具現化することと同義だ。時計というものがない世界に私が生きていたとして、もしこの神様が私に『時計』って概念を付与したら、それは、この神様が時計を創造したのと同じことだ。

 その行いは、造物主のものそのものだ。

 だから、その概念を自分の手で剥がすことなど、できやしない。彼女はそう言っているのだ。

「でも、あなたが自分の力で『探偵』という概念から脱出できたなら、もしかしたら、あなたの抱えている問題は、解決するかもしれない」

 神様はそう言って、あのまっすぐな視線を私に戻した。私は体がカチコチに固まるような感覚にとらわれて、棒立ちだった体をさらにこわばらせて、彼女の視線を受け止めた。

「それって、具体的にどういうことをすればいいの?」

 私の疑問に、神様は直接は答えてくれなかった。

「『擬人化』とは、とある『もの』の普遍的な性質に、人の一般的な性質を付与すること。それはわかってる?」

「…………なんとなく、薄々は」

「じゃあ、話が早い」

 神様はそういうと、きゅっ、と自分の着物の襟を指でなぞった。絹をこする音が、私にはなんだか空間を切り裂く音のように思えた。

 そして神様は、定義をした。

「『探偵』とは、観る者。悼む者。過去を想像し、過去を描き、過去に囚われた者」

 そして神様は、この世界に線を引く。

「『被害者』とは死者。生という舞台を降りてしまった者。過去に閉じ込められ、誰をも観ることがない者。

 故に、『探偵』も『被害者』も、過去に閉じ込められた者。誰も見ようとしない真実の過去の中で、二人きりの永遠を手に入れる者達」

 意味の掴みづらい言葉の羅列が、私の頭に霞をかけて行く。

 神様の言葉は、霞の中のぼんやりした影として、頭の中をするりするりと通り抜けて行く。


 結局私は、神様の言葉の半分も理解できなかった。

 最後の手がかりが、ころころと転がり落ちていった、その絶望を私は知った。



 翌日。

 私は学校に一番乗りした。

 教室の扉を開け、界人くんの屍体を見つけた。

 彼の屍体に残された証拠を発見して、犯人は林田さんだと推理した。

 私はそいつを問い詰めた。もちろん私は満たされなかった。


 その翌日。

 私は学校に一番乗りした。

 教室の扉を開け、界人くんの屍体を見つけた。

 彼の屍体の周りに残された証拠を発見して、犯人は鈴木くんだと確信した。

 私はそいつを問い詰めた。やっぱり私は満たされなかった。


 その翌日。

 私は学校に一番乗りした。

 教室の扉を開け、血の海に浮かぶ界人くんの屍体を見つけた。

 彼の屍体の周りに残された証拠を発見して、犯人は桐生くんだと解った。

 私はそいつを問い詰めた。私は満たされなかった。


 その翌日。

 私は界人くんの屍体を見つけ、彼を殺した犯人を推理した。

 その翌日。

 私は界人くんの屍体を見つけ、彼を殺した犯人を推理した。

 その翌日も、そのまた翌日も、次の日もその次の日もそのまた次の日もまた次の日も毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。


 界人くんは死に続け、私は犯人を指摘し続けた。



 ある日、ごたごたした一日を終えた私は、すっかりくたびれて乾ききった心を見ないようにしながら、ご飯を食べてお風呂に入って、自室のベッドに横になっていた。

 ループのごとには細かい差異がたくさんあるのを私は経験から知っていて、偶然、その日は眠気の足が遅かっただけだった。

 ぼうっと横になって、私はただ、やがて巡り来る次の「十月二十五日」のことをぼんやりと考えていた。

 明日はどんな証拠が残っているんだろう。明日はどんな奴が犯人なんだろう。明日の私は、どんな吠え方をするのだろう。

 いずれにしても確かなのは、私は探偵で、必ず真実を指摘するだろう、ということだけだった。

 なのに。

 人の脳の働きなんて、当人達だって完璧には制御できない者だ。

 だからこれは、ただの偶然だ。

 本当の本当に、偶然だ。

 この前聞いた神様の言葉が、ふと、私の頭の中で像を結んだのだ。

「『探偵』とは、観る者。悼む者。過去を想像し、過去を描き、過去に囚われた者」

 確かにそうだ。被害者を見て、あったであろう過去を描き出す。探偵が探偵であるのはそういった作業を行なっている間だけで、だから、探偵が探偵である間、探偵は過去に囚われている。

「『被害者』とは死者。生という舞台を降りてしまった者。過去に閉じ込められ、誰をも観ることがない者」

 確かにそうだ。被害者がいるからこそ、探偵は探偵としての仕事をする。その間、被害者は何をすることもない。探偵は被害者のことを思い、被害者の過去を思い、それを自らのうちに思い描き、物語る。その間、死者は黙ったままだ。

 私の心の中に、小さな部屋が生まれる。その部屋に入り口はない。ただ、『過去』とだけ大書されたラベルが、乱暴に貼ってある。

 その中を透視してみれば、そこには二人の人間しかいない。探偵と被害者だ。探偵は熱心に被害者を見つめている。熱っぽい視線を送り、その一挙手一投足を見逃すまいと、見つめている。


 探偵は、被害者に、片思いをしている。


 さて。

 ここで疑問が生じる。

 全てのループで私が探偵なのはいい。それは私が望んだことだ。

 全てのループで犯人が違うのも、それは別にいい。神様は一度も、犯人という概念には言及しなかった。

 さあ、ここが重要だ。

 なんで、。被害者は、界人くん以外の誰かじゃ、ダメだったのだろうか。私の願いは、界人くんへ告白したい、ってことで、死んでしまった界人くんじゃダメなのだ。別に彼が被害者にならずとも、私は私で探偵としての洞察力(私の、ではない)で、彼の心だって推理できるはずなのだ。

 だから。

 もしかしたら、私の考えていることは外れているかもしれない。でも、それに賭けてみようかと思うくらいには、十分ありえそうなことに思えた。


 私は、起死回生の一手を図ることにした。



 クラスのLINEグループから界人くんを見つけて、彼にメッセージを飛ばした。日付が変わって三十分しか経ってないころの、つまり、もう何回めか忘れてしまうほど繰り返された、十月二十五日の12時30分の界人くんは、まだ生きていた。

 過去には、もうこの時間に彼が冷たくなっているループもあった。

 だから、これは幸いだ。幸せだ。彼がまだ生きている。

 待ち合わせ場所を学校近くの公園に指定して、私は出かけた。部屋着のまま出て行くのはなんとなく恥ずかしいから、少しだけ、ほんの少しだけ、気合を入れた格好をして、公園へ向かった。

 早く着きすぎた私は、どんな街にでもあるような小さな公園の、街頭に照らされたベンチに腰掛けて、界人くんを待った。

 待つこと十分くらい。

「やあ、待った?」

 界人くんが現れた。私は、がちごちに固まった体を無理やりほぐして、立ち上がった。笑顔のぎこちなさを自覚しながら、それでも、ゆるゆると手を振る。

「ううん。こっちこそ、こんな夜中に呼び出して、ごめん」

 私たちは、並んでベンチに腰掛けた。

 しばらく、私たちは二人とも黙っていた。

 そりゃそうだ。なんの要件で呼び出したのか、私は伝えていなかったからだ。

 早く言え。言ってしまえ! 私の沸騰する血液は、体に篭った熱に耐えきれず、あちこちで私を急かす。最後に残った全くいらない理性が、すごい力で、そんな血液を宥めている。

 言え。早く言え、言ってしまえ私。

 ええい!

「あの……さ、界人くん」

「な、なに……?」

 神様は私に探偵の概念を付与した。だから、私は探偵として、毎日界人くんの屍体と向き合い続けた。

 じゃあなぜ、屍体は毎日、界人くんのものでなければならなかったのか。それでは、私の願いとも合致しないし、もちろん、私が探偵であるから被害者は必ず彼でなければならない、という理由も存在しない。

 だから、私はこう推理する。

 それは、彼もまた、あの神社で神様にお祈りしたからだ。

 彼の願いは、多分「私に見つめてほしい」みたいな感じだったはずだ。…………これは、ただの推測だ。ただの推測ってことで、許してほしい。

 とにかく、彼は私に見つめて欲しくて、それを聞いた神様は彼に『被害者』の概念を勧めたはずだ。なんとも迷惑な神様だ。

 彼はそれを受け入れた。

 ……はずだ。

 だから、彼に私を『観る』ように仕向ければ、彼は『観られる』=『悼まれる』者の座から脱出でき、彼も私も、等しくお互いを観て、観られて、そういう関係になれると思ったのだ。

 それはすなわち、『探偵』と『被害者』という関係の瓦解に他ならない。そしてこれは、その関係を核とする、このループからの脱出につながるはずだ。

 全て推測だ。推理とは妥当な推測を重ねる行為に他ならない。だから、全ての推理は推測だ。真実を言い当てているかどうかは、真実が開陳されるまでわからない。

 で、どうやって、彼に私を観させるように仕向けるかというと。

 つまり、彼が私を意識せざるを得ないように仕向けるのだけど……。

「えーと、その、さ……私、ね……」

 あれだけとめどなく言葉を吐いたこともある私の口は、今はもう、錆びついて仕方がなかった。

 私の心の支えは、一つだけ。

 この告白が、必ず成功する理由も、失敗する理由も、どこにもないことだ。

 これが、遠回りして私が手に入れた告白へのエンジン。

 非日常を望む気持ちは、結局何も生み出しはしなかった。非日常で生まれる理解も、気づきもある。それだって大事なことだろう。

 でも、本当に大事なことは。

 こうやって。

 今の私のように。

 沸き立つ血をなだめながらも、恥ずかしさを乗り越え、伝えたい言葉を、間違いのないように、簡潔に、思いびとへと伝えることだ。

 こんなつまらない努力こそが、私の告白へのエンジンなのだ。

 この恋の結末は世界を変えない。この恋の結末は世界の平和へと繋がらない。

 セカイと繋がらないから、非日常が訪れて私の殻を剥ぎ取ってくれるなんて、そんなことは絶対にない。

 だから、ただひたすらな、地道でつまらない努力こそが、最初から必要だったのだ。

 今の私ならそれを信じることができる。

「その……君の」

 もう、逃がさない。この瞬間を逃さない。

 なんども、私たち生者の世界から死者たちの奈落へと、体だけを残して行った彼を、離さない。

 私は彼の袖口をぎゅっとつかんだ。

「界人くんのことが……」

 青白い街灯の光が、私たちを照らしている。おかげで、黒々とした空には星が一つも見えない。

 せっかくの告白なんだから、満天の星空の下が良かったな、と、そんなことを私は思った。

 そして、沸騰する血が、綺麗な結晶となって、言葉となる。


 私は、告白の言葉を口にした。



 告白の返事を、彼は口にした。それだけは、私と彼だけのものだ。他の誰にもあげるわけには行かない。

 一つだけいうとすれば、この次に訪れた朝は、十月二十六日の朝だった、ということだ。



 あと、それからもう一つ。

 私が考えていることがある。

 あの神様自身、だれか他の存在から、『神』とか『造物主』とか、そういう概念を付与してもらったせいで、ああやって私たちに概念の付与とか、そんなことをやってるんじゃないか、ってことだ。 簡単に言えば、他の神様から、神様としての概念を付与されてしまったんじゃないか、ということなんだけど。

 そのことを聞きたくてあの神社に何度か行ってみたけど、もう二度と神様は私の前に現れなかったから、もう確かめようはないみたいだった。

 ただ、もし私の想像が当たってたなら、それはなんと不幸で窮屈なことだろう、と思う。

 自分が何者か、それを自分で決めるのもまた、私の信じる『地道でつまらない努力』だと思うからだ。

 私は、彼女の幸せを祈っている。


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わたしというセカイについて 水島南 @Tama_yoshi

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