少女欲動

四葉美亜

少女欲動

 成りたかったものに成り損なった人間は、ややもすると卑屈かもしれないな、と思う。

「子供の頃って本当に馬鹿みたいな夢を持つでしょ? スポーツ選手に成りたいだなんて可愛いもの、本気で猫や犬に成りたかったりする」

 馬鹿よね、と夕夏は繰り返す。私はこんな歳になっても猫になってみたいけれど。

「けど、そんなレベルの夢想が実現してしまえるとしたら、それは果てしなく強い欲望、いえ、欲動と云って差し支えないでしょう?」

 その欲は欲求も欲望も踏みにじった先にある欲動だ、と自嘲気味に語る。私は生命であるのだとの叫び。とかく抗い難い衝動。望む望まないではなく、そんな易しいレベルを超えて、その先にあるものになってしまう、そう動いてしまう。

 だからこそ、それは欲動だ。

 夕夏の話は難しい。けれど、私たちはそうでもしていないと自らを認める事すら出来ない。そして社会が許さない。尤も、私たちがそんな理屈をこねくり回している事を知っている人は殆どいない。

 隣のテーブルでかしましくしている女子高生たちは、そんな事を考えない。今日の数Aが眠たかったとか、誰それが誰それと寝たらしいとか、そんな事ばかりだ。

 ピエロに成りたいわけでも、心理学者に成りたいわけでもないのに。

 そして私たちは、隣のテーブルと変わらないテンションで言葉と思考を練り、晒し続ける。

「だから私はこうやってるの。デタラメだけど、これが私の素だもん」

 夕夏はカシスオレンジだか何だか、蛍光色のドリンクに口をつける。ストローで、丁寧に。

「離れてくヤツもいた。正直ね。親から絶縁されちゃいないけど、親戚一同の集まりには呼ばれない。伯父さんの葬式も事が済んでから知らされた。ツマハジキにも合う。でも、そんな覚悟も無くてこっちもイノチ削っちゃいない。

 だから堂々と成人式にも行った。もちろん振袖でね」

 華やかな振袖がきっと似合うんだろうな、と想像する。細身で小顔、メイクもバッチリキメて、きっと誰だったかも判らない、すらりとした美人サンが会場に溶け込んでいたことだろう。

 私は曖昧な微笑でうなずく。夕夏は私の手を握った。華奢で骨ばっていて、真っ白な手。綺麗。

「彩ちゃんも、もっと自信もって。好きな服を着て、お化粧もして、もっと自己主張して良いの。絶対可愛いんだから」

 そうだね、もっと可愛くしなきゃ。伽藍洞な言葉は、いつもより少しだけ高めだ。

 三十分程話して、私たちはスタバを後にした。すっかり寒々とした夜道で別れるとき、夕夏は私を軽くハグして、また会おうね、必ずだよ、と言い聞かせてくれた。澄んだ声は淡く甘い香りを纏っていた。

「絶対可愛い女の子にしか見えないんだから。もっと背筋伸ばして」

 そんな言葉を残して、颯爽と立ち去っていったのだった。

 果たして彼女が私と同い年のひとなのか、最後まで信じられなかった。綺麗過ぎた。自然過ぎた。男として産まれて女として生きているイメージと、夕夏の姿はまるで一致しない。

 ロングコートのポケットに手を突っ込んで、イヤホンで世界に蓋をする。さっき女性ホルモンを注射した右肩が寒さに疼いた。自転車に乗った女子高生が忙しそうに私とすれ違う。もしかすると、あんな姿もあったのかな、と私はかつての自分を悔いた。


 鏡に映った姿は、誰のものかもわからない。

 髪は肩より下、胸のあたりまで伸びている。少しうねったり跳ねたりしていて、特別綺麗でもないし痛んでもいない黒い髪だ。面長で大きな眼、肉感的な唇、大きな鼻。母の二十歳くらいの写真と瓜二つの顔だち。その肌理はファンデとコンシーラーで否定されて、色白が強調されている。細く整った形を描く眉。うっすらと光の散ったようなアイシャドウが瞼を彩ってクマを消し、引き伸ばされたアイラインが瞳を強調する。右眼を緩く覆う前髪が、二重の左眼をより大きくする。唇には薄紅色のルージュ。

 落ち着いたクリーム色のロングコーディアンにワインレッドのセーターを着て、首元に薄紫のラピスラズリをつけている。ジーンズは細め。

 と、スーツを着た男のひとがトイレに入ってきた。そのひとは鏡を睨みつけていた私の姿をみとめると、半歩下がってたじろいだ。言葉未満の呻きのような、ああ、だとか、う、え、としゃにむに首を振る。

「大丈夫ですよ」

 とっくに忘れた低い声を出そうとしてみて失敗する。あなたは間違っていない、ここは男子トイレですよ、と伝えたつもりだった。結局、男は何かに化かされたような顔をして踵を返して退散していった。

「ねぇ、お前。誰」

 鏡から問いかけられる。財布の中身を半分以上注ぎこんで作りあげた虚像。未熟で無邪気な夢想は、終に現実へ接続する。この躰は何かを遺す事を許さない。誰かを残す事は許されない。私は高いお金を払って、私に消えない毒を突きさしてもらう。私は不連続で出来損ないな生命に成る。

 ささやかな復讐。産まれた事に対する、社会に対する、私に対する、母に対する復讐。後ろ暗さを消すためにポケットからピルケースを取り出す。ホルモン剤とエチゾラムとSSRIが提供する鮮やかな悪夢だけが、こんな私にキレイなセカイをくれる。

 えずくような吐気は既に愉しい。

 トイレから出た私を夕夏が出迎える。持ってもらっていた荷物を返してもらった。大きな紙袋にはイオンと地下街をぶらついて買い占めた私の服とアクセサリとが詰め込まれている。

「だからやめといた方が良いって言ったじゃんか」

 眉根を歪めて、いけない事をした子供を咎めるような詰問調。私は何も悪い事をしていないのに身をすくめてしまう。だって、と逡巡する私の背中を夕夏は静かに、力強く押す。

「ほら、今度からはあっちあっち。女の子なんだから」

 そんな簡単に言って。良いよね、夕夏は。後は戸籍だけなんでしょ? 呑みこんだ言葉は喉のあたりで引っかかる。あのオジサンのような反応に慣れきっている私は、通報されて警察沙汰になるくらいならと頑なに女子トイレを使わない。夕夏みたいな才能と素養の無い私に、透明な壁が立ちはだかる。

 そんな壁を、彼女はいとも簡単に突き破る。誰も彼女を咎めない。「女の子なんだから」この言葉は彼女には許された特権だ。東京の彼氏と別れた、とぼやく顔も自然。「女の子なんだから」彼氏がいて当たり前。女に成り損なった私は、男を好くことも女を好くことも許されない。どっちを好いても叩かれるだけ。

 強がって、私は彼氏がいると答えた。何処にもいない彼氏を頭のなかでつくりあげる。まるで妄想。妄想だからこそ綻びがつくられる。私はそれを、ファンデで肌を誤魔化すみたいにして隠していく。強引に括られた四つのアルファベットが、優しい顔で私の恋愛対象を緩く縛り上げる。

 じゃあ彩ちゃんは男の子が好きなんだ、と言われた時に、その綻びは妄想から現実へ接近した。

「でも、私はどっちでも良いって言うか……」

 夕夏はふぅん、じゃあバイなんだ、とそれでも普通に返してくれた。それがいけなかった。

「バイともまた違うかな、パンセク、ううん、もっと……欲の無い、って言ったらどうなんだろう。性嫌悪、みたいな。私って性自認も曖昧だからさ」 

 ぽつり、失敗だったと気が付いたのは言ってしまった後のこと。む、と彼女は難しい顔をする。どっちでも良いのでは無くて、もっと別の……言葉は不自由なまま、私の内から出ていかない。

「性嫌悪って何、要はアセク? 友達にそんな子いるいる。――ああ、でも欲が無いって何だ、その子とも違うのか」

 そんなものかな、と微笑んだ私は、きっととてもぎこちなかったに違いない。夕夏の難しい話を引き出してしまうのは私の、こんな綻びのせいなのだ。何かをまた言おうとして、彼女は口をつぐんだ。せっかくの買い物、暗くてややこしい話はこの華やかさとは似合わない。

 私みたいな奴は別だけど。

 私たちは薄ピンク色を基調にした、淡い彩りの売り場の集まりの前を歩いていた。さ、と切り替えるようにして夕夏は堂々とその中に入っていく。立ち止まった私を、一寸呆れたような、そんな可愛らしさで手招いた。

「女の子なんだから」その手は自然にそう告げる。彼女の特権をはっきりと口にされるより先に、私は下着売り場へ足を踏み入れる。可愛らしいものは好きだけれど、私には似合わない。そんな孤独な抵抗を優しさが破壊する。イヤホンで麻酔をしているのだと、私は空っぽの耳を空っぽの感触で埋め込んだ。セカイを知らなかった未熟な夢想は、それを現実にした彼女の手で、膨らみかけの私の胸へとあてがわれた。


 彼女が幻だったかのように死んでしまった事を知らされた時、私はやっと夕夏の名前を知った。

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