つながるということ。
街灯の下、僕らは文化センターの入り口に立つ。閉館時間がやってきたのだ。
「…なんだか、モヤモヤしますね」
梨沙ちゃんが息を白ませつぶやいた。
僕らは家路へと歩み出す。
「そうだね」
脳内をめぐる、質量ある思考。古文書改め、日記に記載された現実と非現実の狭間をいく出来事たち。それらは僕らを悩ませていた。
「私たちが、日記の二人の書き手に関して何も知らないから、というのもありますけど、読めるようになれば、全てわかるって思い込んでいたのが少し浅はかでしたね。真実に近づけたはずなのに、一気に遠くなっちゃいました」
残念そうに、悔しそうに俯く梨沙ちゃんの横顔が淡い街灯に照らされる。
「…なんか、くやしいですね」
「そうだね。でも、最後のページに書かれていたことが本当なら、この記録は後世の人間に伝えるために書かれているんだ。いずれ解釈できるようになるよ」
こんなわずかな期間で解読できた僕たちだ。どのくらいかかるかわからないけれど、きっと解けるはずだ。僕は思う。
「そうですよね」
梨沙ちゃんは額をあげ、僕に顔を向ける。
「今日で展開が進みすぎてとてもワクワクしちゃいすぎたのかもしれませんね。…根気が必要です」
彼女は胸元でガッツポーズをとった。表情は晴れていた。
「休みに入ったばかりだし、僕も引き続き調べてみるよ」
「そうですね。頑張りましょう!」
僕らは湾岸エリアを抜け、巨大な立体交通網を抜けると、市街地へと続く、大きな幹線道路の交差点に到着した。
「暗くなっちゃったし、どこかまで送ろうか?」
「あ、大丈夫です。ただ、一つお願いできますか?」
「お願い?」
「少し、寄り道して帰りませんか?」
いくつかの坂を登り、長い階段の先に広がったのは見覚えのある、半円状の広場だった。見上げる館には金色のライトを浴びて風見鶏が踊っている。
「もう少し、なんです」
あれから、市を南北に縦断する距離を歩いてきた。少し、という距離ではなかったが、二人での会話は話題に事欠かなかった。僕は、大学での生活を、梨沙ちゃんは、高校での生活を、それぞれの送る日々について話しながら、街を歩き抜けてきた。
そして、目の前に広がったのは、僕の知らない、冬の夜の偉人街通りだった。通りに沿って点在する街灯がほんのり照らし出しており、寒さの中に、暖かな心をもたらしてくれる。少し、その風情ある様子に見とれていると、彼女はせっせと、先へと続く石階段を上っていこうとしていた。慌てて追いつき、どこにいくのだろう、と少し不安になりつつも、僕は後に続いた。ただ静かな街の夜に、階段を登る、二人の足音がコツコツとこだましていく。
館の並ぶ細道を通り、住宅の密集する坂を抜けると、うろこ状の壁面で有名な館の裏手あたりの、コンクリート造りの階段のような坂道登っていった。
「きっと、気にいってもらえると思います。私のお気に入りの場所、なんです」
「お気に入りの場所?」
「はい。ただ、夜は一人で来にくくて…」
確かに、女の子一人で暗い夜道、それもこんな山を背にするような場所を歩くのは危ないに決まっている。ただ、逆を返せば、暗がりを一緒に歩いても大丈夫である、と信用してもらえているということでもある。そんな場所に僕を連れてくる、ということはどういうことなのだろう。考えあぐねていると、目の前の彼女が振り返り、手をこまねいた。
「こっちです!」
手袋をした彼女の腕に掴まれて踏み出すと開けた場所に出た。
「つきました! 振り向いてみてください」
光り輝く彼女は笑み、僕も光へと向き直った。
この輝きをどのように形容するのがふさわしいだろう。開けた展望台からは、神間に住まう、人々の光が観えた。マンションや街灯の淡い光。湾岸を進む船。ビルや鉄塔の赤い明滅。それぞれが星として輝きながら揺れ、時折流れる車が、流れ星のように神間の街を縫う。近くを見つめれば、旧外国人領事館のライトアップや、家屋がほのかに街を煌めかせていた。
「きれい…だね」
寒さを忘れるような光景に僕は思わず声が出る。そうだ、天の川だ。その美しさに漏れ出した言葉と、鼻先の冷たさが、夢ではないことを思い起こさせてくれた。
「…でしょう。だから、この場所が好きなんです」
欄干に寄りかかって街を眺めながら、彼女は口を開いた。
輝きを見つめる彼女の横顔から、白い息が明るい空へと消えていく。街の光にうっすらと照らし出される彼女の表情は神々しく、さながら、街を見守る女神のようだった。
不意に、この感覚をどこかで体験したような気がした。それもつい最近に。何だっただろう。何かが、彼女の表情に重なるのだ。
そうだ、レヴィーだ。レヴィーが祈る姿だ。街、人々。神間を愛し、祈りを捧げる、あの瞬間だ。無垢な表情が、あの日のレヴィーに重なった。
「これを見せるために?」
僕は尋ねる。
「なんと言ったらいいか…。見せたい、と言う気持ちもあったんですが、それよりも、私が見たかった、と言った方が正しいかもしれません」
彼女は街の光を見つめながら続ける。
「この景色を眺めながらであれば、うまい言葉が見つかりそうな気がしたんです」
「どういうこと?」
僕は、まだ真意がみえずにいる。
「…今、私の中にある感情を、拓郎さんに伝えておかないといけない気がしているんです。ただ、その感情をどう言葉で形容するべきか…。言葉がまだ見つかってません」
「伝えたい、感情?」
「…誤解ないように言っておきますが、恋愛の類の感情ではないんです。…難しいですね、不思議な感覚なんです。でも、今この感情を自分が理解して、正しく伝えられなければ、私は、大事な機会を逃してしまう気がしたんです。だから、この場所に来ることにしたんです。なんだか、整理できそうな気がしたから」
しっかりと前を見据える彼女は、少しずつ、言葉を続けた。
「私は神間に生まれてからずっと、この街で生きてきました。家と学校、部室、たまに友達と出かける買い物やテーマパーク。楽しくないわけじゃないけど、私は生活圏の中の、言わば箱庭世界に住んでいる、そう思っていました。
高校に入ってからは、ますます世界は閉じているように思えていました。受験を見据えた勉強。塾に行く子だっています。部活動もただ、毎日同じ繰り返しでした。なんだか、とても退屈でした。
じゃあ、外に出ればいいんじゃないか。そう、思うことが多くなっていました。いくらでもこの街の外には世界が広がっているわけですから。自分の住む世界が小さいと感じるのなら、外に出ればいいじゃないか。そう、思っていたんです。
でも、拓郎さんと出会って、古文書の暗号を知って、暗号を解くために色々探したり、この街の歴史を巡ったりして。私は、こうして狭く小さく感じ始めた街なのに、とてもワクワクしていました。不思議ですね、あれほどこの街に飽き始めていたっていうのに。
これは、どういうことなんでしょう。私は、考えていました。そして、気づいたんです。…私はこれまで、私の目線でしか、この世界…いや、神間という街を見てこれなかったんじゃないか、って。
知った、知らないことはない、面白いものなんてもうない、そういううぬぼれが、何も知らないという事実を遠ざけて、私はこの世界を箱庭とみなしていたんです。
でも、それは違いました。私は、自分の世界の外を、いいえ、自分だけの小さな世界だと思い込んでいた神間は、私だけの世界ではない、今、という”点”の世界ではない、そう気付くことができたんです」
僕は静かに、彼女の言葉を待つ。
「今日、この場所に来たこと、間違いではありませんでした。今、私の眼に映る、この綺麗な夜景は、昔からほとんど変わっていません。でも、この景色から抱く感情はより、奥行きを持つようになったんです。経過した時間、重ねられた歴史、息づく文化、様々な人々。それらあったからこそ、この綺麗な夜景があるのだと、わかったんです」
そう、言葉を言い終えると、彼女は僕を見た。心なしかすっきりとした表情から察するに、心の整理がついたようだった。
「やっと、わかりました。拓郎さんをここに連れてきたのは、感謝を伝えたかったから、だったんです」
「感謝?」
「私は、今が、この時間が、今までの人生で一番楽しく、ワクワクしています。拓郎さんと出会って、学校や大人が知らないこと、教えてもらえないものを一緒に解き明かしていく時間が。かけがえのない夢中になれる時間になっています。もちろん、解読したことで、山のような難題がでてきましたけど。それでも、そんな謎や難題を仲間だと思える人と一緒に、立ち止まり、苦しみながらも解決していこう、そう思える今がとても楽しくて仕方がないんです。
だからこそ、あの日。あの時間。あの交差点で。それも信号が赤で、たまたま前を向いてて、風見鶏が目に入って。
…声をかけなかったら、と思うと怖くて仕方ないです。
きっとその一瞬がなければ、顔を合わせることはあっても、ここまで話せる間柄になることはなかったかもしれない。古文書に興味を持つこともなかった。絵画の前で全てが繋がって、解読できた時の爽快感もなかったでしょう。
…つなげてくれたんです。箱庭の外の世界に。
繋がったんです。私たちの縁が。
拓郎さんが話してくれた、街を知ろう、という決意で」
そう言い終えた彼女は、姿勢を正し、僕に向きなおり、深く頭を下げた。
「拓郎さん、ありがとうございました。私に変化をくれて。きっと、私は今日のこと、ずっと覚えてると思います。たとえ、結末がどのように転んだとしても」
「そっか。そういうことだったんだね」
僕の決意が、一人の少女とつながり、世界の見え方が変わるほどの影響を与えたのだ。
期末試験を終えたあの日、街を知ろうとする決意がなければ
やわらかな斜陽に照らされたあの日、レヴィーたちと出会わなければ。
一緒にチョコレートを買いに行って、風見鶏を当てなければ。
その風見鶏をバッグにつけていなければ。
いろんな、僕の一歩や決断がこの場所につないだのだ。
「きっとそれは僕も同じだよ、梨沙ちゃん」
僕も微笑む。そのあと、街に向き直り、目を閉じ、手を組んで祈った。
「どうしたんですか?」
「何だか祈りたい気分なんだ」
ありがとう。祈る先はどこだろう。街、人々。ここに至るまでに出会った人たちの顔が思い浮かんだ。
「そうですね」
街の光の中、静寂が僕らを包む。寒くはなかった。
「…わたし、この街に住み続けることになると思います。高校を卒業して、拓郎さんと同じ神間(かみま)大学に通って。将来は警察官とか、街に貢献できる仕事に就きたいなって思ってるんです。その結末は変わることはないと思ってます」
彼女を家まで送るまで、僕らは話を続けた。
「素敵だね」
「それは、拓郎さんと出会った今でも変わってません。でも」
「でも?」
「拓郎さんに出会って、こうして夢中になれた時間のおかげで、ただ同じ毎日を過ごして、たどり着くそれとは違うものになると思います。
…私、前よりずっと街が好きになりました。そして、私の好きな街だからこそ、この街を守りたい。その思いが明確になったように思います」
「いいことだね。梨紗ちゃんはしっかりしてるな。僕なんて、大学生なのにまだなりたいものが決まってないよ」
僕がここまで導かれたのは、奇跡と言ってもいいだろう。でも、僕がこれからどこに向かうのか、どうなりたいのか。そういったものは、まだ不安の霧の中から現出していない。何かを学んだ先で、僕はどうなっていたいのか。僕は淡い空を見上げ、冬の寒さを、そして自分の情けなさをひしひしと感じた。
「何言ってるんですか! 私は確信してますよ。きっと、先輩なら素敵な未来が見つけられます!」
不安を振り払うように彼女は微笑む。街の輝きを反射させるその瞳を、僕は忘れないだろう。
「…あれ、ない」
「どうした、拓郎」
家庭教師のために、レヴィーの邸宅にやってきた僕は、ポケット入れたはずの小銭入れがないことに気がついた。
「小銭入れ、落としちゃったかも」
そういって僕は担いでいたリュックを下ろし、胸元に持ってきて漁った。最近、風見鶏をつけていたバッグとは違い、教材が入る大きめのリュックであるため、大口からリュックの中を覗くことができる。手でまさぐったり、外側のポケットを確認してみたのだが、どこにも見当たらなかった。
「家に置いてきたんじゃないの?」
「ここに来る前、買い物した時にはあったんだ。それで会計をしてるから」
「それなら、落としちゃったのかしらね…」
幸いにも、小銭入れには硬貨だけしか入れていなかったため、貴重品の類を失わなわずに済んだのが不幸中の幸いだっった。ただ、気に入っていた小銭入れだったため、少し悲しくなった。
僕の顔を見かねたレヴィーは僕の手を取り、歩き出す。
「念のため交番へ確認に行きましょう」
「残念ながら、今のところ、そのような拾得物は来てませんね。商店街近くですし、いずれ届く可能性はあると思いますが」
調書を取りながらおまわりさんは言った。
「そうですか」
僕はちいさくため息をついた。
「盗難の可能性もあるし、届出、出しとく? ここのところ、どうも盗難事件が増えてるから」
「いいえ。そこまで大ごとではないので大丈夫です。また確認に来ます」
そう言って、僕らは交番を離れた。
「最近盗難事件増えてるのってレヴィーは知ってた?」
商店街を歩きながら、僕は尋ねる。
「そうね。最近周りから聞いたりするけど、財布とかじゃないわ。どちらかというと、もっと価値のあるもの。美術品とか、ね。家から美術品が盗まれたからあなたも気をつけなさいよ、なんて話をこの前のパーティーでおばさまから聞いたわ」
美術品か。絵画か、壺か。それとも彫刻か。お嬢様の想像と僕の想像は合っているのかわからないが、物騒な世の中ではあることは確かだ。
「戸締りはきちんとしないとね。そうなると、僕のは落とした、ってことだろうね」
そう思いつつ、僕は古文書のある一節を思い出していた。
『最近、文化財の盗難が増えてきています』
遥か昔の話だから関係ないとは思いたいけれど、レヴィーの話も相まって、あの古文書に書かれた災いの予兆なのではないか。思考が脳裏をよぎった。
『どうか繰り返さないでほしい
街を救ってほしい』
「どうした、拓郎?」
「大丈夫だよ」
いろんな考えが僕の脳をかき混ぜ、かき乱していく。
それでも、僕の思いは揺らがなかった。ひとつひとつ、向き合って。一歩ずつ踏み出していくんだ。そうすれば、きっと解決できる。これまで、自分から抱くことのなかった、感情が、思いが、自信が、僕の中に生まれていたのだった。
「帰ってくるさ。きっと」
この街は暖かい。違和感と疎外感で満たされていた、あの頃の街の空気は、もうどこにもなかった。故郷のそれのように沸き起こるようになった親近感は、僕がもうひとりではないことを改めて実感させる。僕はようやく、街の住人になれたのかもしれない。
二章、完。
この街のはざまで、僕は。 秋山津 沙羽 @heat2atsu
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