『五月三十一日 21:23からのスタート』
「大き…くなっ……てね」
強がった言葉……それだけ言うのが精一杯だった。
だってそれ以外に何が出来るっていうの?
故郷へと帰る電車に乗り込んだ私、いいえ……私達に残された時間なんてあと数分も無いっていうのに……。
辛そうに耐える彼にかける言葉なんて私にはそれしか無いの。
だって私は夢を諦め、そして彼とも別れて、生まれ育った場所へと帰ることを決めたのだから……。
約束をするように頷く彼に精一杯の笑顔を見せて、電車の扉が閉じられる。
これで正真正銘、今から私は東京を離れるのだ。
どうしようもない事実にあらためて気づき、私はゆっくりと背中を向ける。
だってもう耐える必要が無いの……。 せめて夢を追いかける彼の後ろ髪を引かないようにするために『良い女』を演じる理由は駅から離れたいま、もう無いのだから。
涙で視界が曇る……そして同時に思い出も蘇ってくる。
『俺の作品でここにいる奴らを納得させてやるのさ』 『みんなが求めるものをつくるんじゃなくて俺が作りたいものであいつらを夢中にさせてやる』 『どんな不道徳なものでも面白いと思わせるために俺は生きてる』
屈託も無く笑って、そう宣言する彼に苦笑する周囲。
傲慢にも思えるそんな言葉に、仲間にも嫌われても、自分自身が苦しめられても彼はまるで今日が自分の命日のように作品を作りつづけようと足掻いていた。
時にはあえて挑発的な作品を作ろうとして無視されることもあり、お題が来ないとやきもきして今も胃を痛めている。
そして自己が望んだことでも、自らの不甲斐なさやいい加減さに腹を立てて泣くこともあった。
どれも私には無いものばかりだった。 上京の折には絶対なって見せると目指した夢は楽しい都会生活の中で徐々に削られ、あるいは他の『夢を持った人間達』に圧倒されて、優先順位が私の知らないうちに下がっていった。
それでも仲間と夢を目指すことは楽しかったし、努力をしなかったわけでもない。
ただ私には彼や彼の同類のような人たちのような情熱が無かった。
そして一日ごとに生じる僅かな差がやがて気づくほどになり、それが積み重なって追いつこうとする気も起きないほどに広がっていく。
私が夢を諦めて故郷に帰ることを言うと彼は、
「……そうか」
とだけ言ってくれた。 無理につなぎとめようとしないその優しさにかえって私自身の覚悟は固まった。
彼が引き止めないうのなら……つまりはそういうことなのね。
すでに電車は東京から出ていた。
一通り思い出と悔しさ、そして未練を体外に出し、私は乗換駅のトイレでまだ顔についている『それ』を洗い流そうと洗面所の前に立つ。
消毒液臭くない水によって東京から大分離れたことを感じながら、洗面のついでに化粧も直す。
すっかりと『それ』は洗い流したからか心はスッキリとしていた。
まだ彼のことを思うとズキリと心が締め付けられるけれど、いつまでも後ろを向いてはいられない。
男と違って女はいつまでも思い出には耽溺しないで、上書き保存するようにすっぱりと動くことが出来る。
恋人と別れた後でも、化粧が乱れることは無い。
彼と共に見た夢は終わってしまったけれど、それで私自身が終わったわけではない。
まだ流しきれない感情の痛みを糧に私は前に進まなければいけないのだ。
化粧が終わった鏡の中の私はニコリと笑う。
すでに涙の痕跡は無く、何かを決意した女の姿がそこにはあった。
東京 中田祐三 @syousetugaki123456
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