一角の蜘蛛
中秋の頃である。
専信は日課の寺の掃除をしていた。専信は幾度も繰り返してきた掃除に、飽きを覚えていた。炊事場、倉庫、師の部屋、幾日も幾日も見続けてきた場所の数々がそこにはあった。
もはや此の地に学ぶべきことなし。幾許かの焦燥と野心が専信の奥底に流れ始めていた。
しかし、掃除は掃除。やらねばならぬ。専信は黙々と手を動かし続けた。
すると専信はある部屋の床の一角に蜘蛛の巣が張っているのを見つけた。その巣の上には大きな一匹の蜘蛛が鎮座していた。蜘蛛は細く長いその足を、小さく折り畳み、縮こまっている。専信は餌を待っているのだろうと考えた。
専信はむざむざ追い払う事もないと思い、その蜘蛛をそのままにしておいた。
次の日、専信がまた寺の掃除をしていると、昨日と同じ場所に蜘蛛がいるのを見つけた。
蜘蛛の巣に、餌らしき虫は掛かっていなかった。
専信は何となく、その蜘蛛をじっと見つめた。
不思議な事に、その蜘蛛の態勢は昨日と全く変わっていなかった。
あれからこの蜘蛛は、ただひたすらにじっとしていたのだろうか、専信は粘り強い蜘蛛だと思った。
やはりその日もその蜘蛛をそのままにしておいた。
しかし、その蜘蛛は一日、また一日と時間が経過しても同じ巣の上で、同じ態勢のまま、決して動きを見せなかった。
専信は段々、この蜘蛛はもしかしたらもう死んでいるのではないかと思い始めた。そうであるならばさっさと片付けてしまうべきである。
ある日、専信はこの蜘蛛の事を照信に話しに行った。
その時照信は自室で雑誌を見ていた。開かれしページは、若き女子のグラビアである。
「師匠、ちょいとお話が。」
「おお、どうしたのじゃ専信よ。」
「……また何を見ているんですか。」
「いやこれはじゃな……」
「いや、もういいです。それより見て頂きたいものが。」
「なんじゃなんじゃ。」
「こちらです。」
そう言って専信は蜘蛛の下へ照信を案内した。
「この蜘蛛なんですが。」
「えらく大きい蜘蛛じゃの。足もいやに細長い。」
「はあ。この蜘蛛がですね、何日経っても全く動かないのです。死んでいるのでしょうか。」
専信が説明すると、照信は蜘蛛の間近まで顔を近づけた。
「……専信よ。」
「はい、何でしょう。」
「この蜘蛛、片付けてはならんぞ。」
「死んでいないのですか。」
「兎に角じゃ、片付けてはならんのじゃ。」
「は、はあ。」
照信はそれきり自室の方へと戻ってしまった。
専信は考えた。
(……師匠とて死んだ蜘蛛をそのままにしておけとは言うまい。で、あるならば、まだこの蜘蛛は生きているのだろう。ならばこの蜘蛛も、その内動き出すだろう。)
専信は何となしに合点がいった。とりあえずその日も蜘蛛をそのままにしておくことにした。
一日経ち、二日経ち、三日が経った。その間件の蜘蛛は決して動きを見せなかった。相も変わらず巣の上に鎮座し、小さく縮こまっている。
専信は再び蜘蛛の生死が怪しく思えてきた。しかし、死んでいるという確証もない。もし少しでも触ってみて、蜘蛛が死んでしまえばそれも殺生である。師匠が片付けるなと言うのであるから、どうする事も出来ない。
専信もただじっと待つ事しか出来なかった。
そして一週間が経過した。
蜘蛛は動かない。
専信は師匠による何らかの謎掛けであると考えるようになった。
しかし、一向に答えは思い当たらなかった。そもそも、問題が何なのかさえ分からなかった。
二週間が経った。
蜘蛛はやはり動かない。
専信は段々気が重くなっていった。蜘蛛の前を通る度、それを見るのが嫌になっていった。
照信は何も言わなかった。
そして蜘蛛を見つけてから三週目。
専信は遂に蜘蛛を見る度少し腹が立つようになった。
蜘蛛は動かず専信を悩まし続けている。忌々しき蜘蛛である。
蜘蛛が死んでいるなら動かないのは当然であるからそれはよい。しかしもし生きているなら何故動かないのか。何故動かずにこの己を悩まし続けるのか。それが専信には腹立たしかった。
しかし、生きているのか死んでいるのかもわからない。それが尚専信には虚しかった。
そして遂に一か月が経とうという日、専信は蜘蛛を片付ける決心を付けた。いや否、専信はただ、蜘蛛を摘まんで揺す振ってみようと思い至ったのである。
それで死ぬなら何もせずとも直死に至る、そういう状態であろう。専信はそう考えたのだ。
専信は蜘蛛の前にしゃがみ込んだ。そして専信は恐る恐る手を蜘蛛の方へと近づけていった。
やがて専信の手が蜘蛛に触れた時、専信は何かがピクりと動くのを感じた。
専信は手を止めた。
件の蜘蛛が足を開いた。蜘蛛は自分の巣から滑り降り、一目散に部屋の外へと走って行った。
専信は呆気にとられた。
蜘蛛は生きていたのである。
やがて我に返った専信は師の下へと向かった。
「師匠、あの蜘蛛は、生きておりました。」
「そうか。」
照信は驚きもしなかった。
「私が触れますと、颯爽と部屋の外へと逃げて行きました。」
「そうか専信、蜘蛛に触ったか。」
「ええ……。」
「何か分かった。」
「いえ。ただ……。」
「ただ?」
「何もせねば分からない事もあると分かりました。」
「うむ、それじゃ。」
「は?」
「見なければ見えない。聞かなければ聞けない。ごくごく当たり前の事じゃ。行かざれば至らずと荀子も言っておる。」
「……成程。」
「所で専信よ、最近何か別の事を考えてはおらぬか。」
「……。」
「したい事があるのだろう。」
「……旅に出てみようかと。」
旅立ちの日。
寺の前に二人の僧が立っている。
一人は背に鞄を背負いし青年、専信である。
もう一人は何も持っていない老人、照信である。
「専信よ、見送りがわしだけで寂しいと思うが、これ餞別じゃ。」
照信は懐より一巻の巻物を取り出した。
「これは?」
「開けてみよ。」
専信は紐を解き、巻物を開いた。
春画であった。
「……何処かで売って路銀の足しに致します。」
「……返すのじゃ。」
専信が空を見上げる。雲一つない晴天であった。
「……行くのか、専信よ。」
「はい。行って参ります。」
「何処に行くかは決めておるのか?」
「いえ、取り敢えずこの足で当てもなく、行ける所まで行ってみようかと。」
「ふむ、その方がよいじゃろう。」
「それでは師匠、これまでお世話になりました。」
「うむ。さらばじゃ、専信よ。」
「師匠もお達者で。」
専信は歩き出した。振り返らなかった。
後に残った照信がぼそりと呟いた。
「行けよ若人何処までも、行動の果てに何があろうとも……。」
2017/9/20
小石の記録 ナナシイ @nanashii
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