階段下の車椅子

足立 ちせ

階段下の車椅子

「おかあさん。なあに? あれ」


 幼い男の子が指さしたのは、歩道からそれたせまい石階段を下りたところにぽつんと佇む、変なカタチをした一台の椅子だった。


 引きとめられた母親がそちらをみて、少しのあいだ言葉に迷ったのち、答える。


「あれは『くるまいす』っていってね、ひとりで歩くのがたいへんな人が使うのよ」


 母親はわが子の目をみて話したが、その目はずっと、はじめて見るそれに向けられていた。


 ありきたりな車椅子だった。デザイン性にも機能性にも特化しているわけじゃない、障害を持つ人というよりは、介護目的のために一般家庭で広く使われるような。布地はおそらくチェック模様だったことが伺えるが、すでにその色は褪せ、大きな車輪や持ち手は錆びて光沢を失っていて、長い間風雨にさらされていることが遠くからでも見てとれた。


「どうしてあそこにあるの?」


 階段にスロープはなく、その先は行きどまり。地面も舗装されておらず、まわりにはまだ寒い時期にも関わらず雑草が茂っている。東京都内の賑やかな街だというのに、そこだけが喧噪から逃れ、浮き世から遠く離れた異世界のようだ。そばには一軒の民家があるが、ーーむしろこの階段はそこに住むものがこちらに来るためのもののように見えるーー壁は黒ずみひび割れたところを蔦が這い、窓も埃でくすんで、人が住んでいるとは到底思えなかった。


「お母さんには、分からないなあ」


 意味のない場所に置かれたそれはおおかた不法投棄だろうと母親は予想したが、そうは言わなかった。

 男の子はじっと車椅子を見つめたまま動かない。


 春を告げる柔い穏やかな風が、男の子の髪や、車椅子を囲む木々を揺らした。


「まってるのかなあ」


 こちらに背を向けて静かに佇む車椅子は、確かに自分を必要とする誰かを待ち望んでいるようにもみえた。

 あるいは、もういいんだよと、車椅子としての役目を終わらせてくれる誰かを。


「くるまいすもひとりじゃあるけないのに」


 つぶやいた声は母親には届かなかった。


 親子の遙か頭上をカモメの群れが飛んでいく。体が白く、觜と脚が赤いカモメたちは、青く澄んだ空によく映は えていた。


「ほら、行こう」

 優しく引かれた手に、男の子は素直に従った。母親は小さな温もりを自らの手の内に感じながら、歩幅の違う二人は同じ速度で、並んでその場を去っていく。


 男の子は歩きながら、一度だけ振りかえった。


 斜めから見た車椅子は、ざわめく木々の合間を縫って届いた日光で白く輝いていて、なんだか絵本に出てくる王様の椅子みたいだった。


 そしてそこには、うす汚れた一匹の老猫が、気持ちよさそうに体を丸めて眠っていた。




          ☆




 おはよう。


 おやすみ。


 ただいま。


 おかえり。


 ありがとう。


 ごめんなさい。



 そんな、当たり前でありきたりな言葉を、一つ一つ大切にしていこう。

 普通が普通であることは、日常が日常でいることは、本当は奇跡的なことなんだって。

 事故で私の足が思うように動かなくなって、彼と決めた。

 一日一日を大事に生きていこう。

 いつ、どちらが先に逝ってしまってもいいように。悔いのないように。


 そう、私たちは決めた。


 退院後、ほぼ寝たきりの生活だった私に、彼は車椅子をプレゼントしてくれた。

 安物でごめん。申し訳なさそうにこちらを見る彼を愛おしく感じた。

 布地は深い緑色と落ち着いた赤色が基調のタータンチェック柄に黄色と白のラインが入っていて、たしかに高級感は無い。何か凝った機能がついているわけでもなく、無骨で大きな車輪が両脇についた、ただのごく平凡な車椅子。

 それでも私には宝物に見えた。四年前、二人だけの金婚式に彼が贈ってくれた真っ赤な薔薇の花束と同じくらい、嬉しかった。

 残りわずかしかないはずのその日々は、思ったよりも長く続いた。一年、二年、三年・・・、四年。

 子どもなく、だからもちろん孫もなく、年金と、貯金を切り崩しながらの生活。

 家は都内だったけれど、通りへ出るには狭い石階段を上らなくてはいけなくて、私には無理だった。

 朝、彼が買い物やボランティアに向かうのを見送って、私は洗濯や、家や庭の片づけなどをして過ごす。

 その繰り返し。

 彼とじゃなかったら嫌になっていたかもしれない。あの誓いがなかったら飽きてしまっていたかもしれない。

 けれどそうじゃなかったから、私と彼は、そんな同じような毎日を一日一日、大事に大切に、楽しく生きてこれた。

 たまに、どこかの珍しい食べ物だったり、変な小物だったりを彼が持ち帰ってきて笑い合い。

 ある日突然やってきていつからか家に住み着いた真っ白な毛の小さな子猫を子か孫のように可愛がって。

 このまま二人、永遠に一緒にいられるんじゃないかなんて、そんな馬鹿なことを考えていたりもした。


 けれど、その日は唐突に訪れる。


 冬の終わり。前日までの大雨が嘘のように、穏やかな春の風吹く晴れた日のことだった。


 おはよう。  ー  おはよう。


 いただきます。 ー  めしあがれ。


 ごちそうさま。 ー  おそまつさま。


 いってきます。 ー  いってらっしゃい。



 ーーーー。   ー  ーーーー。



 けれど。


「ただいま」


 その言葉を聞く日は、ついにこなかった。

 雨上がりの空の下、いつものように笑って出ていったあの人は、その夜帰ってこなかった。




 一晩たった。

 彼は帰ってきていなかった。




 三日がたった。

 彼は戻ってこなかった。





 一ヶ月がたった。







 彼は、いなくなった。







 昼間に彼がいないのはいつもと同じことのはずなのに、やけに静かに感じた。

 静寂はこの一ヶ月ですっかり家にすみついて、数日前からやまない雨の音だけが、恐ろしいほど大きく、低く、響いていた。

 たまに、そんな空気を払うように、か細い鳴き声が響く。

 初めてこの家に来たときよりだいぶ大きくなった真っ白なその猫は、私を心配するかのようにほんの少しの移動にもわざわざついてきて、ついには私の膝の上が定位置になっていた。


 もう限界だった。


 いつまでもここであの人を待っていたい。

 その気持ちは日に日に増すばかりだったけれど、外出もできない私の1人暮らしには無理がある。

 彼がいなくなってから、急激に体の調子が狂っていっていることを、私は自覚していた。

 備蓄していた食糧は底をつき、今では電話で知人と連絡をとり必要なものを届けてもらっているが、いつまでも世話になるわけにはいかない。彼の居場所も未だに分からない。彼のためと思うと栄養バランスも自分なりに考えていたのだがそれもしなくなった。うるさいと思っていたあくびの音がないと熟睡することもできず、起床時間も睡眠時間もバラバラ。笑うこともなくなった。


 愛する人がそばにいない。

 たったそれだけで、はこんなにも弱くなる。


 そして、彼がいなくなってから32日目の朝。

 昨夜と皺の位置まで変わらない隣のベッドを呆然と眺めて。

 私は、あきらめた。

 寂しかった。けれど、不思議と悲しくはなかった。


 彼は、どこへいったのだろう。

 出先で死んでしまったのだろうか。

 それとも、どこか遠くへ行ってしまったのだろうか。私を置いて。


 思考停止しかけた頭で、この一ヶ月間考え続けていることをまた考える。

 だが、結局はどちらでもよかった。

 もし死んでしまったのならば、あと何年もしないうちにまた一緒になれるから。

 あの人がいないこの世界では、どうせ私は生きていけやしない。

 彼がもし、遠くへ行ってしまったのだとしたら。

 私と暮らすことで彼を苦しめていたのなら、そして今彼がどこかで幸せに生きているのなら、それでもよかった。

 かまわなかった。彼の枷になるくらいなら。


 雨が屋根を打つ音が空っぽの家に虚しく響いていた。



          ☆



 それからさらに3日後の朝、施設の職員が私を迎えにきた。

 知らない人におびえたのだろう、猫は不安そうに一声鳴いたあと、膝から音もなく下りてどこかへ行ってしまった。

 慣れた温もりと重みがなくなったことにまた喪失感と寒さを覚えたけれど、どのみちこの子を連れて行くわけにはいかないのだからと、自分に言い聞かせる。

 施設の制服を着た、柔和な笑顔を浮かべる長い髪を一つにまとめた薄化粧の女性職員が、車椅子を階段の下まで押してくれた。

 もう何年も昇っていない階段を見上げると、施設の車が停まっているのが見える。さらにその脇には、人の乗っていない車椅子があった。

 施設には施設の車椅子があり、あの人がくれたこれを使うことはできないらしかった。

 それを聞いたとき、私はむしろ安心するような心地がした。

 この車椅子は彼への想いがこもりすぎていて、私自身では離れることを決心できなかっただろうから。

 階段に背を向けるようにして車椅子が止まり。「失礼しますね」の声の後、体格の良い男性職員が力強く私を車椅子から抱え上げた。

「この歳になってお姫様抱っこされるなんて思っていなかったわ」

 素直な感想を漏らすと、男性職員は明るい声で「お望みだったら何度でもしますよ」と破顔した。その眩しい笑顔に微笑み返そうとしたけれど、上手く笑うことができなかった。

 危なげのない足取りで一段、一段、のぼっていく。

 抱えられた私は、少し仰向けの状態になって。



 ・・・雨上がりの、空。



 あの日の空。彼がいなくなった日の空と、そっくりだった。


 真っ青な大空を、カモメの群が気持ちよさそうに翼を広げて飛んでいく。

 白い体に、赤い觜と脚。


 ゆりかもめ。


 私はこの地に伝わる有名な句を心の中でつぶやいていた。



なにしおはば いざこととはむ みやこどり わがおもふひとは ありやなしやと


 ーーみやこどりよ、その名を持つおまえに問おうではないか。私の想うかの人は、都で元気にしているだろうかと。



 かつて在原業平が、京の都に残してきた人を想ってこの地で詠んだとされる詠。

 ここに出てくる「みやこどり」は、白い体に赤い嘴と脚を持っていて、本当は「ゆりかもめ」のことなのだと、昔、彼が教えてくれた。

 その詠に乗せて今、私は問う。



 空高く飛ぶあなたになら、天でも都でも見渡すことができるでしょう。あの人は、元気にしていますかーー



 どうしてだろうか。視界が霞んだ。

 年甲斐もない。自嘲気味に、無理に笑ってなんとか堪える。

 ごめんなさいねえ、と小さく呟いた私に、こちらを見た男性職員はまた明るく、安心させるように優しげに微笑む。

「これからは、今から行くところがあなたの家ですよ」


 そうじゃないのよ。

 声に出したら泣いてしまいそうで。

 階段の上に到着して、乗り心地の良い車椅子に座る。

 その感覚になんだかむずがゆさを感じながら、そっと下をのぞき込んだ。


 違う角度からみるそこはなんだか全く知らない場所みたいだった。その中に見慣れた車椅子がこちらに背を向けて静かにたたずんでいた。

 値段は安くても、おしゃれじゃなくても、特別便利じゃなくても。それでも私にとっては、ほんとうに、本当に、大切な宝物だった。


 さようなら。


 心の中でつぶやいて、名残惜しさを振り払うように目をそらしかけたそのとき、真っ白な猫が視界の隅に小さく映った。

 顔をあげる。

 私についてまわっていたその猫は、私の、彼の、車椅子のそばに座って、まっすぐこちらを見上げていた。


 ああ、そうか。


 変な声が聞こえた。しばらくして、それが自分の嗚咽だと気がついた。




 お前が、あの人の代わりに、私を見送ってくれるのね。

 お前が、私の代わりに、あの人を待っていてくれるのね。




 小さな子猫は肯定するかのように、じっと私の目をみつめていた。




 もう堪えられなかった。

 男性職員が私を見て、優しく微笑んで、そして何も言わずにゆっくりと車椅子を車の方へと押していった。

 車に乗せられた私はみっともなく声をあげて泣いた。自分でも信じられないくらい涙があふれて止まらなくて。考えてみれば、あの人がいなくなってから初めて流す涙だった。





 ありがとう。

 ありがとう。



 私と一緒にいてくれてありがとう。



 私を見送ってくれてありがとう。



 私を愛してくれてありがとう。




 最後まで一緒にいられなくて、ごめんなさい。






 走り出す車の窓から最後にみた階段下の車椅子に、真っ白な毛をした一匹の猫が飛び乗るのが、ぼやけた視界に映った。




          ☆




 浅草、言問橋。

 隅田川中流に架かるその橋へと続く道の近く、狭い石階段を下りたところには、なぜそこにあるのか誰も知らない古びた車椅子と、どこから来たのかも分からない薄汚れた老猫が1匹、静かに佇んでいる。



 何かを待つかのように。何かを求めるかのように。




 あるいは、何かを伝えるかのように。

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