虚ろな家

人の心、瑞々しい若さを纏った気高き豪奢な情熱というのはいともたやすく傷つき、錆びに塗れ朽ちていくものであることを知るのに時間はかからなかった。勝者となるとその潔癖な心はすぐに堕落を知る、何せ一度の審査を経ればテニュアとなれる、地方の大学とは言え三十に手が届く前に助教として滑り込んでしまえばそれは現代のアカデミッアにおいては勝者と言って間違いないだろう。まぶしい白さを失った古ぼけた壁、何もない部屋に運ばれる潤沢な資金で購入した嫁入り道具、初めて得る職場の個室に心を躍らせる―――それは私を老いさせると言う事を知り得ていなかった、人との関わりや情熱的な議論をする機会が奪われればすぐさまその知性は腐るのだ、しかし私はまだ知らなかった、というよりも自分が優れた存在であると信じ込んでいたのだろう。初めて知る五百万を超える年収は私の事を高ぶらせてくれる、金色のカードを持つようになれば自分がハイソサエティの人間だと勘違いするようになる。少しの心配であった―――もっともそれは後に正しかったことを知るのだが、それでも卒論、修論発表を見てまぁやっぱり国立大学であれば研究ができるし、外には出られなかった優秀な人間が集まりもすると思ったものだ。それはある種崇高な信念で後々多くの会議を経て知ることになる財政面での厳しさに対して何とか経済的に困難な学生のための救済としての地方国立大学の品位を保っていきたいと思いこむ様になった、まだundegraduateの学生と面と向かうことが無かったからだろう。これまでの業績の残滓を更に絞り上げただけに過ぎない単著論文を生産しては悦に浸り初年度の学生の簡単な数学と実験を担当し始めるようになる。その二つは現実を突きつけてはくれなかった、何せ回答の形が予め分かっているから幾らでもその表面を取り繕うことが出来るから。研究会議などに気軽に出席できなくなってきては居たがそれなりに"先生"とてまともな生活が始まってきているように感じていた、簡単な問題であれば、道筋が分かっているものであればこなしてくれる、打てば響くように感じさせてくれる素直な田舎の若者たち、毎週のように財布の事など気にせず酒と料理を心行くまで楽しめるようになり、休日はこれまでゴールドになるまで熟成した免許でバイクに乗って遠出をして青々とした山の中を縫うようになる。嫌なことは少なく、一限からある授業と長ったらしく答えも出ない学科会議程度で今の生活が実に充実している物のように感じさせてくれた、再び高校生までの生活で嫌だと思っていた澱んだ池の中に浸かっていっていると言う事も知らずに、既にあの頃の私は気づいていたのかも知れないが少なくとも纏まった金と安定した立場はそれを心から遠ざけてくれていた。一年という歳月は非常に速く過ぎ去る、二年目に差し掛かると専門科目を担当するようになる、言われた事をこなすことからある程度自分で物事を考えなくてはならなくなる学問を教えるということになるわけだ。私はそこで心が折れた、いや既にその内面が老いてきていることを知ることになるのだ。長い文章で書かれた課題を与える、抜けもなく整った形の、この駄文よりは遥かに論理的に記された課題―――自分が学部生の頃にやっていたようなものなのだがこなせる学生が一人二人しかいないのだ、それどころか恐らく文章も読めていないことに気づき始めるまでに時間は必要なかった。週の終わりだけでなく前半にまとまった授業をこなせばすぐ居酒屋に駆け込み焼酎を煽るようになる、今まさにそうしている、もうただ何とかなればいいとだけ思っている、それらしく生きられればいいんだ。飲み込んだ言葉、それは想像に難くないだろう、仮面を被る様に生きるようになってきた。外面だけは金で取り繕ってもその内面はすでに腐敗し始めていた。この国には文章が読める人間が少ないという言説を信じるようになり、表面の単語を恣意的に抜き出し並び替える病が流行っていると思い込むようになる。氷で薄くなった焼酎を継ぎ足して再び濃くすればこの舌を焼く、もうママと二人だけになった場末の飲み屋は私が立ち上がろうとすることを許さないかのようにも感じた、それは疲労と酔いからくるものなのだろうけど。最近また一つ搾りかすを書き上げた、ポスドクの頃は論文を書き上げるのにそれほど時間を要しなかった、取り組めば一週間もかからなかっただろうが今は一月は必要になるようになっていたことに気づく、それでも目の前の人には自分が聡い人間であるように見せかけていた。美味しいものを食べて酒を飲むという趣味、そうであるように思っているものはすでに変容していて、胃を焼く感覚と脳内をかき混ぜる酔いに溺れるためになっていた、今まさに素面の仮面を被りながらアルコールで心を焼いて何らかの感情を持つことが出来ない燃え滓にしている最中なのだから。いつの間にか外にいた、会計はしたのだろう、だけれどもまだそれを欲しがりコンビニで安酒を買う。この時間になれば車も少なく、疎らな街灯が少しだけ帰り道を教えてくれる程度。それがどうも本当は輝かしかったはずの、彩のあったはずの生活に突然裂け目が表れて扉が開かれ私を夜に飲み込んだように錯覚させている。隠れる場所が欲しい、家の事だな、寒いように思うけれどもそれは酔いのせいか、直ぐ近くにあるはずの隠れ家に向かうのも歩くには果てしなく遠く感じる、上下も分からない、崖っぷちを歩いているかのような感覚、下に目を遣れば飲み込まれそうな黒、どれだけそれが深いかすら分からない、この身体が傾いているようにも感じる。不安定さは私を這いつくばらせる、誰かに見られているような気がするから伏せないといけないんだ、匍匐しながら崖から落ちないように家に向かう、虚ろな家に、きっとひと眠りもすればまたまともな人間に戻れるはずさ。世間を呪うように通信機に向かって叫ぶ、なんで誰も私の言っていることを信じてくれないんだと、返事をくれないんだとこの口が紡ぐ。差し込む朝日、カーテンの隙間から差し込むそれは鉄格子に切断された光にも似ていた。白い部屋、こっちに移って来たばかり真新しい壁紙が色彩を取り戻し始める。身体が重たい、鎖で縛り付けられているかのような感覚、胃がこの身体から飛び出したがっている。

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Damn this radio 姫百合しふぉん @Chiffon_Himeyuri

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