なんでこんなことも分からないんだ
そんなポスドクらしい日々は一年も過ぎれば終わり、いやその後もポスドクな訳で、でも次の所の事はあまり良く覚えていない、一か月丸々休んだりもしたしな。なんというか、家も変えずに直通で母校まで行けるってわけ―――学科は変わるが、いろいろな分野を見ようとか、私が研究対象にしているものに真剣に取り組んでいると言ったら母校の違う学科か、パリ第六とかそういったところだからまぁフランス人と喋んのも面倒だし―――これは理由があって彼らの英語はフランス語の知識が無いと聞き取れないし人名もまともに読めない、何より食事がおいしくなさそうっていうのが一番かな―――K先生はあそこはメシがまずく自炊してたなんて言ってた。まぁそうすればすぐに飛んでくる、応用らしいテーマ、これは楽しくて試行錯誤がいっぱいいる、何せ現実の、Avogadro数個の数桁上の現象をちっちゃい計算機の宇宙に突っ込まないといけないわけで。結局彼の、研究室は一年もたたずに外に出た、まぁ助教にありつけた訳で。とは言ってもかなりチャレンジングで面白い課題であって今でも取り組んで―――どんどん課題を投げつけられるわけだが不快ではない、ただ結果を出せるまでのスパンが少し長いってだけ、二年くらいたってやっと色々書き始められる感じ、まぁ研究に関しては結構色々と知れたし、多くの研究室のキメラになっていたから色んなことを吸収できた、その頃には耳学問の達人になっていたから学生の試料合成法とか分析法とかも多くアドバイスしていた。まぁこれはいいんだけど、そのボスっていうのがまぁ外部資金で、つまりは学振から金が出てる私にはそう強くは当たらないし、ある種のRespect―――七光りだがそのボスの博士論文の審査をしたのがあろうことかK先生だったわけで自由をかなり与えられていたわけなんだけど子飼いの助教を使い倒し、学生には引き受けてきた課題を与え進捗が優れていなければお説教と、まぁそんな感じ。所謂みんなが思う研究室って感じだった、ドクターになると自由を得ることが出来るらしく、私が未だに面倒見ている子もいる。文化の違い、それでいいんだろう、グダグダ文句を言っても仕方がない、うちのおっさんが「企業から受けた研究はボクだけでやる、失礼やからね。」と言っていた理由をやっとわかるようになった、自分でやったほうが早いし、学生に無責任に投げつけるのも良くないだろうよ。宴会芸をさせる大ボスっていうのも初めて見たかな、飲みの席で学生に歌わせたりとか、まぁとやかく言う事ではないさ。進路については長く相談させてもらったし、最近の、私の分野の工業的応用の流行りとかも知ることが出来た、というか未だに色々教えてくれる、大型科研費の分担者にもしてもらえれば君の同世代で良いやつ知ってる?とかポスドクの融通すらね。こういわれるってことはまぁ単純に私はもう成功者の枠組みに入っているんだなと、結局ポスドクレースを抜けた年齢は29でかなり早い―――いやキャンパス内歩いてたら理学部の同級生が助教だったなんてこともあったが―――それと正反対で同じ学科の奴が無職だったりとか、世知辛いんだなとガキから大人になり始めていたころでもある。研究室とかいうブラック企業が永久就職の対象となりゆく中で私の所は誰もが羨むホワイトな職場にしてあげようとか思い始めた頃でもある―――それには多分あきらめが必要だななんて思ってなかった、単純に自分より優れた学生が集まればそうなるんだが、じゃあそうじゃない子たちをどうやって伸ばすとか、そもそもundergraduateをどうやって教えてあげたらいいなんで考えは欠如していた、せざるを得なかった、それは結局のところ、長々とポスドクとか助教とは名ばかりの研究員をしつつ学ぶんだろうなと舐めてかかっていた。まぁでもそんな事よりもこの時は結構私としては死とは何か考えるようになった頃でもあった、初めは父方の祖母が心臓の手術を受けた、連絡を受けた時には死ぬことの方が多いって感じだったな、大動脈解離。一命は取り留めたが予後の祖母は記憶が曖昧だった、それどころか何も覚えてなかった、何せ高校生の頃で記憶が止まっていたようで、私は結局父の同僚と言う事になった。術後譫妄でもなく負担が余りも大きかったのか、そのまま認知症になった―――怖かった、自分は耐えられなかった。母は嫁姑問題で苦しんでいたとはいえ何だかんだでそう問題は無かったと思う、これは個人的な希望だが。父は可哀そうな人だとは言っていた、それもこうでなければならないが強い人に対して思う憐憫からだったと思う、でもそんな事すら通り過ぎた、壊れてしまった祖母を真正面から見ることが全くできなかった、嫌悪、それ以外の言葉が無い、嫌だったんだ。生きると言う事が何か、という希望すら吸い取られるように記憶も、論理的な思考も奪われた言動が唯怖かった、私は耐えられなかった。子供だったんだと思う、父も母もうまくいなしていた、どうすれば老人ホームにそのままいてくれるかだけを考えていたように思うけどそれが冷たさから来るものではなく、何から生まれて来たことかすらわからなかった。私は嫌だった、アレはドクターの頃だったからそれ以降意図的に実家に帰ることを避けていた。余りにも怖かった、私すら蝕まれたように思う、神の陰謀―――きっとこれは創造主の陰謀でこうして老いたものを嫌えと言っているかのような、それほどまでに無慈悲な祖母の言葉、私はそれを避けて、知らないふりをしていた。ただ、ちょうど梅雨頃に祖母は死んだ、認知症になって二年、体力も落ち、嚥下性肺炎で命を落とした。そのことに安心感すら覚えた、私の事をもう恐怖させないんだって、母に「感情が無い」と言われたことがあった、多分大学に入って高校生の頃の同級生の記憶が曖昧だったから。でも本当にそうなんだと思う、私は親族の死を願っていた、これは紛れもない真実で、これ以上私を怖がらせないで欲しいという、そんな気持ちだった。丁度兄の子供が生まれていた、葬儀もおひがしさんのお坊さんの読経の中、赤ん坊の泣き声が響いていた、輪廻と、父が言った。多分それでいい、そう納得させてもらいたかった。私はまた自由になったように感じた、唯怖かったことから解放されたそれが何よりも私を安心させてくれた、多分別人が死んだ、祖母はあるとき突然消えて別人になって、それが死んだ。今はそれで私を許してほしい、では父と母がそうなったら私はどうすればいい―――酒を飲みたい。なんというかそんなことが梅雨頃に会って、それ以降も順調に論文を書いて、朝っぱらからあるセミナーで色々と学生にアドバイスをしながら時折あるレクリエイションも楽しんだ。何せ若手のセミナーで酒を飲んだ後にプールに飛び込んだくらいではあった、そこの学生たちとガキみたいにね。冬頃、たまたますごく緩い条件、分野が曖昧な物理学の研究、教育ができる人という条件の公募を見つけて応募した、その時のそこのボスと准教授のMさんに色々と聞いて―――特にMさんは同級生がそっちで准教授をしているからと深いことまで聞いてもらった。スタッフは附置研がある分豊富で余裕もあって研究もできると、書類選考も通って、着慣れて居ないスーツを着て面接に行く。通ってしまう、年度が替わる寸前の移動、送迎会も前日セッティングながら終電で向こうに行く訳だが最後にMさんが言っていた言葉をあまり守れていない気がする「研究者、ポスドクが長くなってくると口から出るのは、なんでこんなこともできないんだ、だと思う。そこだけ気を付ければなんとかなるよ」少し分野違いで、だけれども合成法とか理論計算の論文の読み方とかいろいろと話した、なによりボスよりも前にここどうですかと聞きに行ったくらい、少し人格の柔らかい人でさ。だからこそ私の微妙にとがっている部分を察してくれたのだろうか、まぁ絶対に口に出さないようにはしている、だけれども私は心の中で、インターネットの世界でどうしても口に出してしまうのだ、なんでこんなことも分からないんだ、と。
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