河内
この飲み屋、もう裏手は山と言った感じの田舎にありがちな飯もうまくなければ酒の種類も少ない、そんな場所でも私は居ついてしまっている。柄の悪い訛った爺さん、この爺さんがマスターって言われている理由は最近知って、今は閉店した居酒屋のマスターだったとかなんとか。その他にもいつもと変わらないメンツが集まり始めている、こうなってきても特に乾杯、なんてしたりする訳では無く、それとなくみんなで話し始める、先生、なんて言われてるけど一番年下、乾杯、な。「カンツェ!!!!」「カンツェ!!!!!!」、どこだっけ、赤い国の湖のほとりで飲んでいた時の事を思い出す、そんな風に叫ぶ客を見てNくんは「彼らは南から来た人たちなんだよ」と笑っていた気がする。そこは、縦に長い国で北はソヴィエトの観戦武官が多く西側からは余り破壊されなかったのか、共産圏でも発展した風景を見せていた、そういうなんというか南は遅れているというような感じすら受け取った。一回目のポスドクの最後、でかいプロジェクトに巻き込まれて―――それ自体は別に問題が無くて、使える財布が増えて今でも助かっている。そこのリーダーが「外国行ってきて。」と適当に言う訳、それで「今旧正月だから返事が遅いかも。」という訳だから彼の共著者とかから類推して精華か上海だろうと思ったのだけどどうも精華だと身体を悪くしそうだから断ろうと思っていたら河内。やっぱりどうしてもDevelopingな国だとバカにしてしまう訳で最初はあまり行きたくなかった、行ってみたらまぁメシがうまく物価も安いからそれほど不快ではなかったわけだし、そこのボスは「ロシア語は喋れるが英語はまだまだ難しくなれないんだよ。」と言っていてコミュニケーションも難しかったわけだがソヴィエト仕込みの数学的解釈はやはり優れていた。春だったっけな、もう次の職場が決まって最後の一月を海外で過ごすことになる、そのことに特にその時のボスだったHさんは何も言わず「いいじゃん、楽しんできなよ。」と言っただけ、おおらかで雑なボスだった。羽田から数時間かけていく訳だが、いろいろ下調べして―――そういや学生の頃に国際学会に行って最初に困ったのがタクシーの運ちゃんが英語喋れないこと―――EU圏でも英語喋れる人は少なく困ったのが印象に残っている、そんなわけだったのでボられない会社と現地人タクシーでの作法を調べて行ったな、筆談が最強だった。立ち並ぶ新しいビルとボロい茶けた建物、砂埃で見通せない先、なんというかこれは行った当初の頃の気持ちにも影響されてるんだろうか、私の記憶は―――人の記憶なんてそんなものさ。初めの頃はクソ真面目で、セミナーもして、ドクターの学生たちに色々コーディングを教えて、ボスと議論して、彼らの論文の英文校正もして―――これがひどく、帰国後査読しろと論文誌から来た内容を見れば彼らのグループで不公平だから断ったというのもあった。なんというか普段なら関西人仕込みの横断をするのだがそれも難しいほどに込み合った交差点に後込みするのだけどそのうち慣れた。学生たちとも打ち解けて色々と観光地に連れて行ってもらったり、いい飯屋を教えてもらったり―――まぁホテルで食う飯が高かったというのもあるが。彼らのアイデアをパクリ―――引用しながら自分で論文書いたり、彼らに私のデータを渡して一緒に書いたりと色々その後もinteractionは絶えないのだが、それよりは初めて行った共産圏の印象がぬぐえない。首都であるそこを抜ければ幹線道路には赤い看板、胡志明が太陽の位置で微笑み―――これは太陽の偉業をつく主導者達と変わらないんだな、それに皆がAK47を掲げる読めない看板が立ち並び、ある種普段から見てみたいと思っていた北に近い感じを味わうことが出来た。休日はドクターの子が旅行に連れて行ってくれるんだけど、多くのものが見れた、乞食に日本円を渡したり、近くの国から来た観光客に彼女が「フランスやアメリカは嫌い?」と聞かれて返答に困る姿や―――これは難しいだろうよ、父方の祖母の話を思い出すがそれはあとにするか。天災に恐らく近い、祖母はよく覚えていることで疎開先でも友人が殺されたという話があって、M2をたくさん乗せた当時の米軍機は意味もなく人を撃ち殺していた―――それは最近になって民間人を撃つガンカメラが公開されて公の事となったわけだが、子供の頃だったか、重機関銃で撃ち抜かれた隣に居た友人は半身が吹き飛び「熱い」と言って絶命したという話、.50BMGならそうなると知識で結びついたのはガキンチョからクソガキになってからか。彼女はそれほど英語を喋れる訳では無かったからジャップらしい返答を、若い人はそんなことを思い続けても仕方ないという言葉だけ返したな。大学の近くの余りにもオープンなネカフェではみんなが流行りのMOBAをやっていたりとか、遺跡に行って書いてある文字―――要は漢文なのだがそれを英訳してあげたりとか。あとは良く鯰を食べていたな、確かドクターの頃から一切肉を食べなくなっていて、魚と野菜だけで過ごしていたから、好んで鯰を食べていた。ホロホロと崩れる身、粘りっこい触感ながらもたんぱくな味わい、南国の香草―――流行りのパクチーは口には合わないが醤油らしきもの、とにかく豆系の発酵食品による良い味付けがされていることが多かった。ああ、あそこはご飯がとにかくうまいんだよ、ヴェジタブルチャーハンと言った感じの物、これもさらっとしていて、そこに現地の醤油系の調味料をかけるととにかくおいしい。味付け自体は塩気もなく、野菜と細長い米で作られたパラっとした炒め物、そこに濃口醤油よりもviscosityが高い感じのする調味料をかけるとこれがおいしく―――しかもなんか多くの食堂にこれがあるのね。ああ、でもよく覚えているおいしい料理は魚の煮込み料理で、名前の分からない香草と、甘辛い汁で煮込んだそれを、ゆでた米麺の上にのせて食べるもの、茹でたのちに更に載せてある―――ある種白滝の結びのようなそれを湾に突っ込み、平たい大きい鍋から旨味の染みだしたそれを掬い上げ白地のうえにのせてかき込む。最後の日にも件の学生と食べに行ったし、ある時は昼間から、ゲルマンスタイルのビールとその料理が食べられる店に連れて行ってもらったりと、食の方にはかなり満足した。学問的に得るものが得たか、と言われれば、まぁinspirationは多く受けて彼らとも、そしてそこから着想した単著論文も多く書くことになる、というより私のやっていた分野ではどうもGeometoricである簡単な解析は皆が多くやるのだがTopologicなアイデアをうまく使えていない―――それどころかTopologyを名乗ってGeometoricな事をやるような奴らがいて、そういうのではない新鮮なアイデアを得ることが出来た。きっと異国ってそういうもので、下龍―――それこそ1942のMODでしか飛んだことが無い場所を実際に歩いたりとか、春先の丁度良い気温で少し湿っている過ごしやすい空気だとか、そんなことが良かったんだろうな、と思う。そういえば件の学生は夏に東京に着て辟易としていた、東京らしい場所、と夕方から言われても困るから皇居に行ったり―――それはそれで都心の摩天楼を見て喜んでいたが―――そして和食を―――生魚はお腹を壊すと言われたり、としたが、その人は東京をある程度楽しんだらしい。
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