海底を歩いている。5
忘れたのは泳ぎ方だった。
息の止め方だった。
ヒレの動かし方だった。
海の、泳ぎ方だった。
『帰りたい――とか?』
帰りたいよ。決まっているでしょう?
でも帰れないんだよ。滑稽でしょう?
泳げないクジラ、なんて。
全部全部キミのせいなんだ。
陸で息をしすぎたのだ。
二本足で歩きすぎたのだ。
キミのせいなんだ。
以前の私のところへ行けば、思い出せると思った。
以前の私のところへ行けば、思い出せるはずだった。
以前の私のところへ行って、思い出さなければいけなかった。
帰らなくちゃ。
私はクジラだから。
海を選んだ種族だから。
でも何ひとつ思い出せなくて。
でもそれを認めるわけにはいかなくて。
帰りたくて。
帰らなくちゃいけなくて。
でも海にはキミがいないから。
それなら――
キミを連れていこうと思ったのだ。
*****
水を吐いた。
げーげー吐いた。
死ぬほど吐いた。
あらかた吐き出して、今度は吸った。
空気を吸った。
吸いすぎてむせた。
空港の滑走路。
いつか私が踏みつけて、半分沈んでしまったところから上がってきた。
「死ぬかと、思った」
「私も」
キミと二人、仰向けになって朝焼ける空を見ている。
「僕、いまだに状況が把握できてないんだけど」
切れ切れの息で声帯を震わすキミに、敬意を表したい。
「私が、キミを、海に連れ去ろうとして、失敗したのだ」
「もしかしてカナヅチ」
「ストレートに言うね」
「オブラートは切らしてて」
あっても包みようがない気はしてる。
私は溜息をついた。
「そうです。私はカナヅチです」
言葉にしたら、もやもやしていた胸の内が一瞬で晴れ渡った。
なにこれ。超スッキリ。超簡単。
笑っちゃいそう。
「あっはっは」
ていうか笑った。
「笑ってんなよ。冗談じゃないよ。全然笑えないよ」
「いやー、やっぱりか。やっぱり私、カナヅチか」
「完全にね。もがいてすらいなかったからね。沈むだけ」
「やっぱりかー、やっぱりそうかー」
「そうだよ」
そうだよ、じゃないよ、まったく。
もうちょっとマシなこと言えないの。
この不器用め。
ああ、帰れない。
私はもう、海には帰れないのだ。
それがわかってしまった。
いや、本当は――、
「本当はさ、最初からこうなるって、わかってた」
私は白状する。
「泳げないって、わかってた」
顔を横にしてキミを見たら、同じようにしたキミと目が合った。
「ごめんね」
瞬きをするキミを見ている。
キミはなにかを言おうとして、なにも言わなくて。
やがて私を置いていくように、身体を起こす。
さすがに愛想をつかされちゃったかな。
それもしかたがないけど。
「泳げないならさ」
だけどキミは言ったのだ。
「歩けばいいよ」
キミは立ち上がって。
振り返って。
私を見た。
「海底を歩けばいい」
……三秒。三秒は我慢した。
でもそれ以上は流石に無理だった。
ちょっと口の端から漏れてた。
「あは」
声に出して笑った。
大笑いした。
女子としてどうなのってくらい笑った。
そういうのあんま気にならないし。
「なんだそれ。違うよ、全然違うよ。こんなの全然、海じゃないよ」
耳の先まで赤くなったキミの顔を見て、また笑った。
「ああ、可笑しい……」
目の端に出てきた涙を拭いながら、私は言う。
「そんなに笑うことないだろ」
そう言うキミの顔は本当に恥ずかしそうで。
でも恥ずかしいことを言ったのだから、自業自得だ。
「手。手、貸して」
ひとしきり笑って、私は催促する。
キミが渋い顔で差し出した手を握って、立ちあがる。
「あ、ちょっと」
「なに」
「手」
「もういいだろ」
「いくないよ」
「やだ。なんか恥ずかしいし」
「甲斐性なし」
「実はそうなんだ」
「知ってた」
それでも手を出せば。
キミはそれを見てしかめ面。
手と顔と交互に見たりして。
そっぽ向いちゃったりして。
それでも手を取ったのだ。
「海底の歩き方を教えてくれる?」
「習うより慣れろだ」
「えー」
「行くぞ」
キミに手を引かれて、私は歩き出す。
泳げないから、歩き出す。
海底を歩いている。
キミと、歩いている。
――終――
海底を歩いている。 2ナギ @ninagi
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