海底を歩いている。4


 ポケットからスマホを取り出して、彼女の番号をコールした。

 サンゴの上で彼女のスマホがヴィーヴィー鳴った。


「…………………………」


 何事もなかったようにスマホをポケットに戻す。

 ついでに彼女のも回収しておく。


 ……さて、どうしよう。


 むやみやたらに探す?

 そんなわけにいくかよ。


 なにか手掛かりを。

 痕跡を。


 足元がザリと鳴った。

 地面は白い砂。

 サンゴの死骸なのかなんなのか知らないけれど。


「…………」


 足跡があるはず。

 そりゃあるだろ。

 昼間歩きまわってたからな。


 しかし他にいいアイデアも思いつかない。

 なんの当てもないよりはマシだろうと、足跡を辿って行くことにした。


 ……程なくして、その足跡を見つけた。


 傍らにしゃがみ込む。


 つま先が向いている方を見た。

 サンゴがいくらか生えてはいるけれど、開けていて、見通しがいい。

 建物がない。


 続いて踵が向いている方を見た。

 そこにはクジラの骨が。

 頭は反対側。

 後ろから見ていることになる。


 つまり、クジラが歩いた跡だった。

 建物がないのは、クジラが轢き潰したからだ。


 思わず顔をしかめている。

 足跡は続いている。

 昼間、彼女と離れていた時間から考えて、そのときのものではない。


 行き着く先は――海だ。


「……くそ」


 追いつけるだろうか。


 中学校でやったような計算が走る。

 兄が自転車で弟を追いかけるヤツ。


「海まで行ったとしても、十五キロぐらいだろ」


 軽く準備運動。

 十五キロ。学校でやったマラソンの三回分。

 たったの三回分。


 ……きっついなあ。


 足場悪いし。

 障害物あるし。

 なにより僕はインドア派。


 それでも僕は、持っていたペットボトルをポケットにねじ込んだ。


 走り出す。


 *****


 帰りたくても帰れないって。

 聞いて、ほっとした僕は最低だった。


 *****


 いやまじで海まで来るとは思わなかった。


 息は絶え絶え、汗は滝。

 足の感覚が鈍い。

 東の空が白みだしていた。

 

 唾をひとつ飲んで息を整える。

 タオルなんか持ってきてないから、シャツで汗を拭った。

 止まった足にはもうちょっとだけ頑張っていただきたく。


 歩く。


「走ってきたの?」


 と、彼女が言った。


「そりゃ、走るよ」


 と、僕は応えた。


「二十キロぐらいあったでしょう?」

「そんなにない」

「十五ぐらい?」

「さあ……」

「走ってきたの?」

「休み休み」

「すごいなあ」

「すごくはない」


 びっくりするぐらい時間かかってるからな。

 

 僕は立ち止まると、身体を傾けて、彼女の後ろを覗いた。

 かつての空港。

 滑走路の端の端。

 千年クジラの、まさに上陸地点。


 重みにやられたのか、地面が半分海に浸かっていた。


「帰るの?」


 僕は短く訊ね、


「そう」


 彼女は率直に答えた。


「帰ろうと思って」

「帰れないって言ったけど」

「そんなの嘘だよ」


 彼女はからかうみたいな、意地悪な笑いを見せる。


「いつでも帰れるんだよ。いつだって帰れるんだよ」

「……あ、そう」

「そう」


 騙された僕は頬を掻く。


「……いつでも帰れるってならさ……その、別に今日でなくてもいいんじゃ?」

「いつでも帰れるからって、いつまでも帰らないわけにはいかないでしょう?」

「そうかな」

「そうだよ」

「そうかも」

 

 首筋に手を当てだりとか。

 靴の先を見たりとか。

 そんなことしてないで。


 行くなよ、って。


 言えよ。僕。


「…………」


 言えよ。


「夜が明ける」


 彼女が海のほうを向いて、つられて僕もそちらを見た。

 地平線の向こうが明るみを増している。


「キミのことを、どうしようか考えてた」

「――え?」


 僕は不意を突かれて、そんな返し方。


「追いかけてきちゃうんだもんなあ」


 彼女がまっすぐに、神妙な面持ちで僕を見ていた。


「だから、連れていこうと思って」


 僕はなに一つ理解できないまま。


「ごめんね」


 地平線を稲妻のように光が走った。

 彼女の姿が蜃気楼のように揺れた。


 気がつけば、僕の身体は高く宙を舞っていた。


「へ????」


 陸を見て、空を見て、海を見て、海を見た。


 突然、足元から現れた巨大なクジラに、打ち上げられたのだ。

 

 へ???? とか言ってる間に放物線の頂点は通りすぎていて、落下が始まっている。このままじゃ海にドボンだ。


 海から巨大なにかが飛び上がった。

 なにかじゃない。

 クジラだ。

 さっきのやつか?


「キミか」


 どこかで見たような黒さのクジラは、高く高く飛び上がり。

 冥府の入り口みたいなその口を開けて、落ちてくる。


「僕を食う気か」


『連れていこうと思って』


「それもいいかもね」


 僕って甲斐性なしでさ。

 引き止められないからさ。


 僕の方が行くっていうのは、妙案だ。


 ――なんて、しみじみと思っていたのに。


 クジラの巨体が、崩れ始めていた。

 まるで魔法が解けてしまったみたいに。

 青い光の粒になって、夜明けの空に散っている。


 なにがどうなっているのか、まるでわからない。


 もう海面が近かった。


 クジラは加速度的にその身を失って、もはや向こう側が透けて見えるくらいだった。

 

 背中が海面を叩いて。

 視界を波がさらうまでの間に。

 彼女の姿を見る。


 長い黒髪。雪のように白い肌。


 いつもの彼女だった。


 空が海に埋め尽くされる。

 落下を終えた身体が、沈下を開始する。

 沈む、沈む、沈んでいく。


 水中視力はいい方だけど、しかし暗い。

 沈降速度が緩やかになってきて、浮上に転じた。

 そのときに。


 ドボン――と。


 空気のドレスを纏って彼女が落ちてくる。

 空気のドレスを脱ぎ捨てて彼女が沈んでいく。


 大きく広がった黒髪を引き連れて。

 真っ逆さまに沈む彼女とすれ違った。


 僕は上向き。

 彼女は下向き。


 伸ばす手に水の重みが邪魔をする。


 沈む、沈む、沈んでいく。

 浮上に転じない彼女は遥か下。


 なんでだよ、どこまでも沈んでく。

 揺れる黒髪にクジラの尾ビレを連想した。


 どこへ行く気だ。

 どこへ沈む気だ。


 ――行くなよ。


 浮上やめ。

 上下反転。

 水を蹴る。


 なにやってんだって。

 彼女を追う。


 僕の方が速い。 

 追いつく。

 もう少し。

 もうすぐ。

 息は。

 まだ大丈夫。


 彼女は四肢を曲げて。

 背中を丸めて。

 なんで目、閉じてんの。

 そんなに固く。


 彼女の手を取った。

 彼女が目を開いた。


 行くなよ、なんて。


 水の中だから、大目に見てくれないか。

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