海底を歩いている。3

 デケエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!


「――とか、叫ぼうと思ってたんだけど」

「? 思ってたより大きくなかった?」

「逆。思ってたより大きかった。全然大きかった」

「? じゃあ、叫べばいいんじゃ?」

「ムリ。ムリムリ」

「? ? ? ?」

「気圧されて……」


 足を動かすこともできずにいた。

 全身の肌が粟立ってしまって。

 心音がうるさいくらいで。

 息をするにも、まるで刃物を突き付けられているみたいな慎重さが要求された。


 ――骨だけ。


 骨だけで、こんなにも圧倒されている。

 これが歩いていたなんて。

 冗談じゃない。


「私、その辺見てくる」


 と彼女は見えなくなった。

 彼女にはなんでもないみたいだ。

 そりゃそうか。

 彼女はこれだったんだから。


 千年クジラの遺骸の前に来ていた。


 彼女がいなくなって、張っていた意地が逃げた。

 僕はその場にへたり込んでしまった。


 改めてそれを見上げ、感嘆の息を吐く。


 彼女が言うには、頭の骨らしかった。

 頭というか、顎。

 まったく気がつかなかった。

 ずっと気がつかなかったのだ。

 彼女に言われて、初めて。

 視界に入り切らない。


「…………でけえ」


 しかしその大きさが。

 自らを死に至らしめたのだ。


「…………」


 ――思う。


 彼女はこれだった。


 空港から上陸し。

 北上。

 都心を闊歩して。

 息絶えた。


 彼女はこれだったのだ。


 彼女は今も生きているけれど。

 しかし目の前のこれは、どうしたって息絶えている。


 もう、骨だし。

 

 なぜそんなことをしたのだろう。

 なぜ陸にあがったりしたのだろう。


 遥か古に、海を選んだ種族だろうに。


 その巨体は陸を歩くようなものではなくて。

 海を悠々と泳ぐもので。


 そんなこと、自分が一番よくわかっていたはずなのに。


 *****


「息をするだけのつもりだったんだけどね」


 半開きのまなこは五年前を思い出すように。


「ほら。一応、哺乳類だからさ。エラ、ないから」


 笑顔だけど、どこか苦しげに。

 両手を首のところでパタパタさせている。

 エラなんだろうけど、それ、ヒレだろ。


「海を選んだけれど、海に選ばれなかったのだ」


 どんなに深く、長く、潜れようとも。

 いつかは浮いてこなければならないのだ。


 日が暮れていた。


 おかげで今日は野宿と相成った。

 帰るには暗くて危ない。

 ていうか日帰りじゃなかった。

 なんも持ってきてない。

 僕はわりかし平気だけどさ。

 夜目はいくらか利く方だし。


「夜目が利くって。猫かなにか?」


 彼女が笑う。


「木登りは苦手だ」


 僕は反対に顔をしかめる。

 彼女はどうなんだろう。

 木登りじゃなくて、野宿のこと。


「私、こういうの気にならない」

「あ、そう」

「虫とかわりと平気」

「ふーん」


 そんな風に言う彼女は、ハスの葉のような広いサンゴの上で寝転がっているようだった。

 ちょうど二段ベットぐらいの高さで、そこからちょんと頭を出して、地べたに座った僕を見下ろしているのだ。


「しかし息をするだけのつもりが、なんで上陸?」


 聞いてみた。


「だってー」

「だって?」

「うーん?」


 彼女は首を傾げてみせる。


「楽しそう、だった、から?」

「僕が聞いてるんだが」

「理由なんてとくになかったよ」

「衝動的にってこと?」

「言葉になんてしたくないな」


 彼女の口調がわずかに強くなる。


「言葉にした途端、別物になってしまう」

「それはそうだ」


 赤いという言葉は赤くない。

 しかし「赤い」を言葉にすればたしかに「赤い」となるので。

 その簡単さに腹が立つときもある。


「ごめん」

「うん」


 柔らかな沈黙。


 夜は鳴らない。


 靴紐を緩めてみたり、とか。


「……少しだけ。少しだけだよ。海が嫌になっちゃて」


 彼女は息みたいに細い声を吐いた。


「どこまで行っても海なんだもの。当たり前だけど」


 伏せた瞳は物憂げに。

 垂らした右手は寂しげに。

 

「陸に上がって、苦しみとか痛みとか。つらみとか。味わえば。やっぱり海がいいやって、そう思えるかなって」


 彼女は静かに目を閉じる。


「だけど案外悪くないなって。このまま潰れちゃってもいいかなって。そのときは、思った」


 思ったんだよ、と彼女は繰り返した。

 そのときは、と。


 ――なら、いまは?

 

「帰りたい、とか?」


 その質問をするのに、膨大な量の勇気を消費した。


「海に、帰りたい――とか」


 彼女はいま目覚めたばかりとでもいうような鈍重さで、首をもたげて僕を見る。


 唐突に、地雷原のど真ん中に立っているような気分になった。

 怖気づいたわけだ。

 でも僕はそれが聞きたい。


 静寂は肌を溶かすかのように。


 彼女の目が、スローカメラで撮ったみたいにゆっくりと、けれど滑らかに。


 鋭く。


「帰りたいって、言ったらどうするの?」

「え」


 思いもよらぬ反撃だった。


「帰りたいって言ったら、キミはどうするの?」

「どうするのって……」


 僕は狼狽える。


「どうもしない、けど」


 目を泳がせて、我ながら情けない返答。


「じゃあ、今夜帰るって言ったら?」

「帰るって、海に?」

「キミが言ったんじゃん」


 やけに攻撃的に感じるのは、僕の気のせいか?


「どうするの?」


 怖いくらいだ。


「見送りぐらいは、するよ」

「見送るだけ?」

「そのぐらいしかできないだろ」


 睨まれた。ものすごく睨まれた。

 刺すような視線。

 僕の両の眼球が右に逃げる。

 やがて彼女は、ふいとサンゴの向こうに引っ込んでしまった。


「……もしかして、本気?」


 僕もたいがい往生際が悪い。


「帰れないよ」


 サンゴの向こうから返事がきた。


「帰りたくても、帰れないよ」


 どういう意味だろう、とか。

 吸った息が言葉になるのを嫌がった。


 掛ける言葉を見つけられないまま。

 口を開いてはただ息を吐く。


 ぶつ切りになった会話が宙に浮いている。


 しかしほどなくして静寂に溶けた。


 静寂は重くのしかかるように。


 溶けた会話の分だろう。


 しかたないから、明日一番になんて言おう、なんて。

 考えているのに。

 まぶたは重く。


 僕はたぶん、眠ってしまった。


 *****


 相も変わらず、学校図書館で退屈を殺していた。

 本を戻す彼女を見ていた。

 いつもの黒いセーラー服。白い肌。

 窓から入った透明なブルーの光が館全体を満たしている。

 音は沈んでしまうようで、海底のように静かだった。


 本を手に取る。

 背表紙を確認する。

 辺りを見渡す。

 移動する。

 また背表紙を確認する。

 棚を確認する。

 本を挿す。

 スッと押し込む。

 次の本を取る。


 僕は見ている。


「海の広さを知っている?」


 彼女は作業を止めることなく言う。


「いや、知らない」


 言いながら僕は手前の本棚を見た。

 なにか大きな影が、そこをよぎった気がした。


「海の深さ知っている?」

「知らない」


 今度は奥の壁を。

 なにかいたと思ったのだけど。


「暗さを知っている?」

「いや……」


 中央の机の下。

 奥に逃げていった。

 どこかにいった。

 なにかいる。


「静けさを知っている?」


 一瞬、東の窓の光が遮られる。

 続いて北。

 そして天井。

 外に出た?

 外にもいる?


 彼女が真っ直ぐに僕を見ていた。


「息はもつほう?」


 彼女が言った途端、僕の口からゴポリと空気が漏れた。


 浮遊感。


 息が……。


 もがく。


 僕は床を蹴って浮上を試みる。

 しかし彼女のほうが断然速かった。


 抱きつかれて。

 抱きしめられて。


 暗く、深い海に沈んでいく。



 ……月が出ていた。


 波の音が見える。

 波は見えない。


 煌めく月光。


 開けた平坦な場所だった。

 人工的な平坦さ、直線。


 離れたところに彼女の後ろ姿があった。

 そちらが海だと直感した。


 駆ける。


 行ってしまうなんて、嫌だ。


 どうしたって、僕はそっちには行けないから。

 泳げないから。溺れてしまうから。


 彼女が振り返った。


 彼女の後ろで、なにか大きなが影が盛り上がった。

 影は瞬く間に大きく、巨大になって、月を遮った。


 千年クジラ。


 僕は唇を噛む。

 まだ。まだ間に合う。


 クジラのヒレが大地を捉える。

 陸に上がるつもりか。

 まあそうだろうな。


 彼女のところまで来た。

 彼女の手を取って、あとは彼女を連れていくだけ。


 連れていくだけなのに。

 彼女はビクともしないのだ。

 彼女は意地悪に微笑んでいる。


 仰ぎ見れば、クジラの巨躯。


 くそったれ。


 落ちてくる。


 クジラが、落ちてくる。


 *****


 ……月が出ていた。


 高く、高くに。

 眩しいくらいだ。


 寝ている間に身体が横になったらしい。

 頬をザラっとした感触が引っ掻いた。


 身体を起こして目をこする。


「……水」


 溺れる夢を見たのに、喉が渇いている。

 納得いかない。

 そりゃ夢で喉が潤えば苦労はしないが。

 苦労は少ない方がいいに決まっているだろう。


 ……頭、回ってない。


 ともかく水。

 たしかこの辺に持ってきたペットボトルのお茶が。

 あった。


 中身を確認して、飲む量を考える。

 明日の分を考えなければならない。

 少しだけ。

 口に含んで、舌の上を転がして、味わって飲んだ。


 しばらくぼーっとしていた。

 頭の暖機運転。

 そういえばこの前、友達に暖機運転って通じなかった。

 

 夢が遠のいていく。

 余韻だけが残る。


 そこに夢があるとわかっているのに、見えない触れない。


 彼女のことが気になった。

 例のサンゴの上で寝ているはず。


 夢を振り切るように立ち上がる。


 勝手に人の寝顔を見るのもどうかと思うけど。

 しかし許しを得ようにも相手は寝ているわけで。

 起こしてしまえば寝顔じゃなくなるわけで。

 だからこれはしかたのないことなのだ。


 ……脳みそがなんか変な回り方をした。


 クンと首を伸ばして、サンゴの上を覗く。


「…………」


 舌打ち。


 あたりを見回しても、それらしい影はない。

 もう一度サンゴの上を見ても変わりはない。


 ――そこに、彼女の姿はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る