海底を歩いている。2


 ググってみたら、五年前だった。

 ということは僕は小学六年生だ。

 その年の夏、東京に巨大怪獣が上陸した。


 千年クジラ。


 改めて画像を見たけれど、どちらかといえばアシカだと思う。

 前ヒレと後ろヒレで歩く歩き方とか。

 でも顔と尻尾がクジラだったから、クジラと呼ぶ方がしっくりきたんだろう。


 千年クジラは空港から上陸し、北上。

 都心を闊歩して。


 そして、そのままそこで息絶えた。


 ……いや、映画みたいに戦車とか戦闘機とか引っ張り出してきて、戦ったわけではない。


 言葉は悪いが、勝手に死んだのだ。

 自重によって内臓が潰れてしまったのだという。


 その巨大な亡骸は、今も東京に横たわったまま。


「最初は、なんかお腹痛いなあって。そのぐらいだったんだよ」


 車窓を流れゆく景色を見ながら、彼女はそう話した。


「それがいきなりさ、刺されたみたいにズキッて!」

「刺されたことが?」

「ない」

「よね」

「でも言うよね」

「言うけど」


 リニアはとっくに満席で、普通の新幹線だった。

 飛行機は景色が面白くないから嫌いなんだって。


「いやもうびっくりしたよ。こう、骨がね、肘のとこからね、突き出ちゃってるの。ズバッて」


 彼女はプラットホームの階段を、器用に後ろ向きに下りている。

 なぜか興奮した様子で。

 肘とか見せながら。

 白い肘だな、なんて思った。


「もう可笑しくて可笑しくて。笑っちゃったよね」

「いやわかんねーよ、それ」

「ええ? だって、想像してよ。肘から骨、突き出てるんだよ? 笑える」

「笑えるかなあ……」


 話しながら、彼女が段を踏み外したときの助け方を九通りほど頭の中でシミュレートした。

 幸いなことに、まったく役に立たなかった。


「結局のところ、大きすぎたんだよね。自分で自分を潰しちゃうくらいに」


 在来線。割と揺れる。

 発車停車のときに肩とか当たったりして、気になった。


「だから色々と削ぎ落して、それで、この私になったわけ」

「ふーん」

「うん」

「じゃあ、あの骸が削ぎ落した部分ってこと?」

「そうそう。まあ、なんていうか。ダイエット?」

「ダイエットっていうか、それ?」


 包丁でお肉切り落して痩せるみたいな。


「あ、見えてきた」


 彼女が窓の外を指差したので、僕はそちらを見た。

 遠くに赤く鮮やかな、日本の首都が見えた。


「こんなことになるとは思わなかったよ」


 彼女は窓枠に腕を置いて、その上に顎を乗せて。


「まだ広がってるらしいけど」


 僕は観光パンフレットを広げて言った。


「いつかこの国全部、呑み込まれたりしてね」

「いやあ、ないでしょ」

「ロマンがないなあ」

「ロマンっていうか、カタストロフィ?」

「破滅ってロマンチックでしょ?」

「んん??」

「滅べ」

「誰でも思うことではあるけれども」

「あっはっは」


 口を開けて笑う笑い方が、僕の心にどストライク。

 けれど見ているのがどうも恥ずかしい。

 僕はもう一度パンフレットに目を落とした。


 見出しは『廃都東京の歩き方』。


 *****


 現在の日本の首都は福岡になっている。

 四年だか三年だか前に正式に遷都した。

 というのも、以前の首都であった東京がサンゴに覆われてしまったからだ。


 原因は言うまでもなく千年クジラだった。


 クジラの背にはギザギザとした背ビレがいくつも連なっていたが、しかしこれが、本当は背ビレではなく、サンゴのような生き物だったのだ。


 このサンゴが、クジラの死後に爆発的に増殖した。


 アスファルトの地面を。

 コンクリートの建物を。

 東京を。

 あっという間に奪い取った。


 驚くべき速さの増殖、成長だった。


 クジラの死後、二日三日で半径五キロが、約一週間で東京都区部のほぼ全域がサンゴに覆われてしまった。


 クジラの死骸が特別な役割を果たしたと考えられているが、詳細は分かっていない。


 かつての東京都区部はいま、まるごと国立公園に指定されている。

 いまや日本を代表する観光スポットだ。まあそれは前からか。

 地上のグレート・バリア・リーフとも呼ばれ、世界遺産への登録も申請中。


 中心には千年クジラの亡骸が、いまも横たわっている。


 *****


「薄々気づいてはいたけどさー」


 ペットボトルのお茶チャプンと鳴らして。


「やっぱクジラのとこまで行くのかよー」


 僕は軽くぼやいた。


 先を先を行く彼女が、髪を押さえながら振り返った。

 目が合う。

 彼女は不思議そうな表情。

 のち。

 笑って。


「なーにー? 聞こえなーい」


 手を高く上げて振った。


 僕は頭を落して、無言で軽く手を上げて応える。

 なんでもない、というジェスチャーのつもり。

 彼女は僕が追いつくまで待っていた。


「なに? さっき、なんて言ったの?」

「なんか言った? って、言ったの」

「なんて言ったの? って、言ったんだよ」

「なにも言ってないよ」

「私も」

「ん?」

「ん?」


 顔を見合わせる。

 三秒。

 見てられなくて逸らす。

 サンゴに呑まれた街並みとか眺める。


「首都だったなんて嘘だよねえ」

「影も形もありゃしない」

「サンゴばっかり」

「命溢れてらっしゃる」

「いいことみたいだ」

「いいことだろ」

「いいことかも」


 一般開放エリアを飛び出して、すでに立ち入り禁止エリア。

 建物とか塀とか道とか崩れる危険があるらしい。

 園内バスとか当たり前に走ってない。

 道なんて整備されてない。

 そもそも平らなところが限られている。

 アスレチック・フィールド。


 五年も前のこととはいえ、日本最大の都市だったからもうちょっとマシなのを想像していた。裏切られた。


「どっち」

「こっち」

「そっち?」

「あっちではない。少なくとも」


 観光パンフに立ち入り禁止エリアの地図など乗っているはずもなく。

 ダウンロードした五年前の地図も役立たず。

 彼女の感覚を頼りに進んでいる。


「一種の共鳴現象みたいな?」

「そういうウラ、あった方がいい?」

「別になくてもいいけど」

「ないけど」

「ないのかよ」

「いいって言ったじゃん」

「言ったけどー」


 一抹の不安を抱きつつ、段々になったサンゴを上る。

 さっきから、ちょこちょこと上がったり下がったり。

 サンゴの上ばかり歩いている。

 地面に降りてない。

 ていうか地面が行方不明。


「ちょっと休む?」


 サンゴを上り切ったところで、待っていた彼女が言った。


「休憩?」

「疲れた風だから」

「誰が?」

「キミが」


 バレバレか。

 ありがたいわちくしょう。


「ていうか元気だな」

「私?」

「そう」

「足だけで歩くから疲れるんだよ」

「逆立ちして歩けと?」

「足とか腰とか背中とか、いろんなところをちょっとずつ使って歩くの」

「どこの武芸者だよ」

「最小の動きで最大の効果を得るのだ」

「達人か」


 上り切った先はまあまあ見晴らしがよかった。

 知らぬ間に高度を稼いでいたらしい。

 奥に見えるあれは東京タワーか。

 サンゴに侵されて歪な形になってしまっている。

 他の建物も軒並みサンゴ色。

 低い青空が水面を見上げているようだった。

 海の底にいるみたいだ。


「もうすぐだ」


 彼女の声は弾む。


「もう大丈夫?」

「平気。どっち?」

「ん。こっち」


 彼女が微笑み、先を行く。


 足取りは軽やかに。

 海を泳ぐかのように。


 もしかしたら、彼女には懐かしく、嬉しい景色なのかもしれなかった。


「…………」


 僕にはちょっと……きつい。


 明けるようなコーラルに塞がれて。

 覚めるようなブルーに蓋をされて。


 東京。


 人は住んでない。

 人は生きてない。

 人の領域では、ない。


 街が海に沈んだのか。

 海が街に墜ちたのか。


 まるで溺れているかのようだ。

 泳ぎ方は遥か古に置いてきてしまった。


 命溢れる海に、一人。


 ……なんて、ね。


「おーい。なにしてんのー?」


 サンゴでできた橋を渡り切り、彼女が立ち止まって手を振っていた。


 僕はひとつ息をして、歩き出した。


 泳げないから、歩き出した。

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