海底を歩いている。

2ナギ

海底を歩いている。1


 好きになった女の子の正体がクジラだった、というだけの話だった。


「何年か前にさ、東京で暴れ回ったクジラがいたじゃない?」

「ああ、そういえば、そんなことがあったような」


 通称、千年クジラ。

 あるいは単にクジラ。

 ク(→)ジラではなく、ク(↑)ジラ。

 僕が小学生ぐらいのときに、東京湾に出現した超巨大生物のことである。


「あれ、私」


 親指でビッと自らを指して彼女が言う。


「まじか。わーお」


 僕は拍手送々。


 なるほどたしかに、僕の持つ彼女のイメージは黒である。

 どうしてだろうとずっと不思議に思っていた。

 別に黒いセーラー服は学校指定だし、長い黒髪の女の子は他にもいるし。

 それなのに、彼女だけが黒だったのだ。


 しかしこれでどうしてかわかった。

 きっと彼女がクジラだからだろう。

 クジラってだいたい黒い。


「あ、信じてないね?」

「うん、まあ、はい」


 これで信じるヤツは、きっと、なにを言っても信じるだろう。

 幸せの壺とか普通に買ってくれちゃいそうである。

 でも今回ばかりは騙されてもいいかもしれない。

 幸せの鯨骨とか。

 たぶん、買っても僕は後悔しないと思う。

 

「ちょっと。こっち」


 彼女は中央の長机のところまで歩き、そこの椅子に腰かけた。

 

「こっちこっち。来て」


 彼女がちょいちょいと手招きする。

 果たしていかなる物理法則が働いているのか、小さく可愛らしい動きがブラックホールのように凶悪な吸引力を有しているではありませんか。なんとも抗いがたい。


 僕は両手に抱えていた本を全部、本棚の上にほったらかしにして、何も疑わずに彼女のところまで歩いた。


「驚かないように。準備して」


 前に立つ僕を見上げて、彼女は言った。

 僕は深呼吸をひとつしてみせた。


「でもきっと驚くと思うな」

「驚いて欲しいわけ? 欲しくないわけ?」

「フィフティフィフティ?」

「僕の顔面はハーフ&ハーフ非対応なんだけど」

「怖がられたくはないよ」

「僕に怖いものはないのだ」

「本当?」


 クスリと小さく、けれど挑むような笑み。


「ホントホント」

「じゃあ、はい」


 ビタン、と。

 彼女は自らの右手を机の上に置いた。

 否、それは手ではなく。

 ヒレだった。


 ヒレだった。


「…………」

「…………」


 彼女の制服の袖口から……、なんというか、その、黒い鎌みたいな。

 そういう形のものが出ていて、机の上に置かれているのである。

 さすがにちょっとばかし理解に苦しんだ。


「…………」

「(ビタンビタン)」


 やはり、ヒレと言うのがしっくりくる。きてしまう。

 いや待て。もう一つ思いついた。


 翼だ。


「つまり、ペングウィンだ」


 言うと、彼女はムッとした表情で。

 次の瞬間、彼女の後ろからビタンッと何かを叩きつけるような音がした。


 彼女の頬にハッとした風に赤みがさした。


 そんな彼女の肩越しに後ろを覗く。

 黒い双葉のような形をしたものが左に消えた。


 左から覗くと、右に消える。

 右から覗くと、左に消える。


 左、右、左、右。


 左右に振れる度に、ビタンビタンと音がしている。

 左にフェイント、右。引っ掛からないか。


 どうもよく見えないが。 

 どう見ても尾ビレである。


 ていうか、え? どこから生えてんの?


 確かめたいが、どういうワケか見えなくなってしまった。

 煙のように、煙も残さず消えてしまったのだ。

 見れば机の上のヒレも人間の手に変わっている。


「恥ずかしくなってきたのでおしまいでーす」


 彼女は顔を伏せて、両手を前に突き出した。

 下がって下がって、というジェスチャーのように見えなくもない。見える。

 しかたなく僕は後ろに一歩下がった。

 ついでに自重を支えることをサボタージュしたくなって、後ろの本棚によりかかった。


 彼女が恐る恐るといった具合に、少しだけ顔をあげる。


「驚いた?」

「驚いた」

「信じた?」

「信じた」

「……割と簡単に信じるね」


 恋は盲目だから、とか。

 言ってみたい。


「自分の目で直接見たら……、信じるだろ」

「そういうもん? まあ、よかったけど」


 両手を降ろし、顔を上げて、彼女はようやく普通に椅子に座った格好になる。


「あ、そうだ。このことは秘密なので」


 しー、と人差し指を口の前に立てて、彼女は言う。


「他の人に言ってはいけません」

「言わない言わない」


 わざわざ誰が言うか。

 言ってどうするんだ。


「他に知ってる人は?」

「いないよ」

「いない」

「キミだけ」

「僕だけ」

「知っているのはね」


 彼女はクンと首を傾げて微笑んで。


「いやでも、なんで僕に話したの?」

「それはまあ、うん、難しい質問だけど」


 言いながら、彼女は椅子から立ちあがった。

 身体を捻って、スカートの後ろを気にしている。


「なんとなく、話しておきたいかなあ、と」


 前に向き直った彼女が、はにかんだ。


「はあ……。なんとなく、ね」

「驚くかなあ、と思ったんだけど」

「めちゃくちゃ驚いた」

「顔に出ないよね」

「お面をかぶっているのだ」

「剥がせると思ったのだ」

「三つぐらい剥がされたよ」

「一体いくつ被ってるの?」

「七つぐらい」

「半分いってないじゃないかよー」


 とっておきだったのになー、なんて。言いながら貸出カウンターの後ろに回る彼女を目で追って、それから僕は放置していた本たちのことを思い出した。返却された本たちだ。棚に戻さなければならない。


 作業再開。


 本を決まった場所に一冊一冊戻しながら、帰ったら驚いた顔の練習をしようと決意した。


「ねえ」

「うおあ!?」


 すぐ傍で声がして、めちゃくちゃ驚いた。


「それはいくつ目?」

「素でびっくりしたわ」

「それが素なんだ」

「これは七つ目」

「リカバリが速すぎじゃないかな」

「いいことじゃん」


 言いながら、心臓がドキドキしている。

 もちろん不意をつかれたせいだ。

 彼女との距離は関係ない。ない。


「で、なに?」


 関係はないけれど、話しづらいので一歩距離をとる。


「あ、うん」


 彼女は僕の腕が抱えていた本のなかから一冊を取り上げて、


「今度の週末、ちょっと、東京に行こうと思ってて」


 その本を戻す場所はちょっと高くて、彼女はつま先立ちになった。


「ふーん。東京。……東京? なんでまた」

「忘れ物を取りに、ね」


 本を戻した彼女が、次を催促してくる。

 僕は次の本を手渡す。

 明らかに工程が一つ多くなっている。

 僕が直接、戻せばよいのに。


 でも嫌では全然ない。


「忘れ物? 東京に?」

「うん、そう」

「そりゃ大変だ」

「そうなんだよ」

「郵送?」

「そういうわけにもいかなくて」


 話しながら、僕たちは本棚の前をスライド移動。

 もともとそんなに多くなかったので、すぐに終わる。


「これラスト」

「はいな」


 返事をしたのに。

 彼女がまた次を催促してくる。


「終わりだよ」

「あ、そうだった」


 彼女は伸ばしていた手を降ろした。が、


「…………」

「…………」


 なんだろう、なんでだろう。

 見られている。すごく見られている。


 真っ直ぐ、見られている。


 身体をすこし傾げてみた。

 彼女の視線を躱すことが目的だ。

 しかし彼女の眼球が動いて逃げられない。


「えっと……、どうした?」


 どぎまぎしながら僕は尋ねた。


「うん。あのさ」


 彼女は言う。


「東京、一緒に行こう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る