愛した女はもういない

@aki89

第1話

男は目を覚ました。

傍らの時計を見る。午前2時。太陽の光も、人々の生活を照らす蛍光灯の明かりもないが、部屋は全くの暗闇ではなかった。

僅かに開いた窓からは、そう遠くないネオン街の光と喧騒が部屋の中へ忍び込んでいる。未だ靄の中にいるような頭と身体には、ちょうど良い刺激だった。彼は起き上がり、煙草をくわえる。


彼はこの街が好きだった。

時代から取り残され、決して治安もよくないが、どこか暖かみのある街だ。優しくはないが、情があり、生きた人間の血が通っている街だ。

嘘偽りなく生きる(ある意味で、だ)者たちの息遣いは、彼にとってのささやかな癒しですらあった。今日までは。


腰掛けているベッドから、ふ、とだけ後ろを見やる。溜息ともつかぬ微かな吐息を吐き出してようやく、彼はくわえていた煙草にまだ火がつけられていない事に気づいた。

安物のライターを手に取り、僅かな逡巡の後、火を灯す。


息を吸い、吐いた。煙が舞う。

薄暗い部屋を、淡いネオンの光だけが仄かに照らす。煙はすぐに散り、部屋の空気を微かに、しかし確実に汚染してゆく。

2人で使うにはやや狭いベッドに、今、彼は独り。

愛した女はもういない。彼がその穏やかな寝息を聞くことはもうない。


どこで間違えたのだろう。

些細な諍い。ただそれだけだったはすだ。数日もすれば互いに忘れてしまうような、いつも通りの。

だが、何らかの歯車がずれ、そうはならなかった。それだけだ。それ以上考えることは無駄な事だった。


だらりと下ろした手を這うように、ゆっくりと舞い上がった煙草の煙が、彼の顔を覆う。

あの時、彼は涙を流さなかった。何故かはわからない。様々な思考がないまぜになった感情に名前はつけ難く、頭の中の何かが、永久に直ることのない故障を起こした様な、そんな気分だった。


今も、そうだ。頭の端々では、断片的な想い出や、これからの展望がチラチラとよぎっている。だが、頭の中心は依然真っ白なままだ。

彼の渇いた瞳は動かない。煙が目にしみる事はない。


どれほどそうしていただろうか。一息吸っただけの煙草は、とうに灰皿の中で熱を失っている。

箱から取り出して結局やめたもう一本の煙草が、唯一その残骸に寄り添っていた。

遠くの地平からは微かに光が漏れ出始め、疲れ果てたネオンは次第に眠りにつき始めた。


ちょうど良い時間だった。

朝が来る前には、部屋を出ようと思っていた。同時に、夜の内には街を歩きたくないとも。


上着を羽織り、財布を手に歩き出したところで、ふと、彼は苦笑した。

そして振り返り、ベッドの上の恋人にそっと口付ける。温もりの失われた感触が、少し残念だった。


灰皿に残されていた手付かずの煙草を手に取り、彼は部屋を出た。

後には冷たい吸い殻だけが残った。

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