第4話 つゆ消えず

 私は道案内をしつつ、少年と歩いた。時々「雨、止まないね」といった他愛のない話をしたけれど、殆どの時間を2人は黙って歩いた。

 なぜか少年といると沈黙が嫌でなくなった。あまり仲良くはしていない友達なら喋ってないと気まずくて、すぐにくだらない事をペラペラ喋ってしまうところなのに。少年との間に流れる空気は、親友同士のそれと何ら変わりはない。むしろそれ以上だった。

「君は何年生?」

 少年が口を開いた。あの曲がり角を左に曲がれば、おばさん家。今日は母がいない日なので、おばさんの家に泊まるのだ。お隣同士というだけなのに、おばさんは私と母さんにいつもよくしてくれる。

「3年生だよ、あなたは?」

 いつのまにか砕けた口調で話していた。砕けた口調だけれど、未だに名前を聞けていない。私が悶々としていると、少年はこちらを向いて「僕も」と言った。私の顔のすぐ近くに少年の顔がある。背丈があまり変わらないのと傘が小さいのとで、距離が近い。思わず顔を伏せた。覗いた水たまりに丸い波紋が次々と映って消えた。

「…着きました」

 名残惜しく感じてしまって、ほんの少しだけ家路を遠回りしていた事実は、私だけしか知らない。でも、それでももう少し遠かったらいいのにと思わずにはいられなかった。

「……ここが?」

 少年はおばさん家をじっと見ながら、絞り出すように声を出した。ただの一軒家で、この辺では珍しくない。だから、そんなに驚くほどの家じゃない。

 少年は相変わらず家を見つめたままである。私は少年の横顔を見つめていた。

「あ、名前を聞いていなかったね。」

 あまり不自然でないように、神経を使いながら私は作り笑いをした。昔から作り笑いが苦手なのだ。いつもバレてしまう。

 でも、大丈夫。少年とはさっき会ったばかりだから気付かれまい。

 少年はようやく家から目を離した。そして、私の方を向き直る。……何も笑っていなかった。ただ真剣な表情をして、私をじっと見ていた。黒目がちな目がやけにぼけっとしている様子の私を捉えていた。慌てて視線を外すと、少年は小さく声を上げて笑う。

「内緒。君が先に言ってよ」

 こんなにいたずらな微笑みは初めて見た。私はまたしてもドキドキしつつ、声に出した。

「逢坂 美里。逢う、坂で逢坂。美しいに里って書いて美里。」

 何も文字まで教えなくてよかった。なんだか厚かましい感じ。言った瞬間後悔したけれど、少年はそんな事気にはしてない感じだった。

「みさと……」

 君から美里へ。呼び方が変わっただけなのにこんなに新鮮なのか。少年の声がリフレインされて、なんだか緊張してしまう。

「……」

 少年が何か言った途端に、私たちの横を車が通った。ばしゃばしゃといらない水飛沫が飛びかかる。少年がとっさに私を家の玄関の方に寄せたので私は濡れなかった。しかし、少年の背中に飛沫がかかってしまった。

「ごめんなさい、今何か言っ……あ、制服が!」

「いや、いいんだ。僕の家ももう近いからやっぱり走って帰るね。傘入れてくれてありがとう!」

 ズボンの裾に泥が付いた制服をそのままにして、少年は私が呼び止めるのも聞かずに走って行ってしまった。あっという間だった。伸ばしかけた腕が宙を切る。手の甲に雫が一粒乗った。

 結局名前を聞くことはできなかった。

 その事が、とても残念に思えた。

 玄関先で雨はまだしとしとと降り続いていた。



「ただいまー」

 ずっと玄関に立っていてもしょうがないのでおばさん家に入った。家でするように挨拶をすると、スニーカーを脱いだ。スニーカーはおろか靴下も雨でぐっちょりと濡れていた。後で乾かさなきゃと思いつつ、濡れて肌に張り付く白い長靴下を引き剥がす。

「おかえりなさい…ってまぁ、こんなに濡れて。遅かったけどどこで道草食ってたのよ?」

 ある時期よりはふっくらしたおばさんがパタパタと迎えに来る。嗜めるような口調なのに、顔はとても笑顔だ。多分本気で怒ってはいないのだろう。

「傘を忘れた友達を送ってきたの」

 大部分が嘘。相手は傘を忘れたのではなく持っていなかったし、送ってきたのではなく送ってもらったのだ。唯一合っているのは、合っているのは、友達の部分だけ。一度会ったきりなのに、私は少年の事を友達だと思いたくなってしまうほど、少年の隣は居心地が良かったのだ。……もしも、少年も私の事を友達だと思ってくれるなら、こんなによい事はない。

「へぇーそうなの。先に風呂入って」

「はーい」

 おばさんは私の嘘に気付くはずもなく、パタパタと茶の間に戻った。奥から聞こえてくるおばさんの叱る声から、翔太がゲームをしているのがわかる。翔太が小さい時は何をしてても私の側にべったりだったのに、今じゃゲームに夢中で話しかけてこない。あの頃の私は酷かった。大切な人を亡くしたばかりだったから、何も知らない翔太の事を『似ている』という理由だけで遠ざけていたから。今の翔太が素っ気ないのは、きっとそのせいなのだ。

 今の私は明日が楽しみで仕方がない。図書館にいたら、また少年に会えるだろうか?放課後は部活で無理だから、昼休みか。

 何を話せばいいだろう?

 でも、もっと仲良くなったら、いつかは少年にお兄ちゃんの話ができたら良いな。

 そう思いながら、私は何気なくちらりと玄関の飾り棚を見た。沢山並べられた写真。今日はなぜかある1枚に目がいった。



 ーーそれは昔に撮った写真だった。まだ小学生に上がる前の私と生まれたばかりの翔太と……お兄ちゃん。私は輝かんばかりの笑顔で後ろからお兄ちゃんの首に腕を回している。座りながら翔太を抱っこしているお兄ちゃんは、困ったように笑っていた。数十分前に見たのと、同じ笑顔だ。


 少年が、その中にいた。


「え、おにい、ちゃん。……お兄ちゃん!!」

 居ても立っても居られなくて、さっきまでさしていた傘を手に取るのももどかしく、冷たいスニーカーに素足を入れて私は家を飛び出した。



 なんで気が付かなかったんだろう。

 10年前とは言っても、私はずっとお兄ちゃんのそばにいたのだ。写真を見なきゃ細かな顔の部分は思い出せないと言っても、そっくりな人が現れれば普通気付くだろう。そして、大好きなお兄ちゃんであればすぐに声をかけた。

 ーーいや、すぐに声はかけたのだ。それでも気が付かなかった。

 ヒントは沢山あった。少年が話していた女の子。あれは私だったのだ。紫陽花のそばに立って、黄色いレインコートを着て、ずっとお兄ちゃんの帰りを待っていた。こんなに忠犬ハチ公みたいな女の子は私の他にいない。

 どうして気が付いてあげられなかったのだろう。きっとお兄ちゃんは、最終的には私が誰だかわかったはずだ。あの頃と大して変わらない、懐かしの実家にたどり着いたのだから。

 そして、過去に何度も呼んでいた私の名前を本人の口から聞いたのだから。



 あの時あの雨の中でお兄ちゃんが呟いたのは、まぎれもない私の名前だ。小さい頃、よく呼んでいた愛称。お兄ちゃんは困った顔で言ったのだ。

 みいちゃん、と。

 なんで、自分の名前を言ってくれなかったの?お兄ちゃんが名乗ってくれれば、わかったはずなのに。……いや、お兄ちゃんが責められるべきではない。

 責めるべきは私だ。

 お兄ちゃんのこと大好きとか言いながら、すっかり心に留めていなかった。

 忘れたくはなかった。ずっと。でも、そんな気でいただけだった。

 生きてる人間の自己満足に過ぎなかった。お兄ちゃんの存在を、私はいつしか心の中心から消していたのだ。



 雨が私の髪を、顔を、服を、身体中を包む。まるで雨と一体化したようだ。今は雨音も私の足音も息も、走り去る車の音も、何も聞こえない。ただ、交差点に向かって走った。



 やっぱりお兄ちゃんはそこにいた。昔さしていた黒い傘を持って。紫陽花の側で紫陽花を見下ろしていた。

 あの黒い傘はお兄ちゃんが亡くなった日に無くしてしまった。風で飛ばされたらしいが、傘がない事に気付いたのは私だけだった。どこを駆け回っても無かった傘が、お兄ちゃんの手にある事をちっとも不思議に感じなかった。

「おにいちゃん!!」

 ありったけの力を振り絞って叫んだ。お兄ちゃんはゆっくりと振り向く。黒い傘と黒い服のお兄ちゃんは薄暗闇に溶け込んでしまいそうだった。周りに人はいなかった。私と、お兄ちゃんだけがいた。

 信号が赤に変わり、私はやむ終えず立ち止まった。車もいないし、一刻も早くお兄ちゃんのそばに走り寄りたいけれど、信号無視する私を見たらお兄ちゃんはなんと言うだろう。そう考えると、私は急に全速力で走って震えが止まらない足を無理矢理に急停止させたのだ。でも勢いが止まらなくて、二、三よろめく。お兄ちゃんは横断歩道の向こう側へ歩く。いつものように穏やかな顔をしていた。


 1分さえ長く感じる。青になった瞬間に私は駆け出してお兄ちゃんに飛びついた。幽霊なはずのお兄ちゃんは、私を抱きとめた。よくドラマや漫画であるように、通り抜けたりしない。それが不思議だったけれど、今は嬉しかった。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん。ごめんね。ごめんなさい……」

 通り抜けはしないが、お兄ちゃんの体に温もりはない。ただ冷たい感触が伝う。それでも私はお兄ちゃんにしがみついた。頬をお兄ちゃんの髪がくすぐって、心地よかった。

「覚えててくれたんだね、みいちゃん」

 耳に慣れたお兄ちゃんの声。今ならわかる。

「ごめんね。ごめんね、お兄ちゃん。わたし、わたし覚えていなかった……お兄ちゃんの顔も、姿も、声も……」

「いいんだよ、みいちゃん、仕方ないよ」

「仕方なくない!!わたしは……お兄ちゃんのことまた傷つけちゃった……あの日も、お兄ちゃんを待っていれば、お兄ちゃんはきっと」

「みいちゃんのせいじゃないんだよ。誰のせいでもない。……父さんのせいでも、母さんのせいでもない。だからね、泣かなくていいんだよ」

 私の頭をゆっくりと撫でながら、お兄ちゃんは小さい子に言い聞かせるように言った。しゃくり上げる背中に回された手に、私は恋慕が思慕に変わるのをゆっくりと受け入れた。



「……ねぇ、みいちゃん。僕は幽霊なんだけど、みいちゃんは怖くないの?」

「怖くなんかないよ。お兄ちゃんだもん。……ずっと前から会いたかった」

 今し方すっかり忘れていた相手に、『ずっと前から会いたかった』と言うのはバツが悪かった。この気まずさをお兄ちゃんは知っていたのか、小さく笑った。

「実は僕もね、はじめはみいちゃんだって分からなかったんだ。気がついたらこの紫陽花の所に立っていて、まだ明るかったからみいちゃんが来るかなと思って待っていたんだ。ーーみいちゃんが昔僕を待ってくれていたように、ね。でも、待ち続けるのは大変なんだね。相手が来るかどうかなんて分からないのに。僕は甘えていたんだなって、今更気が付いたよ。でも」

 お兄ちゃんは一旦大きく息を吸った。

「でも、みいちゃんは来てくれた。独りぼっちだった僕を見つけてくれた。最初は知らない女の子がいきなり話しかけてきてびっくりしたんだけど、傘をさしかけてくれる優しい所とか、歩き方とか、話す言葉とか、なんとなくみいちゃんに似ているな、って。同年代の女子とあんまり話さなかったから、顔見るの恥ずかしかったんだ。でも、チラッと横顔は小さい時の面影が少し残っていて、それで確信したんだ。随分と大きくなったね」



 話している時、ずっと私はお兄ちゃんにしがみ付いていた。お兄ちゃんはずっと私を抱きしめて傘に入れてくれていたが、言葉を区切ると片手でグイッと私を引き離した。バッチリ目があった。何度か少年と目があった気がしていたけれど、よく思い返せば少年はいつも私の首元を見ていた。変な意味じゃなくて、恥ずかしかったからだったのかと知って少し頰が火照った。

 今度こそ、お兄ちゃんと私は見つめ合った。

「綺麗になったね。正面から見ると、余計に」

 お兄ちゃんは昔のように穏やかに微笑んでいた。社から上がるとがようやく止まったのに、また涙が出そうになった。しばらくお兄ちゃんと見つめ合っていたが、急に思い出した。

「あ、そうだ!お兄ちゃん、翔太がね12歳になったんだよ。来年で中学生なんだ。おばさんもおじさんもとても元気にやってる。……お兄ちゃんが死んじゃった時は、2人ともすごく悲しんでいたけどね。今は元気になってるから、大丈夫だよ!あ、あの時お兄ちゃんだって気付いていれば、会わせてあげられたのに」

「ううん、大丈夫だよ。実はみいちゃんを待つ前に見に行ったんだ。家でテレビを見ていた母さんと、帰ってきた翔太と、会社で働く父さんを。みんな元気そうで何よりだね」



 お兄ちゃんは少し寂しげに笑った。

 少しずつお兄ちゃんの姿が薄れていく。私は焦って無我夢中でお兄ちゃんにかける言葉を探した。

「お兄ちゃん!」

 思わず叫ぶと、お兄ちゃんは泣きそうな顔で笑った。こんな時に無理して笑わなくていいのに。歯がゆい思いに浸る暇もなく、私はお兄ちゃんに呼びかけた。

「お兄ちゃん!私、もう絶対にお兄ちゃんの事忘れないよ!」

 お兄ちゃんは少しだけ目を大きく開いた。そして口角を上げてゆっくりと頷いた。

 どんどんとお兄ちゃんの影が薄れていく。

 掴んでいた腕も、もう感覚がない。

 話したい事は山ほどあるのに。

 咄嗟に出てきたのは、1番ありふれていて、1番当たり障りのない言葉だった。

 それでも、私はお兄ちゃんに必死に叫んだ。

「お兄ちゃん!今までありがとう!ずっと、ずっと大好きだよ!!」

 さっきから泣きそうに笑っていたお兄ちゃんの口元が少し曲がった。お兄ちゃんの泣き顔を、お兄ちゃんが死んじゃってから見るなんて。お兄ちゃんの顔が崩れた。

「僕もだよ!ありがとうみいちゃん。僕もみいちゃんの事……」

 言われなくても分かった。

 最後までとても優しくて、暖かくて。最後に見たお兄ちゃんは幼い子供みたいな泣き顔だった。



 こうして、お兄ちゃんは光になって空へ消えて行きましたーーとはならなかった。


 お兄ちゃんはまるで闇に溶け込んだかのように居なくなってしまった。天使に連れて行かれるのかと思った私は、さっきまでお兄ちゃんがいた空間を指先でなぞった。後に残されたのは、黒い傘と私だけ。

 その黒い傘も、先程横から吹いてきた風に飛ばされてしまった。せっかくお兄ちゃんが残してくれた物だったのに。私は中途半端に手を傘が飛ばされて行った方向に伸ばしかけた。傘をみすみす闇に持ち去られてしまった。探しに行こうにも、街灯の明かりの外は真っ暗で何も見えなかった。無言で傘が去った方向をキッと見つめた。



 時が経てば感情が薄れて記憶が曖昧になってしまうのか?

 そんな事、知った事か!

 今度は、決して忘れまい。絶対にだ!


 見上げた信号は丁度赤から青に変わった。

 2、3秒黙って見上げた後、ようやく私は白線に一歩を踏み出した。

 もう、決して忘れまい、誓おう。


 この身がぼろぼろになって、果てるまで。そして、お兄ちゃんがいる所に向かうまで。


 この胸に抱く気持ちを、覚えておこう。そして、いつか伝えるのだ。


 大袈裟だとは感じなかった。ただ、お兄ちゃんと同じ所へ行くには、信号無視はあまりしない方がいい。

 私は残る体力と気力を絞って駆け足で帰った。きっとおばさんも翔太も心配しているだろう。後で謝らなくてはいけない。


 水分を多く含んだ雨上がりの風が、重たいながらも優しくそっと私の背中を押した。



fin.



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つゆ消えず 風都 @futu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ